※百合です







突然鳴ったインターホンに身体が跳ねた。日が変わる少し前の時間である。

こんな夜更けに誰だろう……。

恐る恐る画面を覗くと、見慣れた顔があった。

「仁王さん……」

彼女は何も言わない。上目づかいでこちらを見ている。彼女の「開けて」の意思表示だ。
チェーンを外し、ドアを開けると、私の胸に彼女がなだれ込んできた。後ろにこけそうになったが、ぐっと耐える。彼女の持つビニール袋が音を立てた。袋からチューハイやビールが覗いている。きっと、近くのコンビニエンスストアで買ってきたのだろう。
銀髪の隙間から覗く耳は真っ赤だった。

「……随分身体が冷たいですね」
「…………」
「お風呂、沸かしてありますから。お酒は一度温まってからにしましょう」
「……そこまでしてもらわんくても、ええ」
「私が嫌なんです。これは私が預かりますから」

ビニール袋を取り上げると、彼女がこちらを睨む。が、私は彼女に微笑みかける。こうすると、彼女は大人しく言うことを聞いてくれるのを、私は知っている。「……比呂子ちゃんの意地悪」、と拗ねた声で言うと、彼女は渋々浴室へと向かった。

「ちゃんと肩まで浸かってくださいね」
「うっさい」

バン、と乱暴にドアが閉められる。しばらくして、お湯をかぶる音が聞こえた。彼女が出てくるのは大体一時間後だ。意外と彼女は長風呂なのである。
……確か、彼女の好きなワインが冷やしてあったはずだから、開けてしまおう。

「……わあ」

一時間後、テーブルへ料理を並べている最中、濡れた髪を拭きながら彼女がリビングへやってきた。

「……ここまで気ぃ使わんでええんに」
「私がしたくてやってますの。お気になさらず」
「……ふぅん」

控えめにソファーに腰を降ろし、もそもそと髪を拭く姿はとても可愛らしい。黙って私が隣に座ると、ちらちらこちらを伺う。お腹が空いているのだろう……だから、私もこんな夜中にフライパンを取り出したのだ。テーブルの上は彼女の好物ばかり並んでいる。
「どうぞ。たくさん召し上がってください」
「……いただきます」



綺麗に料理を平らげ、お酒の時間に入る。アルコールが入ると、次第に彼女の目が潤み始める。実はあまりお酒は強くないのである。それなのに意地を張って酔いつぶれ、私が迎えに行く……ということが、過去に多々あった。今ではほとんどなくなったが……少し寂しい。

「……やぎゅー」
「どうしました?」
「…………」

自分から話を振って、何も話さない。私もただ黙る。彼女が悩みを聞いてほしい時の癖だ。彼女が自ら話し始めるまで、私はただ黙って待つ。

「……やーぎゅ」
「なんですか?」
「……あんな、ウチな、」
「はい」
「…………プロポーズされた」
「……………………はい?」
「跡部に……結婚してくれって、言われた……っ」

そう言うと、彼女は堰を切ったように泣き出した。突然の報告に私も動揺していたが、まずは彼女を落ち着かせることが大事だ。胸に抱き寄せ、背中をさする。無理に泣き止ませる必要はない。彼女が満足するまで、落ち着くまで、私は傍にいればいい。

激しい泣き声はやがて嗚咽へ変わる。彼女が鼻を啜る。ティッシュを渡すと、もそもそと私から離れる。部屋の隅で鼻をかむ背中はとても小さい。

「…………ごめん」
「大丈夫ですよ。慣れてますから」
「ん……」

用意しておいたミネラルウォーターを渡すと、ちびちび飲み始める。赤く腫れて痛々しい目許を美しいと思ってしまう自分に罪悪感を抱く。
グラスを置き、膝を抱く。脚の蔭から私の方を見た。

「いつもみたいに、愚痴やと思うたじゃろ?」
「ええ、まあ……」
「……プロポーズが嫌やったんじゃないの。嬉しかったんよ。けど……何か泣けてきて。柳生にぶちまけたくて」
「……………………」
「不安なんよ……すごく怖い。あいつ、財閥の跡取りなんよ?そのお相手がこんな…………ウチでええんかな、って」
「仁王さん……」
「……跡部とウチじゃ、家柄も身分も違う。ウチと付き合い始めたんも道楽か何かで、絶対本気じゃないち思うとったん。けどな、さっき……」
「プロポーズされて、パニックになって、ここに来た……そんな感じでしょう」
「……流石やの」
「あなたのことなら何でも知っていますわ。何年あなたと友人やってると思うんです?」
「さあ……どれくらい?」
「数えたことありませんわ」
「あはは」

彼女が笑うと、鋭い目つきがキュッと柔らかくなる。それが好きだった。笑顔の彼女は可愛いくて、愛らしくて……何よりも愛おしい。
彼女が目をこする。眠くなってきたらしい。満腹になり、アルコールも入ったせいだろう。
ごろん、とソファーに寝そべる。

「ちょっと、仮眠」
「しばらくしたら叩き起こしますから。その時はちゃんと起きてくださいね」
「……鬼」

ムスッとした顔で私を睨む。だが、すぐに目許は緩くなっていき、ゆっくりと瞼が閉じられる。
少し離れて私が食器を片している間、彼女はすっかり眠ってしまっていた。
とても穏やかな寝顔だ……見ているだけで、愛おしさで胸がつぶれそうになる。

「こんな私を……あなたはいつも頼ってくださるのね」



“……ウチでええんかな、って”



 彼女の言葉が蘇る。


「……私だったら、そんなこと言わせませんわ」


 私だったら、彼女に不安など抱かせない。
私だったら、もっと彼女に自信を持たせられる。
私だったら、愛されていることを実感させられる。
私だったら……私だったら、私だったら…………!!!!


「……いけませんね」
 
 昔から、すぐこうやって嫉妬してしまう。彼女に近付く人間を全て八つ裂きにしたいと何度思ったことか……それももう、終わりにしなければ。
彼女の唇が寝息で上下している。薄桃のそれに何度口付けたいと願ったことか……叶わない、叶わなくていい、愚者の願いだ。
美しいこれに口付けるのは、ただ一人でいい。
……あの男なら、彼女を幸せに出来るだろう。あっちは遊びのつもりだ、と彼女は言っていたが、彼のことを話す時の彼女はとても幸せそうだったから……惹かれ合っているのだから、案ずることはない。

私はただ、彼女の幸せを願うだけでいいのだ。

 私の愛しい人。


「……幸せに、なってくださいね」



 だからどうか、今だけは泣かせてください。















2014.9.18
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