13

 

 男の悲鳴が途絶え、鳥の羽ばたきや鳴き声が止んだ森は不気味なほどの静寂を孕んでいる。

 今しがた目の前で起こった惨たらしい光景に、この群れのベータ、そして捕えられ地面に伏せられている他のアルファが恐ろしさにガタガタと身を震わせていて、だがシュナは何事も無かったかのよう、男の上から退いた。


 ……ヒューッ、ヒューッ。

と男から空気の抜ける乾いた音がし、そして男が横を向いたその瞬間、大量の血が地面を濡らしていく。
 ボタボタ。と口から流れていく血は真っ赤で、しかし先ほどシュナに殴られた鼻や切れた瞼から出ている血は既にどす黒く、あぁぁ……。とか細い声で呻いている男。
 だがシュナはそんな男の事など、やはり気に留める様子はなくて。
 男の歯を握ったままのシュナの手は恐ろしく血に汚れ、その事に不快感を示すようシュナは眉間に皺を寄せたが、それからその歯を無価値だというように足元に落とした。


「お前はアルファの象徴である犬歯を一つ失った。お前はもう、アルファではない」

 シュナの父親であるパックアルファの深い声が、恐怖や混乱が静かに蠢く空気を裂す。
 その言葉にシュナは満足げに小さく息を吐き、しかし無言のまま男から離れ、パックアルファの元へと向かいその横に立った。


 ──アルファが犬歯を失うという事。

 それは番いを持てなくなるという事も含むが、何よりもアルファとしての死を意味しており、地面に這いつくばりながら男が全身を痛みで軋ませたまま泣き、シュナを睨みつける。
 その血走った目に見つめられたシュナはされど、何の動揺もなく睨み返しては、口を開いた。

「またお前に会うことがあれば、今度はアルファとしてじゃなく、本当の意味で殺す」

 シュナのざらついて乾いた声は鋭く、男がひくっと表情を強張らせ瞳のなかを恐怖の色で埋め尽くしたのを見たシュナは、きっとそんな度胸などこいつは持ち合わせていないだろう。と内心思いながら、自分のするべき事は終わったと言わんばかりに、体の力を抜いた。

 俯き、ただただぼんやりと泣く男を筆頭に、残された二名のアルファも戦意喪失といった様子で項垂れている。

 それは本当にあっという間で呆気なく、シュナはそよそよと揺らぐ春の穏やかな風を感じながら、徐に顔を上にあげた。

 見上げた夜は星が瞬き、満月がたおやかな灯りを地上へと降らせていて。

 その美しい光景に、……この空をノアも今見ているのだろうか。なんてシュナはノアの笑顔を星空に映しながら、この場にあまりにもそぐわぬ事を想ったのだった。





 それから、この群れのパックアルファである男をいとも容易くねじ伏せ、そしてアルファとしてのシンボルである歯まで抜き取ったシュナのその行動により、他の二人のアルファはまるで死刑を宣告される前の死刑囚のような暗い顔をしながら、何度も何度も頭を下げてきた。
「どうか見逃してくれ。絶対にあなた達やあなた達の群れに危害は加えない。改心する。これからは群れを持たずひっそりと暮らす」と涙ながらに懇願する二人に、パックアルファと叔父達が相談した結果、この二人の歯を抜くことは、しなかった。

 そうして、放心状態のベータや小屋に居て怯えていたオメガに、救いに来たのだ。と丁寧に説明をすれば、信じられないという様子で見つめてきたが、とりあえずこの場から去ろう。という提案はひとまず飲んでくれ、シュナ達は以前シュナが洗礼式の時に建てた小屋の方まで、戻る事に決めた。


 道中、疲弊しきっている様子のオメガのペースに合わせ、ゆっくりと川に沿って山を下りていった一行は、シュナとテアが共に逃げた時の倍の時間ほどかかり、それでもなんとかシュナが洗礼式の時に建てた小屋へと、辿り着いた。

 約一日半かけて移動し、すっかり陽は昇り正午へとなりかけている、麗らかな春の午後。

 シュナの建てた小屋へと辿り着き身を休めると、あの地獄のような群れから抜け出せたことを段々と実感してきたのか、安堵の表情を浮かべ始めるベータとオメガ。
 その事にパックアルファや叔父達もほっと安心しているのが分かる中、しかしシュナは自身の手にべったりと付いた血を見ては忌々しげな顔をし、一人川辺へと向かった。



 川は変わらず穏やかなせせらぎの音を奏で、澄んでいて美しく。
 陽の光を浴びてキラキラと輝く水面を見つめながら、ここでノアを救った事を思い出しつつ、シュナは水に手を浸した。

 ちゃぷん。と波紋が揺れ広がり、冷たい水が肌を刺してくる。

 その中で念入りに手を擦り合わせたが、こびりついた血は手の皺の隙間などに入り込み、中々に落ちにくく。
 それに苦労しながら、ようやくなんとか血は洗い流せたものの、シュナは赤く腫れている拳と切れて肉が裂けている拳の軟骨を見ては、表情を曇らせた。

 ……きっとノアはこの手を見て悲しい顔をするだろう。

 だなんて心の中でぼやいたシュナ。
 それは想像に難くない未来で、男を殴った時や歯を抜いた時にですら一度も感じなかった罪悪感に苛まれたシュナは、暫くどうするべきかと思案した。

 ノアと出会ってからというもの、シュナの頭の中には、常にノアしか居なくて。
 それは今も変わらずであり、ベータとオメガを救いだしたものの心はここに在らず、どうにか一日でも早く帰れないものか。という想いと、しかしこの傷を何と誤魔化そうか。という情けない想いで、シュナはいっぱいだった。


 それから暫くキラキラと輝く水をぼんやりと眺めていたシュナだったが、突然ハッと何かを閃いた表情をしたあと、春先といえど未だ冷たい川の中へそのままざぶざぶと入って行った。




 

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