「お誕生日おめでとうございます」

その言葉と共に、ポケットに入れておいた箱を差し出すと、彼は驚いて私の方を見た。

「私と、生涯を共にしてくれませんか」

心の中で何度も練習したセリフだったが、実際口にしてみると緊張するし、少し恥ずかしい。顔が熱いのが分かった。いい年した大人がこうも照れているというのは、中々に滑稽である。
ちらり、彼の顔を盗み見た。泣きそうな顔で、ワインレッドの立方体を見つめていた。絶対嬉しそうに笑ってくれると思っていたから、その反応は予想外だった。

「……嬉しくありませんか?」

私の問いかけにゆっくり首を振る。黙って俯いている様は、何かを迷っているように見えた。

「……私が男だから、迷っているのですか?」
「っ、違う!そんなんじゃ……」
「では、どうして?」
「………………………」

彼はまた黙ってしまう。彼が口を開くまで、私も何も言わないでおこうと決めた。
東京の夜景が一望出来るホテルの一室は至って静かだ。部屋に設置された空気清浄機と、外の飛行機のエンジン音がよく聞こえる。

「……柳生には、アイツがおるじゃろ」

しばらくの沈黙の後、絞り出すような声で彼が言った。

「お前さんには、家庭がある。こんな関係も、本当はあかんことなんじゃろうけど……それをぶち壊すようなこと、俺には出来ん」

彼の言う“アイツ”とは、世間的に言うと私の妻のことだ。中学校からの同級生で、当時彼に協力してもらい交際を開始し、結婚まで至ったのだが……もうそんなことは関係ない。
もう仁王くんが不安がったり、罪の意識を感じることはもうないのだ。

「……今日、これを渡されました」

鞄から封筒を取り出し、彼に渡した。彼は訝しげな表情でそれを受け取ると、そっと中身を取り出した。それを見た途端、彼の目が大きく見開かれた。そしてどんどんその瞳に涙が溜まっていく。

「やぎゅ……これ……」
「そうです。離婚届です」
「……っ、」
「愛してます、仁王くん」
「柳生……俺……」
「一緒に幸せになりましょう」

彼の目から大粒の涙が零れる。涙を拭う彼の手を引くと、自分の胸に抱き寄せた。腕の中の仁王くんはとても細かったが、間違いなく男性だった。漏れる嗚咽も男のものだ。決して女性的ではない。だが、私はこの男である仁王くんを愛しているのだ。あの女性のことは、もう愛していなかった。

「明日、これを持って、役所に行きましょう」

私がそう言うと、彼はそれをまるで私たちの婚姻届であるかのように、嬉しそうに見つめた。


「終わりにしましょ」


自分の荷物を全てまとめた彼女はそう言い、これを残して家を出て行った。荷物が半分無くなったその家は寂しいどころか清々しささえ感じた。
彼女との生活は特に印象に残っていない。私が医者という職業に就いていることもあり、帰りも遅く、夫婦での時間は本当に限られたものとなった。私たちの関係はどんどん冷えていった。
彼女との時間が少なくなる一方、仁王くんと過ごす時間は増えた。
彼は私が勤務する病院から然程遠くないバーで働いていた。同僚に誘われて偶然、私たちは再会したのだった。
バーカウンターを挟んで思い出話に花を咲かせることは何よりも楽しかった。彼は私の一番の親友で、お互いを理解し合ったベストパートナーだったのだ。彼は話を聞くのが上手い。
私は彼に色々なことを話した。高校を卒業してからのこと、今働いている病院のこと、当時付き合っていた人と結婚したこと。その度に彼は頷いて相槌を打ち、私に微笑んだ。
彼に会うため、それ以来私は仁王くんが働くバーに足繁く通うようになった。
その一方で、私が家に帰る時間は段々遅くなっていった。

ところがある日、彼を酔い潰してしまった。調子に乗りすぎて飲ませ過ぎてしまったようだった。声を掛けても、赤い顔をして「うーん」と唸るだけで、起きる気配がない。私に責任があると店主に言い、その夜私は彼を送って行った。
タクシーに乗せ、しばらくそのまま走っていると、彼の頭が私の肩に乗った。上から見下ろす彼の睫毛は長く、トンネルのライトに反射して光っていた。彼の容姿は美しい。学生時代の面影を残しつつも、彼はハンサムな男性になっていたのだ。
彼の頭が動く。薄い唇が微かに動いた。

「……やぎゅう、好き」

本当に小さな声だった。運転手には聞こえなかったようで、運転席で鼻歌を歌っている。
私の心臓がおかしな動きを始める。彼を見つめていると、それはますますひどくなる。
私はこの心臓の動きが何を表わしているか知っていた。そんなはずはない。彼は私の親友だ。そのような感情を抱くはずがない。だけど動悸は治まらない。
彼の住むアパートに彼を連れていく。あまり物が置いていないシンプルな部屋だった。微かに甘い匂いがする。アロマでも焚いているのだろうか。
ベッドに彼を寝かせると、丁度彼が目を開けた。水が欲しい、と虚ろな目で言う。半身を起した彼にグラスと渡すと、彼が少し気まずそうに私を見た。頬を掻きながら、小さな声で言った。

「……俺、何か変なこと言っとらんかったかの?」

そう言った彼の目を見た途端、身体から何か熱いものが湧き出るような錯覚にとらわれた。持っていたグラスを落としてしまう。下は布団の上だったので割れることはなかったが、飛び散った水が彼の身体を濡らした。
白いシャツが張り付いて、胸の飾りが浮き彫りになった。

「…………っ、!」

動悸が最高潮に達した。私は衝動的に彼を押し倒し、濡れたシャツを脱がせ、何か言おうとしていた唇を自分のもので塞いだ。
そして、そこで初めて、私は彼を抱いた。

そこから始まったのが今の彼との関係である。
あの呟きは彼の本心で、実は中学生の頃から私に好意を寄せていたという。それを知って私の胸はとても苦しかった。あの女性との仲を取り持ってほしいと頼んだのは、他でもないこの私なのだから。知らず知らずの内に彼を傷つけていたことを悔やんでいると、彼は私を抱きしめ、「今、幸せやからええ」と笑った。髪を撫でると、少し恥ずかしがりながらも嬉しそうに笑った。
彼が愛おしい。彼が傍にいてくれるだけで、私はとても幸せだった。

「お前の奥さん、この前知らない男と歩いてたって……」
「……そうですか」

彼との秘密の関係が始まってからしばらくして、同僚から伝えられた。突然の報告に私はただきょとんとしてしまった。向こうは私があまりにショックを受けていると捉えたようだったが、それが私の素の反応だった。私の胸中には何の波風も立たない。心の海は凪いでいる。あちらが他所で男を作ろうがもう私にはどうでもよかった。
今私が愛しているのは、仁王くんだけなのだから。

ベッドに横たわる彼の髪を撫でる。汗で少し重くなった猫っ毛は綺麗な銀色だ。少し赤い目尻を撫でると、くすぐったそうに身体をよじらせた。彼が薄眼を開ける。

「やぎゅう……」

伸ばされた左手には、指輪。

「愛していますよ、仁王くん」

お誕生日おめでとう、愛しい人。
これからは二人で幸せになりましょう。










愛してるよプシュケ














柳生がシャワーを浴びている音が聞こえる。
オレンジ色の明かりに左手をかざす。銀色が薬指で輝く。
視界がぼやける。頬に温かいものが流れる。
柳生が俺にくれた。俺を留めておきたいって。自分のものにしたいって。
優しく、でもちょっと強引に俺を抱きながら、柳生がそう言ってくれた。
俺は柳生のもので、柳生は俺のもの。
紅茶色の髪も、鋭い目も、甘いテノールも、優しくて逞しい腕も、全てが俺のもの。
柳生は、俺のもの。誰のものでもない、俺のもの。

「…………………クククッ」

やった。
やったやった!!
やったやったやった!!!!!!!!
俺の勝ちだ!あの女から、柳生を奪ってやった!
時間は掛かったけど、これでもう、柳生は俺のものだ。
俺の方が柳生と一緒にいたのに、俺の方が柳生のこと好きだったのに、あの女に奪われた。
あの女のことが好きなんて、真剣な目で言ってきた時は世界がひっくり返ったかと思った。
柳生があんな女好きになるわけがない。柳生は俺のこと、パートナーだって言ってくれた。その柳生が、俺を裏切るはずがない。
可哀そうな柳生。あの女にたぶらかされて、頭がおかしくなっちゃったんだ。
俺が助けてあげる。ちょっと時間は掛かるけど、絶対に助けてあげるから。


「もうあの人とは終わったの。今は、貴方だけを愛してるわ」


柳生のいない家で、俺を迎え入れた女。いやしくて汚い女だった。
変装してちょっと声を掛けたら、俺が元同級生とは気付かずにあっさり脚を開きやがった。何て淫乱な豚だろう。あんな女、柳生にふさわしくない。
「役所でもらってきたの」と、自分の名前を書いた離婚届と婚姻届を俺に見せる。
柳生と離婚したら俺と結婚するつもりでいる馬鹿な女。いくつも結婚式場のパンフレットをもらってくる姿はまるでピエロだ。薬指から指輪を外すと、安っぽい映画のワンシーンみたく、シャンパングラスに投げ入れやがった。柳生が悩んで選んだ指輪に何てことするんだ、と怒りに震えたが、仮面をかぶるのは得意だ。歯の浮くようなセリフを並べただけでうっとりとした顔を浮かべる。俺の嘘まみれの言葉でこうなる女に柳生がポエムを綴っていたと思うと、殺意が湧いた。
心の底から殺してやりたかったが、それじゃ足りない。あの女から全てを奪って、絶望のどん底に叩き落とすと決めたのだから。
だから、あの女がウィッグ越しに頭を撫でることも、口紅を塗りたくった唇でキスしてくることも我慢した。
全ては柳生のため。柳生のためなら、俺はどんな仕打ちにも耐えてみせると決めたのだから。


普段使っているものとは別の携帯電話が鳴りだす。開くと着信の他に、大量のメールが届いていた。離婚届を見せられた日以来、連絡を取っていないから不安がっているんだろう、あのクソビッチは。
バイブがブーブーなっている。あの女と連絡を取るためだけのこれだったが、もう必要ない。真っ二つに折ると、窓の外に投げ捨てた。外は雪が降っている。白い地面に、二つに分かれた携帯電話が落ちていく。
これでもうあの女も終わりだ。あの女の友達を引っ掛けて近付いたから、今頃、人の男を奪ったひどい女だって噂されているはずだ。ざまあみろ。

冬の風が髪を掬う。裸体にはものすごく寒いけど、そんなことは気にならない。でも風邪なんてひいたら柳生が悲しむ。ゆっくり窓を閉めた。反射するガラスに俺の身体が映った。
首筋、胸にかけて散る紅。
柳生が俺につけてくれたシルシ。柳生のモノだって証。

あの夜もたくさん、つけてくれた。

柳生が俺を送ってくれた日、酔い潰れたフリをして柳生の肩を借りた。
懐かしい柳生の匂い。シャンプーと洗剤の香りが混ざり合った良い匂い。この心臓のドキドキが柳生に伝わるか心配だったけど、この匂いをあの女も纏っているのだと思うと、嫉妬で胸の奥が燃えた。
柳生がアパートのドアを開けた時、俺は息を止めた。媚薬効果のあるアロマを事前に焚いておいたのだ。バーの方で念のため、ちょっとだけ薬を盛っておいたけど……相乗効果もあって、柳生は俺に欲情してくれた。お互いに媚薬の効果が出て、とても甘い夜になった。
柳生が俺を欲しがった夜。忘れられない、大切な思い出。

自分の身体を抱きしめると、そのままベッドに倒れこむ。さっきまで寝ていた柳生の香りに包まれる。

大好きな柳生。俺の柳生。
だいすき、大好き。柳生が好き。


「愛しとうよ、柳生」



左薬指の重みが、嬉しい。
ああ、何て素晴らしい誕生日プレゼントなんだ。







お題提供: 確かに恋だった

2013.12.4
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