理科準備室とは、一般に理科の授業に用いられる様々な用具が保管されている場所のことを指す。学校によってはここに理科教師が自らの事務机を置き、校内の拠点として扱っている場合もあるだろう。しかし、我が校では理科教師ではない別の存在が、ここ理科準備室を校内活動の拠点としている。
 すなわち、我々理科部である。
 我々、と言っても部員は二名だ。二年生の私と、三年生の先輩だけ。毎日放課後になると理科準備室に来て、顧問の教師を交えつつおしゃべりしたりお菓子を食べたり。文化祭が近付いて、部として出展すべきものを作るために大慌てで実験をし始めたり。そういう馬鹿みたいな、よくある怠けた理系の部だ。
 さて、本日は月曜日。先週末、親類の家に出かけていた私は、その地方の名菓を買ってきていた。いわゆるおみやげだ。仲の良い友人に配った残りを持って、放課後の理科準備室に向かう。
 特別教室棟の廊下はいつも薄暗くて寒いのだが、今日は何となく暖かい気がする。春が近いからだろうか。根雪がだいぶ残っているけれど、日は長くなってきたし気温も下がりにくくなってきたし、やっぱり春なのだろう。駆け足になると、タイツをはいた脚や重ね着をした背中が汗ばんでくるほどだ。
 理科室に入って左奥、立てつけの悪い扉を思いきり引っ張って開ける。薬品臭さと埃っぽさが入り混じった独特の空気が流れだして鼻をくすぐった。
「先輩、いますか?」
「はい、いますよ」
 先輩はいつもの場所にいた。二つ並んだ棚の間、窓から西日が強く射し込んでいる一番暖かいスペースに椅子を置き、今日も今日とて読書に勤しんでいる。
「おみやげです、ありがたく食べてください」
「おや、ありがとうございます」
 私の恩着せがましい物言いを苦にもせず、先輩はにこにことお菓子を受け取った。しかしすぐに食べるというわけでもなく、窓の桟にそれを置いてまた読書に戻る様子だ。
「すぐ食べてくださいよ」
「後でじゃだめですか?」
「だめです。溶けるやつですから」
「じゃあ日の当たらないところに」
「だから、すぐ食べてくださいってば」
「今いいとこなんですよねぇ」
 一応会話は成り立っているが、先輩は一度も本から視線を外さない。ぺらり、ぺらり。私が睨んでいるのに気が付いてすらいないのか、ページをめくる音だけが大きい。先輩のさらさらした白っぽい長髪が、傾げた顔の輪郭に沿って流れ、夕日が水面で跳ねるようにまぶしく反射する。病的なほど白い肌に、彼自身の鼻筋から落ちる影が濃い。ページをめくる手は、指が長いけれど骨ばっていて、そこだけが妙に男っぽかった。
 私はもういいですよ、とつぶやき、西日の届かない机まで逃げた。机には色んな資料や落書きその他もろもろが乱雑に置いてある。その一番上に、生徒会から理科部への告知書類が乗っかっていた。『廃部通告』の文字がいかにもとげとげしい、白地に黒字で印刷された冷たい用紙。
 理科部は存続の危機にあった。前述したように、所属する部員は私と先輩の二人きり。さらに今は卒業の近付いた春。先輩が卒業してしまうと、部員は新三年生の私だけになる。私が在籍している間、もし後輩を得られなければ、理科部は廃部になるのだった。ふうっと溜息をつく。
「怒りましたか?」
 先輩がしおらしい声を上げた。
「違いますよ。これです、これ」
「ああ」
 書類を見せると、ほっとしたような顔。安心したとたんに、視線は本に逆戻り。廃部が迫っているというのに、のんきな人だ。
「ああ、じゃないですよ。廃部の危機なんですからね」
「大変ですよね」
「他人事みたいに言わないでください」
「そんなことありませんよ」
「そんなことあります」
「マゼンダさんが頑張って新入生を引き入れればいいんですよ」
「先輩も協力してください」
「今からですか?」
「間に合いますよ」
「そうですかね」
「あれ、協力してくれるんですか」
「うーん……」
「ひっどい」
「すみません」
「謝る気ないでしょう」
「ありますあります」
「じゃあ協力」
「それとこれとは別ですよ」
「もう、そんなに嫌なんですか?」
「そういうわけじゃないですけど」
 はぐらかしてばっかり。私だって本当は、新入生獲得に必死になってるわけじゃないけれど。
「じゃあ、もう、先輩が卒業しなければいいじゃないですか」
 ページをめくる手が止まった。西日が赤く燃えて、先輩を抱きしめようとする。私は息を止めて、先輩を見つめている。胸の奥の感情がじりじりと焦げて、今にもはじけて壊れそうだ。先輩の目が、一瞬、こちらに向きそうに見えた。
 でもやっぱり、失敗だった。
「うーん、受かった大学がありますからねぇ」
 ふふ、と笑いながら先輩はそう言った。ぺらぺら、ページが進む。先輩の影は、夕焼けから逃げるかのように、いつの間にか随分長くなっていた。
「廃部、に、なっても、いいんですか」
「そんなわけないじゃないですか」
「真面目に考えてくださいよ」
「ポスターなんてどうですか?」
「文字ばっかりのポスターで人が集まると思うんですか?」
「ああ、マゼンダさんは絵、苦手でしたっけ」
「先輩が描いてくれるなら別ですけど」
「私も絵は得意じゃないですよ」
「植物の観察記録は上手だったじゃないですか」
「そうでしたっけ?」
「先生が褒めてました」
「それはそれは。嬉しいですね」
「描いてくれるんですか」
「うーん、考えておきますよ」
 ぺらり、ぺらり。ページをめくる手は止まらない。愛しそうな目は紙面に落ちたまま。
 これ以上ここにいたら、先輩と一緒にいたら、きっと私の胸は銃が暴発するように、爆発してしまうだろう。そんなことはわかっていた。わかっていたけれど、動けなかった。この感情をどうにかして欲しい。けれど先輩はきっと、優しく微笑むだけで何もしてくれないのだ。そんなこともわかっていた。わかっていたけれど。
 もう駄目だ。もう駄目だ。もう、駄目だ。
「その本、誰から借りたんですか」
 言ってしまった。空は刻々と色を変えていく。先輩を真っ赤に染めていた夕焼けはもう消えていた。落ちる影が濃すぎて、真っ直ぐに私を見た先輩の表情はわからなかった。しかし私にはわかってしまった。先輩は困ったような、柔らかい、優しい笑顔をしているのだろう。
 先輩の口元が動く。聞きたくない。

「友達です」

 優しい言葉だと思った。先輩はいつも中途半端に優しい。もし先輩が酷い人だったら、きっとすぐにでも季節は巡ったのに。
 先輩が立ち上がって、半ば手探りの状態で電気のスイッチを入れた。ジジッ、と蛍光灯が瞬いて、それからようやく明かりが点く。青白い光が降ってきて、私の肌を冷たく叩いた。
「もう暗いですね、そろそろ帰りましょうか」
「そうですね」
「女の子が一人では危ないですからね、気を付けて帰ってください」
 先輩が送ってください、とは言えなかったし、言う気もなくなっていた。特別教室棟の外から、ルファ、と先輩の名前を叫ぶ声がしていた。先輩は慌てたように窓を振り返り、ばたばたと身支度を整え始める。声は何度も何度も、先輩の名前を呼ぶ。何度も何度も。 本は大切そうに、鞄の中にしまいこまれた。
「先輩たちも気を付けてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
「それじゃ」
 先輩は立てつけの悪い扉をぱっと開け、ではまた明日、と微笑む。
「さようなら、先輩」
 そう言った私を見る先輩の微笑みは少し悲しそうだった。

 先輩がそっと閉めた扉は、ぱたん、という軽い音で、先輩をどこかにやってしまった。蛍光灯がジッ、ジッ、と鳴いている。笑われていると考えることにした。
 泣くまいと思った。泣くのはずるい。たとえ先輩がそのために先に帰ってくれたのだとしても、泣きたくなかった。
「……………………」
 春の夜を閉じ込めた窓の前に、先輩が置いて行ったお菓子が残されている。食べてもらえなかったお菓子は、封を切られもしないまま、溶けてしまっただろう。蛍光灯が笑い続ける教室の中で、私の春はようやく自殺を選んだようだった。