※グロ、嘔吐描写あり。大丈夫な方のみどうぞ!



















 
 私が教室のドアを開けたのと彼女が手首にカッターナイフを突き立てたのはほぼ同時だった。
 放課後、誰もいなくなった教室はまだ明るく、蒸し暑い。今日は真夏日と天気予報が言っていたのを思い出す。彼女は窓際に立っていて、左手にカッターナイフを握っている。右手首から滴る血が、彼女の上履きに染みこんでいく。
 何が起きているのか分からなかったが、流れる赤が私を現実へと引き戻す。
 思わず持っていた本を落としてしまった。彼女に借りていた本だった。その音で彼女が振り向いた。整った顔が悲壮と絶望に満ちていく。
 
「やぎゅ……っ!」
「あの、仁王さん……」
「だめ……っ……!!」
 
 取りあえず彼女を落ち着かせようと近付いたら制止された。私の動きが止まる。その隙に、彼女は逃げ出した。床に投げ出されたカッターナイフが乾いた音を立てた。
 
「仁王さん?!」
 
 いきなり逃げ出した彼女に驚いたが、冷静になって彼女の後を追う。
 あんな血塗れの手を誰かに見られたらどうするのだ。早く彼女を止めないと。
 
 人の少なくなった廊下を走る。私の足音に気付いたのか、彼女が振り向いた。
 
「いやっ……こっち来んで……っ!!」
 
 今にも泣き出しそうな顔で彼女が叫ぶが、追い掛けないわけにもいかない。
 何度も「待ってください」と叫んだが、彼女はかぶりを振るばかりだ。
 とうとう彼女は校舎の外に走り出した。正門に向かって走っていく。上履きのまま、というのに一瞬足を踏み出すことが躊躇われたが、そんなことは考えていられない。
 
「仁王さん、待ってください!落ち着いて……っ」
「いや……っ、ウチに近寄らんで……!!忘れて……っ!!」
「……っ!!仁王さん!!危ない……!!」
「えっ……」
 
 
 丁度、私が叫んだのと同じくらいのタイミングで、彼女の姿が消えた。
 正確には、いつの間にか校外にまで逃げ出していた彼女が車に跳ね飛ばされたのだった。
 その状況を理解するのにしばらく掛かった。私の足はいつの間にか止まっていた。丁度、横断歩道の前だった。
 ぐしゃり、と嫌な音がして、目の前の道路に彼女が投げ出された。みるみるうちに辺りに赤い海が広がっていく。あまりにも衝撃的な光景を前にして私の頭は混乱していたが、一先ず彼女を道路から引っ張ってこないと……という考えは辛うじてあった。
 
「仁王さ……」
 
 今度もまた丁度だった。私が一歩踏み出した時、赤いスポーツカーが彼女の上を通った。
 髪を、服を巻き込んで、彼女は車に引き摺られていく。

「あ……あ……」
 
 私の脳は完全に考えることをやめていた。動かない頭でぼんやりと道路に赤い線が引かれていくのを見つめていた。
彼女を振り払おうとでもしているのか、赤いスポーツカーが蛇行し始める。その動きに合わせ、赤い線も蛇行する。
私が立っている横断歩道前から数十メートル先で、赤い線は止まった。赤いスポーツカーはすぐ見えなくなってしまった。
途端に身体中から力が抜けていった。その場にへなへなと座り込む。
 
向こうの方に赤い塊が見える。
あれ、は、きっと、変わり果てた、彼女、だ。
 
「うっ…………うえっ……」
 
 こみ上げる吐き気を我慢できず、その場に吐いてしまった。私の呼吸は乱れきっている。胃酸が喉を焼いて痛い。自然と涙が出てきたが、それは喉の痛みだけからくるものではないと知っている。吐瀉物の上に、涙が落ちる。
 
彼女は呆気なく死んでしまった。跳ねられて、引き摺られて。
彼女を追い掛けるんじゃなかった。もっと冷静になるべきだった。

私が、彼女を、ころしてしまった。

























 
「やぎゅう、だいじょうぶ?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「あ…………あ……!!」
 
 これは幻覚だ、夢だ。そう思った。言葉が出てこなかった。
 だが、それは間違いなく彼女だった。髪はボサボサ、服も至る所が破けていてひどい状態だったが、彼女だった。生きている彼女だった。
 手を伸ばし、彼女の髪に触れてみた。銀色の猫っ毛だ。彼女の髪だ。
 
「仁王さん……っ!!」
「ひゃ……っ?」
 
 思わず彼女を抱き締めた。温かい。彼女の吐息が首に掛かる。心臓の鼓動が聞こえる。彼女は生きている。
 確実に死んだ彼女が何故生きているのか、何があったのか。今そんなことはどうでもよかった。彼女が生きている。それだけで十分だ。
 腕の中で、彼女がもがく。赤い顔で私を見上げた。
 
「あ、の……柳生?」
「……良かった」
「え……?」
「貴女が生きていて、良かった……っ」
「…………」
 
 彼女はしばらく呆然としてこちらを見ていたが、次第にその双眼から、涙が溢れ出す。
 
 
「……ありがとう」
 
 
 
 その「ありがとう」が何に対してのありがとうなのかは分からなかった。
 
 
 
 人気のない歩道で、泣きながらお互いを抱き締めあっていた。
とある真夏日の、夕方のはなし。













2014.8.2
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