りん、と鈴が鳴った。高く澄んだ音は愛らしく震え、心地よく耳を打つ。濡れたような光沢をその曲面にたたえたこれは、今年作られた中で一番出来のいいものだった。私はそれを、細長い布でくるむ。真っ白な布には、小さな花が散らされている。白い部分が見えなくなるほどびっしりと、朱色の花が咲いている。それらは非常に規則正しく配置され、複雑な幾何学模様を作った。花を敷き詰めてできたその紋は、私の家に代々伝わるものだ。母から娘へ、脈々と連なる花の系譜。朱色の糸でのみ刺繍を許される紋。それは花嫁の衣装にのみ使われる。
 花嫁の衣装を作るのは、他ならぬ花嫁自身でなければならない。草を刈り、打ちほぐして糸を作り、機を織る。特別な花を探し、糸を染め、干して、鮮やかな朱色に仕上げる。それから何か月もかけて、布に模様を縫いこんでいく。全ての工程を、たった一人で行わなくてはならなかった。これには、子どもから大人になるための儀式という意味もあるのかもしれない。誰かから聞いたわけではないが、衣装を作らず、結婚していない女性は、村では一人前とはみなされないように思える。
 ……結婚。この作業を儀式とするなら、その締めくくりは結婚をおいて他にないだろう。二人の結婚は村全体をあげて祝われる。三日三晩、長いときは四日以上、用意した料理や酒がなくなるまで婚礼の儀式は続く。婚儀に訪れる村人は、誰も彼もが鈴を持つ。一つ一つの鈴の音は小さいが、百数十人分のそれは大きなうねりのように響いた。踊りが始まれば、その音は一つの音楽を為す。花嫁ももちろん、鈴を持つ。髪飾りに縫いこまれた鈴は、一際美しく鳴る。
 私が作っているのはそれだった。鈴をくるんだ布をねじりながら袋状に縫い上げ、ところどころに別の布を詰める。鈴が入っているところがわからないようにするためだ。私の花嫁衣裳はこの髪飾りで完成だった。私は不器用な方だから、少し遅くなってしまった。昨日までは母が隣で見てくれて、そうじゃない、違う、とうるさく指導していたけれど、今日は一度も声をかけられていない。もしかしたら、母なりに気をつかってくれているのかもしれなかった。

「……できた」
 糸を切り、髪飾りを両手に掲げる。ためつすがめつして、刺繍の失敗した部分がねじれに隠れたことを確認し、ほっと息をつく。これなら、母も面目が立つだろう。娘の失態は親、特に母親の責任とされる。ただでさえ苦労性の母に、この上娘の尻ぬぐいまでさせるのは申し訳がない。
 髪飾りを、畳まれた衣装の上にそっと置く。髪飾りは二つ。どちらに鈴が入っているのかは一見するとわからない。本来は一つきりのものだが、私は髪を二つに分けて結ぶのが好きだからそうした。お揃いの髪飾りは、使われるのが待ちきれないとでも言うかのように、衣装の上を転がった。
「……」
 ふと、衣装を着てみたくなる。明日が待ちきれないのは、私も一緒だったらしい。子どもじみた感情だが、明日まで私は子どもなのだ。少しくらい許されるだろう。
着ていた野良着を脱ぎ、畳む。衣装は刺繍が入っているぶん重いが、それが逆に高揚感を誘った。袖に腕を通す。裏地がなめらかに肌をすべる。膨らんだ袖は特別なもの。鼓動が一気に跳ね上がる。胸の前で布を掻き合わせ、釦をかける。帯をとり、胸の下で縛った。背中に腕を回すが、思ったほど上手く結べない。明日の本番、美しい形に結ぶのは、母に任せた方がいいかもしれない。自分の不器用さを改めて実感し、苦笑する。
 裾を直し、下衣や沓を履き、最後に髪飾りを手に取る。ほどいた髪を乱雑に編み直し、髪飾りでくくる。動かすたび、りん、と鈴が鳴く。静かな室内に、布同士のすれ合う音だけが大きい。しゅる。しゅる。余った布を首筋まで垂らす。顔を上げた。

「まあ」
 母の声だった。仕切り布をたくしあげた母が、ぽかんとこちらを見つめていた。
「ど、どうかな、お母さん」
 少し恥ずかしかった。母がおそるおそる、部屋に足を踏み入れてくる。仕切り布がぱさりと床を叩いた。
 母は笑っているのか泣いているのか、よくわからない形に顔を歪め、私をつま先から頭のてっぺんまで、まじまじと見つめた。母は何も言わない。私の心臓ばかりがうるさく踊っている。
「あなた、」
 母の声は震えていた。
「あなた、こんな……」
 母のひび割れた手が、頬を撫でた。冷たい手は、幼い日のそれと少しも違わない。ずっと、私を慈しみ、守ってくれた手だ。
「こんな……綺麗になって……」
 皺の刻まれ始めた母の目尻に、涙が盛り上がった。
「なに、もう、泣かないでよ」
 私の頭を包み込むようにして泣く母の涙を指先でぬぐう。
「だって……あんな、小さくて、泥だらけだったのに、」
「いつの話? 私、もう十六よ」
 そう言って笑った。笑ったはずなのに、口の中に塩辛いものが流れ込んでいた。
「ああ、みっともない、せっかくの服が染みになるじゃない」
 自分も泣いているくせに、母が野良着の袖で私の顔をぐいぐいと擦る。せっかくふいてもらっても、後から後から涙があふれて止まらない。
「ご、ごめんね」
 どもりながら謝る。
「どうして謝るの」
「あんまり……出来のいい娘じゃ、なくって」
「そうねえ」
 母がへたくそな笑顔を作る。
「お転婆で、いつも傷ばっかり作って……ねえ」
「あは、は」
「お母さん、いつも怒ってばっかりでね」
「うん」
「でも……でも、こんな、」
 母はもう、それ以上声にならないようだった。床に二人分の涙が落ちては消えていく。幸せになるのよ。そんな言葉が聞こえて、私は悟った。
 明日、花嫁になるのだ。

 母は元々、私を訪ねてきた人のことを伝えに来たらしかった。来訪者の名を聞き、衣装を脱いで外に出ると、黒髪の青年が所在無げに立っていた。彼は私の姿を認めて一瞬笑みを浮かべたが、すぐに心配そうな表情になる。
「大丈夫か? 目が……」
「ううん、平気よ」
「ん、そっか」
「それよりどうしたの? お昼はとっくに過ぎたのに」
 昼食と休憩のため、一旦家に帰っていた人たちも、このくらいの時間になれば各々畑や森に戻っていくはずだ。夏が近づいて日差しが強まり始めた今の季節、外をぶらぶらしている人は少ない。辺りを見渡しても人がいないのはそのためだ。
「散歩、行かないかと思って」
「お散歩?」
 彼には珍しく歯切れが悪い。俯いた顔を覗きこむと、彼は観念したように溜息をついた。
「親父が、結婚式前日に相手を放っとく男があるか、って」
「ふふっ、なによそれ」
「知るかよ」
 そう言って彼は、困ったときにいつもするように、大きな手で頭をがしがしと掻いた。
 私の結婚の相手はこの青年だった。少し年かさの、幼いころからいつも一緒に遊んでいた気安い人。なまじ近しい相手だったせいか、この人と結婚するのだという実感は、婚約した当初はまったくわかなかった。
「ほら、行こう」
 彼は半ば強引に私の手を握り、歩き出す。いつまで笑ってるんだ、という声はぶっきらぼうだが、それは無邪気な照れ隠しに違いなかった。うん、ごめん、と軽く謝ってから、彼の隣に並んで歩き始めた。

 この村の東には、高い山が雲を貫いて立っていた。そこから南北両方向に、低い山々がいくつも峰を作りながら連なっていて、その間、西に向かって緩やかに下る斜面にこの村はあった。斜面をずっと下ると大きな平野が広がり、そこをさらにずっと行けば王のおわす王都につく。
 私は王都に行ったことがない。私が知っている王都は、たまに布を買い付けに来る行商人から聞いた話の中の王都だ。王都の夏はそれは蒸すのだという。しかし優秀な宮廷魔法使いがいて、彼が希少な金属で作らせた魔法の箱のおかげで、王宮だけはいつも涼しいとも聞いた。きらびやかな街並みを想像し、いつか王都に行ってみたいと夢を膨らませたこともあったが、今の私にとってはさほど魅力的ではなかった。
 村を抜け、湾曲しながら斜面をのぼっていく道に沿って歩く。その先は南の森だった。木漏れ日が、彼の浅黒い肌にまだら模様を作って遊んでいる。草や花、獣、水、土の香りが一緒くたに混じりあった初夏の風が、常に私たちの間を吹き抜けていた。鮮やかな葉をいっぱいに茂らせた枝をぐいとかき分け、彼は進む。
「あ」
 目の前に小さな川が現れて、思わず声を上げた。周囲の木はあまり密集しておらず、強い日差しが葉の間を縫って、ところどころに咲いた小さな花々を照らしている。風が吹いた、と思うと、花の陰から白い蝶が飛び立った。水面にきらりと光が走るのを見ると、川にはどうやら魚がいるらしい。水の流れるさらさらという音が、優しく耳を撫でた。
 まるでおとぎ話のような光景だ。見とれていると、彼がまた手を引いてくる。首を巡らせると、彼は川のほとりに並んだ石に腰かけていた。
「座らないのか」
 首を傾げる彼にううん、座るよと返して、隣に腰をおろす。二人で座るには石が小さすぎるのか、肩同士が触れてしまう。布ごしだというのに、触れ合った部分が妙に熱っぽい。
「二人で遊びに来たよな」
「私、二人だけの秘密基地のつもりだった」
「俺もだ」
 顔を見合わせて笑う。道からそれてすぐの場所なのだから、大人が知らないはずはないのに。
 魚を獲ろうとして転び、びしょ濡れになった服を石の上で乾かしたこと、蝶を追いかけて木に登ったら降りられなくなったこと。花を摘んだり、追いかけっこをしたり、蛇を捕まえたり、色々なことをした。
「お前、よく言いつけ破って遊びに来てたよな」
 彼が悪戯っぽい笑みを浮かべる。私もそんなこともあったね、と笑った。ほんの数年前のことなのに、懐かしく思い出すのは何故だろうか。
「後ですっごく叱られてたよ」
「それ、俺も巻き添えで叱られてたんだぞ」
「あれ? そうだっけ?」
 そういえば、母に叱られて首をすくめている横に、誰かもう一人いたような気もする。
「お前のせいなのに、忘れたのかよ」
 ちょっと呆れたような、すねたような彼の顔がなぜか可愛くて、ふき出してしまう。
「ふふ、覚えてないもん」
「なんだよそれ」
「さあ?」
 はぐらかすと、彼がぐっと顔を近づけてきた。
「本当に覚えてないのかよ」
「本当だって! 覚えてな、」
 その先の言葉は、彼の火照った唇に飲み込まれた。触れ合うだけの優しい口づけに、くらりと頭が揺れた。彼の腕が背中に回って、ぐらついた体を支えられる。いつの間に、こんなにたくましくなったのだろう。目を閉じる。彼の体温に溶けてしまいそうだった。聞こえるのは、彼の心音だろうか、それとも私のものだろうか。

 それからすぐに、唇も腕も、私を解放して離れていった。
「ごめん」
 消え入るような声で呟いた彼の頬は、少しだけ赤らんでいた。
「別に、いいよ」
 息が詰まりそうなのを耐えながら言う。触れたままの肩が熱くて苦しいほどだ。
 目をそらしていた彼が、ふとこちらを見た。
「これ」
 彼の手が私の髪に伸び、垂れた髪飾りをすくい上げる。りん、と鈴が鳴った。はっと気が付く。これは明日のための髪飾りだ。急ぐあまり外すのを忘れていた。
「明日の?」
 意外にも、彼の声は浮足立っていた。
「そ、そう。さっきできたの。外すの忘れちゃって」
 焦りのせいか、言い訳しているような声色になってしまう。ここに来たから、子どもの気分になっているのかもしれない。しかし彼は、私の様子を不審がるでもなく、嬉しそうにそうか、とつぶやいた。
「綺麗だ」
「そう?」
「ああ、似合う」
 いつにない褒め言葉にどきりとする。
「本当?」
「本当だ」
 明日が楽しみだ、という彼の声は軽やかに弾んで、そこらじゅうを跳ね回る。
 宴の様子を思う。男も女もめかしこみ、一人一人順番に私とこの人の席に回ってきて、この度はおめでとう御座います、と仰々しく祝福の言葉を述べる。この人がお礼を返す間、私は黙って、淑やかに微笑んでいるのだ。壮年の者は楽器を持ってくるだろう。若い者は男も女も蝶のように踊り小鳥のように歌う。母の姿が見える。そっと私の隣に座り、おめでとう、と言って手を握る。おめでとう。母の顔は晴れ晴れとして美しい。父が来る。いつも強張った顔が、この日だけは綻んで、ただ何も言わずに私の頭を撫でてくれる。二人が去ると、私はこの人の手を握る。二人の体温が混じり合う。彼は優しく微笑んで、そして。
 隣を窺うと、彼も少し遠くを見るようにして、何かに思いを馳せているようだった。憂いを帯びた眼差しが変に大人びている。いつの間にか、彼の精悍な頬に、夕暮れの赤が落ちていた。
「もう、暗くなってきたね」
 小声で言うと、彼ははっとしたように数回瞬きした。
「ああ、そうだな。日が落ちないうちに帰ろう」
 私は頷いて立ち上がった。

 日はいつも西の地平に沈む。燃えるような夕日が長く長く伸ばした影は、私たちの後からゆらゆらとついてくる。今日の夕日はやけに眩しい。彼のごわついた野良着の腕に手を絡めた。彼の体がぎくりと強張る。緊張しているのだろうか。そう思った瞬間、彼がぐっと私を引き寄せた。何、と問うよりも早く、彼が絞り出すように言う。
「燃えてる」
 え、と思った時にはもう、彼は私を強引にその場に座らせ、村の方に向かって駆け出していた。
「そこから動くな! 俺はみんなの様子を見てくる! 動くなよ!」
 彼が振り返って叫ぶ。
 ぞくぞくとした嫌な感覚が背中を這った。立ち上がって数歩先に進む。すると、私の目にもそれは明らかになった。
 辺り一面が燃えていた。夕日の赤よりもずっと熾烈な、それは恐ろしい炎の赤だった。
 呆然と村を見渡す。見える限りすべての家が炎に呑まれていた。ここは高山から吹き降ろす風が年中吹いている場所だ。しかし一番風上の家で火が出たとして、村全体が炎に呑まれるほど広がるものだろうか? それに今は乾燥した時期でもない。おかしい。何かがおかしい。
 疑問が次々に生まれては消える。そしてようやく、自分の家がどうなっているかということに考えが至った。吐き気に似た感覚が湧き起こる。お母さんは、お父さんは、どうなったのだろう。あの人は動くなと言ったけれど、じっとしていられるわけがなかった。走り出す。

 村に近付くにつれて、感じたおかしさが明確な形になっていった。家々の間は、たとえ火の粉が舞ったとしても容易に火が移らない程度には離れている。普通の火事だったなら、どんなに強い風が吹いても、被害が村全体に及ぶはずがない。
 燃える木の壁の一つから、ふわ、と火の粉が浮き上がった。それは黒い炭のような核を中心にくるりと回転して、あろうことか空中にそのまま留まった。昔聞いた怪談に出てくるような火の玉だ。燃えながら右へ左へ飛び回るそれを認識した途端、同じものがそこらじゅうに漂っていることに気が付く。これだ。村全体が焼けているのはこれのせいだ。
 炎の柱がごうごうと音を立てて立ち昇った。悲鳴のような轟音。いや違う、本物の悲鳴も混じっている。誰かが逃げているのだ。痛いほどの光の中に目を凝らす。今にも燃え落ちそうな家の向こう側、広場のように道が広がった場所に女性の姿が見えた。どうにかして助けなければ、と炎に近付いて手を振る。
「こっちです! こっちへ……」
 私の声は彼女に届いていない様子だった。あらぬ方向へ首をやり、へたり込んだまま動かない。やきもきしてますます声を張り上げる。それでも彼女はこちらに気が付かない。炎の爆ぜる音が私の声を消しているのだろうか。さらに炎へ近づく。髪の先、肌の表面がじりじりと焼けるように熱い。木や草、土が焼け焦げる匂いはすでに鼻がおかしくなりそうなほど強い。背中はすでに汗でぐっしょりと濡れている。声を張り上げるせいで、鼻と口の粘膜が痛いほど熱い。はやく、はやく、はやく。焦る気持ちの中で。唐突に気が付いた。
 彼女の目線の先、屋根を超えるほどの位置に、大きな頭が見えている。
「……!」
 息が詰まる。とっさに数歩後ずさって、私はようやく理解した。怪物だ。
 数年前、はるか北方、雪に閉ざされた秀峰から、人間でも獣でもない異形の生物が溢れだし、人間を襲い始めたと聞いた。単なる噂話にすぎないと思っていた。よしんば本当のことだったとして、私たちの住む場所へなど来るはずがないと思っていた。漠然と。なんの根拠もなしに。人間を襲うことから、異形のものどもは総じて怪物と呼ばれた。茫漠とした恐怖をはらんだその言葉は、しかし私にとっては実感のない、幻のようなものにすぎなかった。
 幻であればいいと思った。私の胴ほどもある腕が、その大きさに見合わぬ俊敏さで動き、地面に座り込んだ女性の顔を、まるで毬か何かを扱うような乱暴さで掴む。くぐもった悲鳴。熱気にうねる景色の中で、人間の目とは白黒が逆転した不気味な眼球が、きょと、きょと、と動いて、目の前の細くか弱いものの様子を観察している。それから先は見られなかった。私の薄情な脚は炎から遠ざかるように動き、そのうち駆け出していた。

 逃げなくちゃ、逃げなくちゃ、逃げなくちゃ、でもどこへ? お母さん、お母さんどこ、お父さん、家は? 私の家、きっと二人とも逃げ出している。平気、平気だ。平気平気平気。でもあの女性だって逃げ出せていたはずだ。あの怪物のせいで。怖い怖い怖い怖い、嫌、怖い。逃げてもあいつが追ってくる。そうだ、そのためにいるんだ。あいつ。どうして、いやそんなことはどうでもいい、お母さん、お母さん、お母さん。見つかったらどうしよう。お父さん。やめて。怖い。怖い。逃げなくちゃ。逃げないと。逃げる? 一人で? 彼は、彼、彼……。

 彼はどこだろう。

 強烈なイメージが頭を支配した。燃え盛る炎、崩落する家々、外套を被って路地を駆ける人影。黒い髪の頑健な青年、優しい人。声を限りに叫び、逃げ遅れた人を助けようと走る、私の、私の夫になる人。彼は気付いてない。巨大な怪物のおぞましさ。
 狂った兎のように動き続けていた脚がもつれあい、前のめりになって転ぶ。ぶつけた頬がじんと痛い。手をついて起き上がる。駄目だ、私一人逃げるなんてできない。
 斜面を駆け上がる。体の、疲労を感じる部分が壊れてしまったかのようだった。再び炎が迫ってくる。しかし先程の場所に、あの怪物の姿は見えなかった。自然と脚が早まる。煙がもうもうと立ち昇り、風に吹き散らされて紫の空をどす黒く染めていた。炎の勢いはいまだ止む気配はない。まだ火の回っていない木からよく葉の茂った枝を手折り、炎の近くに駆け寄る。
「このっ……!」
 狙ったのは、あの火の玉のような物体だった。黒い炭のような物を狙って力いっぱい打ち付ける。ごつ、と石を打つような手ごたえが伝わる。地面に墜落したそれを、火が消えるまでばさばさと打つ。やがてそれはぶすぶすと煙を上げながら動かなくなった。
 次の火の玉を探す。次。また次。次――……。

「はあっ、はあっ、」
 息が苦しい。喉が熱に焼けるようだ。枝を持つ手ががくがくと震える。村の外周を回りながら斜面を下り、いつのまにか平野へ下る街道が見えるところまで来ていた。村の入り口から続く道は太く、ほとんど真っ直ぐに斜面を登っていくようになっている。周囲の家々が炎に巻かれていたとしても、比較的安全に村の中を進むことができるかもしれない。そうすればきっと彼を助けることができる。
 まるで何かの暗示にかかったように、彼のことばかりが頭に浮かんだ。野良仕事をしている時の大人びた顔。笑ったときの子どもっぽさの残る顔。私の夫。私の夫だ。
 平野から村まで、申し訳程度に立った木の柵をすり抜け、村の入り口の前に躍り出る。入り口に一番近い家屋はすでに焼け崩れていた。あそこに住んでいたのは誰だっけ。何年か前に結婚した夫婦? 小さい男の子がいた。川べりに男の子を連れて行く母親、釣竿を持つ父親。柔らかで小さな白い手、赤い頬、小さな……。ばちばちと耳障りな音を上げながら燃える木材の陰に何かが見えたような気がして、私はとっさに目をそらした。違う、気のせいだ。この音も、この光景も、この臭いも。
 嫌な予感を振り切りまた駆け出そうとして気が付いた。目をそらした先、まだ火がついて間もないと思われる家の陰から、立体的な水が伸びている。はじめは意味がわからなかった。水には形がない。あんなふうに、私のふくらはぎの高さまでの厚みを持つはずがない。しかし炎を受けてきらきらと輝き、向こう側の光景を歪めて見せるその物体は、明らかに水だった。水はするすると家の角を回り、木桶をぐるりと迂回する。私に向かってきているのだ、と気付いた時にはすでに、水は私の周りをほとんど囲むように取り囲んでいた。ぞくりと背筋が粟立つ。思わず一歩下がる。私の動きに反応したかのように、水がぼろ、と崩れた。いや違う、崩れたのではない、いくつかに分かれたのだ。分かれた水はぶよぶよとうねりながら、半球状に形を整えていく。私にはもう分かっていた。これも怪物だ。
 水の怪物の体が石を投げ込まれた水面のように波打ち、びゅ、と体液の一部を吐きかけてきた。
「きゃ!」
 小さく悲鳴を上げ、後ろに飛び下がる。元いた地面がジュッ、と音を立てて焦げたように見えた。微かに白っぽい煙が上がる。あれが人間の体にくっついたら、ということを考えている余裕はもうなかった。
 吐きかけられる液体を必死に避けながら、枝で怪物の体を打ち付けた。びしゃ、びしゃ、と怪物の体が削れる。液体が脚を掠める。にじむ痛み。怪物たちの背後で壁が崩れた。屋根が軋んだ音を立てて傾き、壊れる。怪物を打ち付ける。枝が燻っている。真横で火柱があがった。髪が焦げる嫌な臭いが鼻につく。そして小さな小さな音を立てて、枝が折れた。怪物が迫ってくる。胸の中の恐怖が嵐のように暴れている。踵が石か何かにぶつかってそのまま転ぶ。吐きかけられた液体が指を先を焼いた。もはや新しい痛みを感じないほど、全身が傷だらけだった。あの人の姿がどこかに見えたような気がした。だって声が聞こえる。
 ヒュウ、と風を切る音がした。頭上を掠めた何かが、水の怪物の真ん中に、軽い音を立てて突き刺さる。それは矢だった。一本、二本、怪物が次々に地面に縫い止められていく。
「大丈夫ですかあ!」
 若い男の声。複数の足音。私は振り返ろうとして、そのまま気を失った。

 目が覚めた。あまりにも怖い夢を見ていた。村が炎に巻かれて、みんなが死んでしまう夢だ。夢で良かった、と思いながら、もう一度寝てしまおうと寝返りを打つ。ちりん。髪飾りの鈴が鳴る。寝返りを打った先に見える、赤い髪の女性の姿。
「え」
 冷水をかぶったような感覚が体を襲った。こんな髪の色の人間は、私の村にはいない。早鐘の心臓とは裏腹に、極力音を立てないよう起き上がる。頭が薄い布をかすめ、また鈴が鳴る。天幕の中らしかった。白い布を透かして朝日がぼんやりと内部を照らす。赤い髪の女性の奥に、金色の髪の女性がもう一人、横たわっていた。耳を澄ますと、二人分の寝息が聞こえてくる。まだ起きてはいないらしい。
 痛いほど打つ胸を押さえ、立ち上がろうとした瞬間、ついた手や曲げた脚に鋭い痛みが走り、思わずへたり込んだ。見ると、黄ばんだ貫頭衣の下に白い包帯がぐるぐると巻かれていた。私のものではない服、手当の痕跡、知らない場所、知らない人間。まだ信じたくはなかった。今もまだ夢の続きを見ているのではないか、という小さな希望が胸の奥で弱々しく抗っていた。
 もう一度立ち上がる。全身に走るずきずきとした痛みにふらつきながら、天幕の入り口らしい布に手をかける。薄い布のはずなのに、腕が震えてすぐに持ち上げることができない。やっとのことでめくりあげ、外に出る。素足を石と草がくすぐった。斜面を少し掘って、なるべく平らにした場所に、天幕がいくつも並んでいた。いや、違う。私の近くに建っているのは、私が寝ていたものを含めて二つだけ。他はもっと離れた斜面に並んでいる。何か事情があるのだろうか。
「ずいぶんと早いな」
 男の声がした。振り返ると、金色の髪の男が、無表情にこちらを見ていた。
「あっちには行かない方が良い」
 男は、天幕が密集した場所を見ながらそう言った。
「意味がわからないという顔をしているな」
「……」
 男は目を細めて笑った。作ったような笑顔だ。唇を引き結び、男を睨む。
「昨夜のことだが、お前の村は……」
「村? 村がどうしたの?」
 村、という単語に体が反応した。不信に思っていた気持ちもその衝動には勝てず、ほとんど男の腕にすがりながら声を上げた。しかし男は急に表情を険しいものに変え、私の背後に視線をやった。
「……何も言うなよ、いいな」
 低く小さな声。それに何か返事を返す間もなく、男の腕が私の体を強引に引き寄せた。状況を確かめたくて、首をひねり、男の腕の間から無理矢理に背後を見る。
「これはこれは、お早いですな」
 鎧を着こんだ壮年の男性が、目を細めた柔和な笑顔を浮かべ、近づいてきていた。数人、同じように鎧を着た青年を従えた彼は、どうやらそれなりの地位を持つ人間らしかった。視線が絡み、その瞬間に気が付いた。表情は確かに笑顔だが、細められた目は、剣呑な光を帯びている。
「お邪魔でしたかな?」
 わけもわからないのに冷や汗が背中を伝い、私は耐え切れずに俯いた。
「仲間とのスキンシップの途中でしたので……少々」
 金髪の男が冗談めかして言う。仲間、という単語が引っかかった。
「仲間、ですか」
「ええ、仲間ですよ」
 壮年の男の声は、何か探るような響きを伴っていた。金髪の男の声はあくまで平坦だが、私を抱く腕に微かに力がこもっている。数秒の沈黙。
「……そうですか、まあ、あなたがそう仰るなら、それも構いませんがね」
 妙な言い回しだ。
「では、お嬢さん」
 ぞくりとした。俯けた顔をばっと上げると、目の前に、濃い影を伴って、壮年の男の顔があった。
「ご無事で、何よりですよ」
 そのおぞましい響きに、全身の力が抜けていくのがわかった。
「それでは」
 壮年の男は一礼すると、踵を返して去っていく。鎧に朝日が反射して、鈍い銀色に光っている。それは武装だ。何のための武装だったのか。それは。
 男が去っても、金髪の男の腕の力はちっとも緩まなかった。それが私の体を支えるためだということに気が付いたのは、鎧を着た後姿が天幕の群れに消えた後だった。
「すみません」
 私の声は自分のものではないかのように震えていた。
「いい。そのままでいろ」
 金髪の男の声は厳しい。
 彼が何も言わずに私の体を横抱きに抱え上げたが、私にはもはや抗う気力さえなかった。彼は私の寝ていた天幕に沿ってぐるりと歩き、丁度入口の反対側にあたる部分で足を止めた。そうすると、その光景は嫌でも目に入った。
 私の村だった場所には、見渡す限りの焼野原が広がっていた。
「……」
 男は何も言わなかった。私の方から何か言わなければならない気がした。何度も呼吸を重ねた後、発したのは、妙に無感動な言葉だった。
「夢じゃなかったんだ……」
「ああ」
 それきりまた沈黙が落ちた。昨夜の恐ろしい光景がいくつも脳裏をかすめた。
「……」
 男の指に目元をぬぐわれ、はじめて、自分が泣いていることに気が付いた。
「他の人は、どうなったんですか」
「大部分の村人が亡くなった」
「生きている人もいるんですか」
「あっちの、天幕がうようよ建っている場所は、王国軍の仮駐屯地だ」
「じゃあそこに」
「おそらくな」
「村は」
「ほぼ何も残っていない」
「そうですか」
 涙とは逆に、私の口からは淡々とした言葉ばかりが落ちた。自分でも不思議なほど落ち着いた気分だった。昨夜私が気絶した後、王国軍の人間がやって来て、あの恐ろしい怪物を倒してくれ、残った人々を助けてくれたのだろう。炎だけは、きっと勢いが激しすぎて、村そのものを守ることはできなかった。そういうことだろう。きっと数人の村人が、王国軍という組織の施設で、私と同じように療養しているのだろう。その中に母や父、あの人がいるかもしれない。なぜ私がこちら側の、少数の天幕の中に置かれたのかはわからないが、とにかく誰か他の村人と会えるなら構わない。村は炎と怪物に蹂躙されてしまったが、助かった人がいるだけで良かった。怖いことはもう終わったんだ。もう何も心配することはない。安堵を感じて、少しだけ微笑む。
 その時、金属のすりあう耳障りな音を立てながら、長身の青年が天幕を回り込んで歩いてきた。短髪が朝日に透ける。もしかして「あの人」ではないか、という淡い期待は、青年の着た鎧の銀色が打ち消した。先程の壮年の男が着ていたものに似ている。彼もきっと王国軍というものの一員なのだろう。青年は唇を引き結んだ、硬い表情をしていた。
 青年の足が止まる。金髪の男と私の真正面。青年が見ているのは男ではなく、最初から私の顔だった。
「申し訳ありませんでした」
 意外な言葉だった。
「わが軍は……戦闘力については無敵を自負しておりますが、機動力に劣る部分があり……」
 私には、彼が何をしたいのかよくわからなかった。
「……間に合わなかったことを、深くお詫び致します」
 そんなこと、と思った。だってあの悲劇は、誰にも予想できなかったはずだ。それなのに遠く離れた王都から、軍がやって来てくれて……。そこまで考えて、私は自分の思考の矛盾に気が付いた。予想ができなかった? それならばどうして、間に合ったのか? どうして私が助かっているのか?
 雲が流れてきた。朝日がかげり、青年の顔にも暗い影が落ちる。彼の背後に見える村は、本当に原型をとどめていない。焼け焦げた柱が何本か、遠く黒々と恐ろしい。
「いや」
 青年が再度、口を開いた。胸がずきりと痛む。手足の傷も熱をはらんで、私を苛む。聞きたくない、聞いてはいけない。
「わが軍は」
 いや。やめて。
「あなたの村を見捨てたも同然です」
 それはどういう意味だろう。聞くまでもなく、彼が話を続けた。
「この村の位置が、化け物の軍勢との戦争において、要衝となる部分だという見方が軍内で高まっており、近々訪問を行う予定だったのです。村の周りに基地を敷かせてもらうつもりだったと聞きます」
 彼の言葉は無機質な、感情のない単なる情報として、私の耳に流れ込んだ。村の周りに敷かれた基地。それはきっと、要塞としてのていを保つには大きすぎる規模になるのだろう。
「要衝と言いますのは、つまり、王都防衛における要衝という意味です」
 雲の切れ間から朝日がまた差す。朝日が切り取る村の形。いまだ煙を上げ続ける廃墟。
「逆に、この場を化け物の軍勢に占拠されますと、わが王国は窮地に立たされることになります」
 何も残らない廃墟。草も木も消え、無機質な家々を建てはじめるには絶好の荒地。
「その折、化け物の一群がこの村に向かっているとの報を受け、わが軍は急きょ村を防衛するため、進軍してきたのですが」
 息が苦しかった。何か恐ろしい、巨大な、どうしようもない感情が胸の奥から這い上がってくる。
「なぜか……早馬を出すことが、できず……」
 青年の声は小さく、小さくなっていた。
「本当に、申し訳ありません……でも」
 消え入りそうな謝罪に、腹の奥が熱くたぎるのを感じた。そして、次に彼が発した言葉が、決壊の始まりだった。

「あなただけでも、助かって良かった」

 ああ、殺してやる。そう思った。その悲しそうな笑顔が、憐れんだ声が、震えた肩が、私にはただ、おぞましく憎らしく恐ろしかった。彼はまだ何か言っているようだったが、私はもうそれを聞こうとは思わなかった。
 頭が、胸が、腹が、手が足が、全身が炎に焼かれるように熱かった。感情の正体はわからなかった。ありとあらゆる感情すべてがないまぜになって、形を失くし、私の中で氾濫していた。父の穏やかな微笑、母の清らかな涙、あの人の優しい眼差し、すべてが歪んで焼けただれた。殺してやろう。全部、全部殺してやろう。この青年も、あの壮年の男も、私を抱くこの男も。怪物も人間も、全部死ねばいい。何の罪もなかったのに、ただ国のために蹂躙されたこの村と同じように、全部死ねばいい。私が殺してやる。
「降ろしてください」
 発した声は自分でも驚くほど穏やかだった。金髪の男は少しだけ眉をひそめてから、私を降ろす。降りる衝撃に、髪飾りにつけられた鈴がりん、と可憐な音を立てた。
「……そういえば、まだ名前をお聞きしていませんでしたね」
 青年が作り笑いを浮かべて、そう言った。
 鈴を撫でる。お母さんの泣き笑い、父の不器用な笑顔が頭に浮かぶ。あの人が似合うと言ってくれた髪飾りを、あの人が見ることはもうない。艶やかな衣装も、穏やかな日々も、あの小川のせせらぎの美しさも、もう何一つ私には残されていない。あの人が優しい声で私の名前を呼ぶ。鈴の音色になぞらえた、美しい響きの名前なのだと言われた。私の名前。鈴の甘い音色。私はもう花嫁ではない。優しかった花婿はもういない。
「そうですね、これから『仲間』にしてもらうんですから、名前くらい」
 私がそう言うと、金髪の男は微かに身じろいだ。青年は私の言い方を不審に思ったのか、少し首を傾げて私を見つめている。いつか復讐を遂げるその日まで、生き延びなければならない。私を仲間と呼ぶのなら、それだって利用してやる。
 口角を引き上げ、愛くるしい笑顔を作ると、また鈴が鳴った。口を開く。
「私の名前は――」