快晴。嵐の通り過ぎた空は激しい雨風に洗われてすっきりと晴れている。雲一つない、どこまでも青いその空を、軽やかに吹く風があった。それは突然加速したりくるりと一回転したり、まるで遊ぶように動いている。時折、その透明な中に人影のようなものがちらついた。雲の衣、空の髪。透き通ったその肌は人のようで人でない。それは風の精霊だった。
 風はひとしきり遊び終えると、ふうっと高度を下げていった。大きな大陸が見えてくる。風の精霊の生まれ故郷である。その大陸では、人と獣、精霊と魔物、人知と神秘が、いまだ分かたれず混沌とうごめいていた。荒々しく、生命力にあふれた大陸。風はこの大陸が好きだった。
 きらめく海の上を吹き抜けて、風は海岸へと近付いていく。長く伸びる白い砂浜がまだ起き立ての太陽を反射して輝いている。しかし、その砂浜は、いつもと少し様子が違うようだった。
「……!」
 風はひゅるん、と一回転して止まる。小さな竜巻のような形になりながら、砂浜の様子をまじまじと見る。真っ白な砂の上、黒いものが点々と打ち上げられている。風には、この光景に見覚えがあった。人間の作った船。それが、壊れてしまった姿だ。
 人間は小さく弱いが、何代にも渡って知識を受け継ぎ、獣や魔物に匹敵する力を身に着けて生きていく種族だ。彼らは海の上に長くとどまる方法も編み出している。船と呼ばれるものに乗って、彼らは海をも自由に駆け回った。しかしそれでもなお、自然の力――つまり、精霊たちのことだ――には敵わない。嵐。荒波。暴風。人間たちの自慢の船は、木の葉のように弄ばれ、ついにはぐしゃりと壊れてしまう。あの黒い木切れの残骸も、昨日の嵐に耐え切れなかった船の末路であろう。
 風は少し考えた後、突風になって波打ち際まで近付いた。それから速度を緩め、波が砕けるのに沿ってゆるゆると吹く。どんな船なのか、見てみようというのだ。砂浜に打ちあがっているのは、船の腹をつくっていた板切れが大半のようだった。浅瀬に船員の荷物が散り、少し沖に目をやると太い柱の折れたのや竜骨らしい木が、無残な様子で岩に引っかかっていた。人間が作ったのにしては大きい船だなあ。風は感心した。どれくらいの人間が乗っていたのだろう――そう考えた時、風の目にあるものが映った。
「?」
 木切れとは違う、何か。興味をひかれ、風はひゅうっとそれに近付いた。
「!」
 それは少年だった。夜の深海のように黒い髪の、幼い少年が横たわっているのだった。
 風は、もっとよく見ようと降りていく。透き通っていた体が実体をもって、しかし質量を感じさせない軽さで、ふわり、少しだけ砂を散らして砂地に降り立った。やわらかな曲線をその体にたたえた、美しい女性が、屈みこんで少年を見つめる。
 少年の肌は、元は健康的な色だったのだろうが、今は青ざめてしまっている。手足はぐったりと投げ出され、末端が氷のように冷たかった。目は閉じられたまま。胸の上下も、呼吸の音も、驚くほどかすかで弱々しい。恐らくは、この壊れた船に乗っていた人間の一人だろう。あの嵐から生き残ったのだ。見れば、少年の腕の下に手ごろな大きさの木切れが転がっている。これに掴まって、稲光ひらめく空の下、猛威をふるう波と風に抗い、死にもの狂いで泳いだのだろうか――風はぼんやりと、少年のあがきを思った。少年はやがて意識を失い、流されるままに海を漂う。幸運なことに、沖へ連れ去られることも海洋生物に捕食されることもなく、彼は海岸まで辿り着いた。しかし彼の命運は、そこで尽きてしまったのだ。このまま放っておかれたら、彼は間もなく死ぬだろう。精霊である風にも、それは何となく理解できた。
「…………」
 細い指が、少年の冷えた頬をたどった。風は彼の生命を儚み、苦痛と悲しみに歪んだ顔を憐れんだ。長いような短いような時間、風は考え込んだ。そして風は、決めた。

 少年の膝に口づける。その脚が力強く大地を蹴るように。
 少年の腕に口づける。その手が光り輝く未来を掴むように。
 少年の胸に口づける。その心臓が火の熱さを取り戻すように。
 少年の唇に口づける。その言葉が母なる海の優しさを持つように。
 少年の瞼に口づける。その目が嵐の闇夜の悲劇を忘れないように。
 そして、少年の額に口づける。彼が風の如き心で生きられるように。

 風がふわりと少年の額に口づけた瞬間、彼の漆黒の髪が、さあっと青く変色した。風が舞い踊る朝の空の色、鮮やかなブルーの髪。
 その時、ビョオオ、突風。砂が舞い上がり、精霊の姿を隠してしまう。そして砂が落ち着いた時、そこに風の精霊の姿は既になかった。しかし、風の精霊がそこに存在していた証拠が、はっきりと残されていた。少年の頬に赤みがさしていた。胸も深く上下し、呼吸が正常であることを示している。手足も強張りが解けた。彼はもう、瀕死の少年ではない。暖かなベッドでそうするように、ただ眠っているだけだ。その表情は穏やかなものに変わっていた。風の精霊の祝福が、彼を生かしたのである。
 彼はいずれ目覚め、海に近い村の住人に発見され、保護されるだろう。彼はやがて自らの境遇を理解し、肉親を失った悲しみに震えるだろう。その青い髪を、惨劇の象徴として忌み嫌うだろう。村人たちも、残酷な嵐の爪痕としてその青い髪を撫ぜるだろう。少年は名をブルースといった。いずれ魔王討伐隊に所属する神速の弓使いとして、その名を馳せる少年だった。そしてまた、風の精霊が深く愛した最初の人間でもある。彼の青い髪は精霊の祝福の証だ。彼は生涯、そのことに気が付かない。


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精霊ズ、もとい風ちゃんを愛するきーろさんへ。お誕生日おめでとうございます!
本作品はきーろさんのイラスト(風ちゃんがブルースの額へキス)からイメージを得て作成いたしました!すみませんすみません!お慕い申しております!