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時刻は夜の十時を回る頃。
大通りから少しだけずれた場所にひっそりと佇むバーの扉の前で、立花は緊張した面持ちのままリュックの肩紐をぎゅっと握り、息を飲んでいた。
そこは勿論先ほど立花が携帯で血眼になって探した場所で、いわゆるそういう人達が集まっている場所である。
そう。先ほどの立花の決意とは、俺だって妹尾以外の人を見付ければいいんだ。という、童貞を卒業したいという最初の目的や目標からは大幅にずれたもので、だがしかし頭に血が昇っている立花はそんな事に気付くわけもなく、ただただ妹尾だけずるい。という気持ちのまま突き進んでいる。
そしてその思考のまま、一度深く息を吐いた立花は、よしっ。と意気込んでバーの扉を開いた。
カラン。と上品な鈴が鳴る音がする。
照明が落とされた薄暗い店内は一見すると洒落たただのバーのようだったが、中に居る人は全員男性で、立花はまたしてもリュックの肩紐をぎゅっと握り、とりあえず近くのカウンターへと腰かけた。
「いらっしゃいませ」
渋く響く声の店員に声を掛けられ、びくりと肩を跳ねさせつつも、とりあえず何か飲み物を頼まなければ。と慌てる立花。
「っあ、ジ、ジントニックを」
なんてしどろもどろに答えれば、かしこまりました。と頭を下げられ、それから数分もしない内に出してもらったジントニックをちびりと口に含み、挙動不審になっているという自覚はあるもののこんな場所自体に来たことがなかったため不躾に辺りをキョロキョロと見回してしまい、そしてその中に目に留まる人が居て、立花はその人物をじっと見つめてしまった。
暗がりで顔は良く分からないが、すらりとした長身と、白いシャツと下は黒のだぼっとしたサルエルという弛い出で立ちで佇んでいる男のシルエットがまるで妹尾のようだ。とぼうやり思った立花はしかし、頭に浮かんできた妹尾の顔を消し去るようにぶんぶんとかぶりを振った。
妹尾をギャフンと言わせたくてここに来たのになんでまた妹尾の事思い出してんだよ。
なんていつもの、飄々としてどこか掴み所のない笑みを浮かべる妹尾のその残像をやっきになって振り払っていれば、
「となり、いい?」
なんて声を掛けられ、立花はハッとしたように声のする方へ顔をあげた。
少しだけ口元に笑みを浮かべて、こちらを見下ろしてくる男。
それはまさしく先ほど立花がじっと見つめてしまった人で、やべっ、見てたのバレてたのかな。なんて戸惑い、ギクシャクとしたまま、へぁ、あ、ああ、ど、どうぞ。とだらしなく笑みを浮かべる。
顔が分かるその距離に、つか妹尾より全然イケメンじゃねーか、ドンマイ妹尾。なんて心のなかで謎のドンマイコールを妹尾に送る立花の内心など知らぬ男が、ありがとう。と囁きながらギシリと椅子を軋ませ隣の席に腰掛けてきて、目が合うとにこりと笑みを返された。
そのスマートさに、うわーなんかすっげー大人。なんて馬鹿のような感想を抱きつつ手持ち無沙汰でジントニックをまたしてもちびりと口に含んでいれば、
「テレビで見るより全然可愛いね」
なんて核心を突く言葉を言われ、立花は身を跳ねさせた。
「あぁ、ごめんね、びっくりした? 大丈夫。そういう人って結構居るから。珍しい事じゃないし、ここの店の店員も客も言いふらしたりするような人達じゃないよ。そこは常連の俺が保証する」
ギギギ、と音がしそうなほどの速度で男を見やれば軽くウィンクをされ、そのまるで映画のワンシーンのような仕草にぞわぞわと背筋を震わせつつ立花も曖昧に笑い返す。
それから他愛もない会話をしつつ、立花は未知の世界と隣の紳士的というのか嘘臭いというのか際どい男の存在にひどく緊張した面持ちで、あまり強くもないというのに酒を胃へと流し込んでいった。
それから約一時間後。
立花は名も分からぬその男とラブホテルの一室に身を置いていた。
バーのなかで無駄に近付いてきては、
「出よっか」
などと言ってくる男にぞわっとしつつ、いやでも妹尾をギャフンと言わせたい。俺だって妹尾だけじゃないんだぞって証明してやる。と謎の決意で立花はこくんと頷き、そして今に至っているのである。
共にベッドへと座る男の香水臭さがやけに鼻に付き、妹尾に似ていると思って見ていた事を後悔するほど何もかもがかけ離れていて、いやでも。と立花は心を奮い立たせながらぎゅっとズボンを強く握った。
「お風呂とか入る? 準備しないとだしね」
「あっ、それは、家で、」
不快感にバクバクと心臓を鳴らしながらも、聞かれた質問に馬鹿正直に返事をしてしまった立花。
そう。悲しきかな妹尾への勝手な怒りで、もう既にお手のものとなっている洗浄と拡張を済ませてきた(妹尾を思い出してそのままもう一回抜いたのは永遠の秘密らしい)立花が、しかし馬鹿正直に答えてしまった自分に心のなかで突っ込んでいれば不意に肩を押され、視界がぐらりと歪んだ。
目に刺さる、知らない男の顔。
「へっ」
なんて間抜けな声をあげて見上げる立花のその困惑など拾わない男が、口元をにやりと歪ませる。
「なんだ、意外と遊んでんだね。じゃあ、もういいよね?」
伺いを立てているようでその実、拒否など許さないと言いたげにベッドの上へと倒した立花の体に馬乗りになってくる、男。
そんな男の欲情が滲む瞳でじとりと見られ、立花はヒュッと喉を鳴らした。
気持ち悪さや恐怖が背筋を伝い、心臓が高鳴りとは別にドクドクと音を立てている。
耳に掛かる息に今一度ぶわりと毛穴が気持ち悪さで開き、固まる体をなぞるように胸元に置かれた掌のやけに湿った熱さに、吐き気がしてしまいそうだった。
むりむりむりむり、と瞬時に頭の中を駆け回る文字はただそれだけで。
「いやまじでむり!」
耐えられん!!と言わんばかりの大声で叫んだ立花は、思い切り男の肩を押し返した。
当たり前だが役者として生き抜くためある程度体を鍛えている立花と、身長の差はあるもののただの一般人とでは力の差は歴然で、呆気なく吹っ飛ばされた男がベッドからずり落ちる。
「ってぇ、なに、」
「すみません! やっぱむりっす! すみません!」
なんて打った腰を擦りつつ見上げてくる男に間髪いれずそう叫んだ立花。
「ほんとすみません!」
そうもう一度謝り、立花が頭だけを下げてベッド脇に落ちていた鞄を引っ掴み、部屋を飛び出す。
その後ろ姿を、状況が飲み込めないのか男はただただ呆けた表情をしたまま、呆気にとられ見つめるばかりだった。
ラブホテルから勢い良く出た立花は、鞄を胸の前で抱えながら訳も分からず夜の道をひた走っていた。
走る車もまばらな、深夜。
深い深い夜が、ひたりと身を震わせる。
その中を息を切らし走る立花は、パニックになりながらなぜかただひたすら妹尾を思い出していた。
少しだけ掴み所のないような笑顔や、素直に声をあげて笑う顔。
デリカシーの欠片もないくせに、それでも優しい態度。
節くれだった長い指や、無駄な脂肪など一切ない均等のとれた体。
いつき、と呼ぶ、声。
そのどれもを思い出すたびに胸が痛くて苦しくて、立花は何故だかつんと鼻の奥が痛くなる感覚に、ずびっと鼻を啜る。
もうどうしてだか分からないけれど妹尾に会いたくて会いたくて、立花は息を切らして駅へと向かい、最終の電車に飛び乗っていた。
人もいないがらんとした車内はどこに座ろうが自由なのに、それでも座る事なく立花は扉に張り付いては過ぎる街を見た。
ぽつり、ぽつりと灯る街の灯りが過ぎては線となって溶けていく。
その美しくも少しだけ儚い光景を、立花は逸る気持ちのままじっと見つめては、扉の窓にコツリと額を押し当て、妹尾、せのお、せのお。と馬鹿の一つ覚えのように、妹尾の名前を心のなかで何度も何度も唱えていた。
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