外に出て、看板を中に仕舞う。「open」のプレートをひっくり返すと、伸びを一つ。横目でショーケースの中のケーキの数を数える。 にぃ、しぃ、ろぉ、はぁ……いつもよりは多めに売れ残ってしまった。まあいいか。片付けが終わったら食べよう。家に持って帰っても良いし。あいつは……多分バイトだろう。本当はコーヒーでも淹れて一緒に食べたいけど。 ふと、何気なしに外を見る。街中を寒そうに歩く人がちらほら。斜め前のマクドナルド前にたむろする高校生が数人いた。寒いんだから中入れよ、と思う。 曇ったガラスを指でなぞる。だが、跡が残る、とこの前怒られたばかりだったことを思い出した……後で拭いておこう。落書きをハンカチで拭く。自分の顔がぼんやり映るガラスを、水滴が一筋流れた。 「……あ」 窓の向こうに、一匹の猫。私の方を向いて、ちょこんと座っている。厨房へ戻る。煮干しの袋を持って、外に出た。にゃあ、と猫が鳴く。私があげる煮干しを美味しそうに食べる。撫でた背中は少し冷たかった。 もっとくれ、と言わんばかりに猫は私の脚に擦り寄ってくる。 「はは、ちょっと待てって…………うわっ、」 アスファルトが少し凍っていたらしい。滑ってバランスを崩す。 その時、通行人と目が合ってしまった。一気に気まずくなる。 黒い髪の女の人。綺麗な顔だが、どこかで見たことがあるような気がする。 口許のホクロが目に入った──ふと、脳裏に浮かんだ顔と重なる。 「……仁王?」 不意に出た呟きに反応して、彼女の目が見開く。琥珀を縁取る睫毛は長い。 「ブンちゃん……?」 聞き慣れた声。そうだ、仁王だ、間違いない。髪が黒くなったせいか、一瞬誰か分からなかった。 「そうそう、丸井。丸井の文ちゃん」 「…………ブンちゃん」 その途端、仁王の顔がくしゃりと歪んだ。綺麗にメイクされた目から、大粒の涙が零れ始める。慌ててハンカチを差し出した。さっき窓を拭いたものだったけど……気にしない。 「おい、どうしたんだよぃ?」 「……っ、ブンちゃん……もう、ウチ……」 ずびずび泣き出す仁王となだめる私に通行人の視線が集まる。注目されることに対して慣れてはいるが、こういうのは好きじゃない。誰だってそうだろうけど。 いつの間にか猫はいなくなっていたが、煮干しはきれいさっぱり食べられていた。くそう。魚のクッキーぐらい置いてけよ。 「ここ、寒いから。中入れよ。な?」 取りあえず泣いてる仁王を店の中に入れる。 ドアを閉める直前、にゃあ、とまた聞こえた。 仁王を近くにあった椅子に座らせる。 「売れ残りでごめんな」 「あ……ごめん。ありがと」 モンブランと温かい紅茶を渡す。急いで淹れたせいか、色が若干薄い。 私も近くの椅子に腰を下ろした。 仁王の顔をジッと見てやる。もう泣きやんではいたが、ちょっと目の周りが腫れていた。それでも美人なことに変わりはないから羨ましい。 ふぅ、と仁王が溜息をついた。 「……で、何かあったわけか。ヒロシと」 「……っ、!」 「おーう、図星?まあ、それ以外に考えられねえけど」 「…………」 仁王が俯く。学生時代と一緒で、前髪は長かった。顔が隠れる。 「確か、ヒロシとは同棲始めたんだっけか。それでトラブった?」 「まあ……そんなとこやの」 「つか、お前が泣くって相当だろぃ。ヒロシに酷いことでも言われたか?実は性格悪いし」 「……別に何にも言われとらんよ」 仁王が顔を上げた。泣き腫らした瞳が、寂しげな色を浮かべている。 「何も柳生に言われとらんわけじゃないんよ……けど、柳生は何も言うとらんの」 「?」 「ただ、ちょっこし疲れたん」 そう言って仁王がティーカップを手に取る。少し温くなった紅茶をゆっくり飲む。 「……おいしい」 「熱くなかったか?」 何気なしに訊いた。すると、一瞬、仁王の肩が跳ねた。こちらを向いた顔が、また泣きそうになる。 「ブンちゃんは知っとるんよね……?ウチが猫舌って」 「まあ、な……」 私が首を傾げると、仁王が力無く笑った。 「……柳生な、ウチが猫舌なん、知らんの」 付き合い始めた時から、ずっと言えとらんがよ。 小さな声だった。ぽそり、ぽそり、仁王が言葉を零していく。 「毎朝、柳生がコーヒー淹れてくれるんじゃけどな、熱いんよ。それで、冷まして飲もうとするんじゃけど、柳生に『冷めますよ』ち言われて……。そんで、毎朝頑張って飲んどったんじゃけどな、やっぱり舌、火傷したん」 そこで仁王の言葉が止まった。唇を噛み締めている。目に溜まった涙は今にも零れそうだ。それでも仁王は続ける。 「……今日の朝な、やっぱ痛いけん、冷めたの飲もうち思うて、手つけんかったん。そしたら、『何怒ってるんですか』って……何も怒っとらんのにね。そんで、何か全部が嫌に思えてきてな、飛び出してきた。そんで色んなとこフラフラしとったら、ブンちゃんと再会」 アホじゃろ?ウチ。 自虐気味に言う様が痛々しい。静かに吐いた溜息は長い。 「コーヒーが熱かっただけが原因じゃないんよ……他にも、色々。ただオツキアイしとった時みたいに楽しいとか思えんの。柳生の嫌なとこばっか見えるし、お互いの知らんとこが浮き彫りになって……それを嫌やち思う自分が、一番嫌」 「…………」 「実は猫舌でした、なんて言うたらすぐに解決するのにね。でも、それ言うたら『何故今まで言ってくれなかったんですか』とか言われそうで、怖くて……柳生に嫌われたらち思うたら、何も言えんくなって……」 目に溜まっていた涙が遂に零れた。仁王のスカートに黒い水玉模様が出来上がる。 静かな空間にすすり泣く声だけが落ちていく。 仁王が言った言葉を噛み締める。ゆっくり、ひとつずつ。すると、ぼんやりと頭の隅で思い出が蘇っていく。蓋をして、紐でくくって、誰にも見れないようにしていたのに。 そして、いつの間にか私は口を開いていた。 「……あたしさ、ヒロシのこと好きだった」 私が言うと、仁王がバッと顔を上げる。今までに無いくらい目を見開いている。 「そんな……知らんかった……」 「当たり前だろぃ。誰にも言ってねえんだから」 まあ、柳は知ってたかもしれねえけど。 「それ、いつから……?」 「お前が柳生と付き合いだす前からじゃね?あんま覚えてねえ」 「そう……」 「あ、勘違いすんなよ?今はもう全然吹っ切れてるし。ジャッカルいるし。友達としか思ってねえよ」 「うん……」 私の突然のカミングアウトに相当驚いたらしい。文字通り言葉が出てない。おろおろする彼女をちょっと可愛いな、と思った。 「ま、さ。あたしは絶賛片想い中だったわけだ。それで、やっぱあいつと何がしたいとか考えちゃうわけ。手を繋いで帰りたいとか、デートしたいとか、そんなレベル。その頃からヒロシはお前しか眼中に無い感じだったから、もれなく失恋コースだったけどな」 最後のはジョークのつもりだったのだが、仁王が泣きそうな顔をしたので素直に謝る。 「ヒロシとお前が付き合い始めて、ちゃんと失恋はしたよ。泣いたし。で、その頃だったかな、柳にいきなり変なこと言われた」 「?」 「『恋は理想、結婚は現実。理想と現実を混同すると痛い目に遭う』──訳分かんねえよな。どっかの詩人の言葉らしいけどさ……言われた時、何言ってんだこいつって思ったぜ」 アメリカのコメディドラマみたく、肩を竦めてみせる。仁王はポカンとした表情で私を見ている。 「あたしがあいつに抱いてた感情って、恋愛は勿論だけど、憧れもあったからさ……そこにはやっぱ、崩したくない“柳生比呂士”ってのがあった。だから、仮に付き合ったとしても、あたしはあいつの嫌な部分見て幻滅したと思う。すぐ嫌いになったと思う。だから、あたしにとってヒロシと一緒になるのは“理想”だったわけだ。で、そういうことかー、って気付いたのは最近。アレ、参謀様なりの慰めのつもりだったんだろうな」 私がそう言って笑うと、やっと仁王も少し笑った。 「同等っていうかさ……同じ所に居ねえと、恋愛って辛いと思うぜ?憧れが強いと、その分あたしが背伸びするか、ヒロシが屈まなきゃなんねえだろ。お前とヒロシは同じ目線だったから、ここまで来たんだろうな。それに……」 「?」 「相手の嫌なとこ見ても好きってことはさ、理想だけじゃなくなってんだろ?ちゃんと現実見てるってことだろ?じゃあ何も問題なんかねえよ」 「ブンちゃん……」 「だーいじょーぶだって!ヒロシがお前のこと嫌いになるとかありえねえから!な?」 私が肩を叩くと、折角笑っていたのに、また泣き出した。 でも……もう今日はいいだろう。今まで溜めてた分を全部出し切ればいい。 すっかり黒くなった仁王の髪をわしゃわしゃにしてやる。 厨房に戻って紅茶を淹れ直す。今度はちゃんと、ゆっくりと。 外に人の姿はほとんど無かった。たむろしていた高校生たちもいなくなっていた。閉まった店も多い。街灯が照らす道を、人がチラホラ歩いている。 「もういいのか?あたしン家泊まってもいいんだぜ?」 「ううん……話聞いてもらえてスッキリしたがよ。もう、だいじょうぶ」 そう言ってにっこり笑う。すっかりメイクが落ちてしまったが、その笑顔はとても綺麗だった。相変わらず。 手を振り、しばらく仁王の背中を見送っていた。 すると、ポケットのケータイが震えた。あいつからのメールだった。今日は早めにバイトが終わったらしい。 いつもならそこで返信して終わりだけど……電話帳を開き、お気に入り登録した番号に掛ける。 コール音が響く。 『……文?どうした?』 「あたしさ、やっぱりあいつのこと好きだった」 『…………』 「仁王が気付く前からずっと好きだったし、あいつなんかよりずっと好きだったし、二人が付き合いだしても、ずっと好きだった。代わりにあいつのことは大っ嫌いになったし、めちゃくちゃ恨んだし、死ねばいいとも思った。でもさ、やっぱりあいつはあたしの友達だし、嫌いになりきれねえし!ヒロシのこと好きだったなんて、そんな……知らなくて良かったのに、言っちゃったよ!あたし!最低だよな!…………ホント最低」 歩道に人はいない。私の叫びだけが、静かにこだました。沈黙が訪れる。 『……文』 いつもの声。優しい声。 いつも傍にいてくれた、あいつの声。 『俺は、そうやって全部抱え込んじまう優しい文が、ずっと好きだったよ』 「……過去形かよ」 『いや、現在形。日本語苦手なの知ってるだろ』 『……日本来て何年経つんだよ、バーカ』 いつまでたっても変わらない悪態を、電話の向こうで笑ってくれる。その後ろで、少しざわついた声が聞こえた。どうやらバイト仲間に聞かれたらしい。きっと、冷やかされているんだろう。自然と笑顔になった。 『迎えに行く。店で待ってて』 「一分で来て。来い」 『いや、普通に無理』 クソ真面目に返事をする彼に、「急いで来い」と言って電話を切った。彼はきっとすぐに来てくれるだろうけど、きっと私は文句を言う。そしたら、きっと彼は笑いながら「ごめん」と言うのだ。彼はとても優しいから。 見上げた夜空にオリオンが浮かんでいる。ふぅ、と吐いた息は白い。 これで良かったんだ。仁王も柳生も幸せ。私もようやく幸せ。みんなで笑える。まだ少し残ってはいるけれど、長いこと溜め込んでいたものをようやく吐き出せた気がする。 二度と恋なんてしない、とか思っちゃってたけど、もう大丈夫。ちゃんと笑える。笑って話せる。泣かないで言える。今はちゃんと、彼が好きだから。 「……初恋なんて、苦過ぎて食えねえよ」 恋を失くしてから八年ちょっと。苦かった恋を、笑えるようになりました。 2014.4.14 . |