既に日は暮れて、不気味なほどの静寂が辺りを包んでいた。動くものといえば風が揺らす木々と草だけで、そのざわめきすら、声を潜めるかのように静かなものだった。今までは仲間たちが大騒ぎをしていて嫌になるくらい賑やかだったというのに、と、一人テントの外の石に座るクロウは思った。
 夜空に架かっている月はぼやけていて、輪郭を読み取ることができない。いや元々月とはそういうものだったのだろうか。どちらにしろクロウはこんな夜は眠れない性質だった。ひたすら夜空を眺め続け、明け方ごろになってようやくテントや宿屋に戻る。
 眠れない日があるから彼は日中に他の仲間のように騒がないし、多くを語らない。無駄に動けばその分体力を消耗する。寝ていない彼にとって、戦闘時までとっておくべき体力を消耗するのは自殺行為だ。たっぷりと眠り、有り余るほど体力がある他の仲間とは違う。
 なぜ自分が眠れないのか、クロウは薄々ながらに知っていた。恐怖すら駆り立てる壮絶に美しい微笑、その甘い吐息は世界を少しずつ腐らせ、笑い声は聞く者の死を予感させる。魔王と呼ばれるそれは、現在クロウの所属する隊が討伐を目指す存在であり、また過去に彼が仕えていた存在だった。時折脳裏をちらつくその影に、クロウは否定のできない怯えを感じていた。いくらブロントたちの側についたといっても、魔王の傘下にあったという事実は変わらない。その時の自分は魔王の危険な美しさに魅せられ、操られていたのだと言っても過言はないのだ。またいつかこちらの人間たちを裏切って、魔王の元に寝返ってしまうのではないか。そんな恐ろしい不安がいつも彼の中で蟠り、混沌としたもやとなって彼の顔に暗い影を落とした。
 その時、不意に、物音。この辺りに夜行性のモンスターはいないはずだが有り得ないわけでもない。考えるよりも先に手が動き、短剣を構えて音のした方に身体を向けた。
「――……!」

 そこにいたのは、月の女神だった。

「……? クロウ、さん?」
 ――いや、違った。身体を向けた先にいたのは、心配そうな顔で小首を傾げた美しい少女だった。緩いウェーブのかかった金髪は揺らめく水のように月光を受けて輝いている。白い肌には戦闘による小さな傷がいくつもついているが、すべらかで肌理細かい。長い睫毛に縁取られた青い瞳は底知れぬ深淵を潜ませ、桃色の小さな唇は微かに開けられ、白い息を吐き出した。そのまるで神に作られたかのように美しい少女は、テミといった。クロウの仲間のひとりである。
 今夜のおかしな月が彼女を女神のように見せたのだろうか。クロウは勘違いをした自分を恥じ、テミから目を逸らした。しかしテミはそれに気付かなかったのか、ふわふわと髪を揺らしながらクロウに近付く。
「あの、起きたら、クロウさんが見張りをしてくださってて」
 仲間になって日が浅いクロウに対して緊張しているのか、しかし一生懸命に自分の意思を伝えようとしている。
「それで、これ、良かったら……」
 その時初めて、クロウはテミが手にマグカップを持っていることに気付いた。差し出されたそれにはほのかな甘さを漂わせるココアが入っている。クロウは普段甘いものを摂らない。しかしそれだけでテミの好意を断るのは何となく申し訳ない気がして、クロウはそのカップを素直に受け取った。
「すまない」
 ありがとうと言おうと口を開いたのにも関わらず、出てきたのは無愛想なセリフだけだった。その体たらくに舌打ちしたいのを堪え、クロウはココアを啜った。
「……美味い」
 一言、そう言うのがやっとだった。クロウはくるりとテミに背を向けるともう一度石に座った。顔が少し熱い。ココアのせいではないことは自分でわかっていたが、他の理由が見つからない。
「あの」
「なんだ」
 クロウが何も言えずに黙っていると、テミが控え目な声を上げた。どくりと跳ねた心臓に戸惑いを覚えながら返事を返す。テミが何事か話し始めるまでの一瞬は、クロウにとって永遠にも思える時間だった。さわりと吹く風にすら、柄にもなく焦った心情をからかわれているのではないかと思うほどに。
「大丈夫です」
 びくりとクロウの肩が跳ねた。まるで心を見透かしているのような言葉と声音。怯える子供を宥めるように、慈しむように、その温かな言葉はクロウに届いた。
「私たちは仲間です」
 テミの言葉は続く。彼女は今何を見ているのだろう。震えているように見えるクロウの肩か、それとも他の誰かに気取られぬよう厳重に隠された、胸の奥の微かな恐怖なのか。クロウには到底分からない。
 テミは拳を胸の前で握り合わせ、切なく、それでいて暖かい目でクロウを見ていた。顔を上げることのできないクロウにはわからなかったが、その大きな目には涙が薄っすらと膜を張っていた。何がこんなにも彼女の心を締め付けるのか、彼女自身わかりはしなかっただろう。それでも彼女は言った。

「私たちは、仲間です」

 泣きそうだった。自分よりも遥かに幼く見える少女の言葉だというのに、クロウは泣きそうだった。不安も、恐怖も、全てを許されたような気がした。涙にも似た温もりが胸の奥から溢れて体全体に広がっていく。あたたかい、と思ったのは、マグカップの熱だけではなかった。
「あの」
 またテミが控え目に声をかける。一瞬の逡巡の後、彼女の気配がゆっくりとクロウの横に移動した。触れるか触れないかの微妙な間を空けて、テミがクロウの隣に座る。心臓がうるさい。聞こえてしまったらどうすればいい。
「あの、一緒に見張りをさせてくれませんか」
 はにかみながら、テミがクロウを見て言った。その言葉にまた胸が暖かくなって、クロウは初めて優しい笑みを浮かべた。