ああ、ホントに馬鹿だ、私は。 同棲する恋人の誕生日。今年は偶然にも土曜日で仕事は休み。ただ医者である恋人は帰りはいつもより早いものの、その日も病院勤務だった。 だがそれは逆に都合が良い。準備する時間がたっぷりあるのだから。 今年は特別なものにしてやろうと、一人意気込んだ。 誕生日当日。おはようの挨拶と一緒に、誕生日おめでとうの言葉を彼に送る。「貴女は毎年楽しそうですね」という毒舌と、興味無さそうな顔が返ってきた。だが、僅かに頬が緩んでいたのを私は見逃さなかった。 いつも通り出勤する彼を見送った後、急いで出掛ける準備をする。軽いおしゃれと控えめなメイク。買い出しとは言え、私も女である。買い物リストを片手に隣町のショッピングモールへ車を走らせた。 土曜日ともなるとそれなりに人はいる。カップルが手を繋いで仲良さげに歩いている所を見ると、ああいう誕生日の過ごし方もあるんだなあ……と、少し寂しく感じる。だがすぐに気を取り直す。やることはたくさんあるのだ。アンニュイな気分になってどうする。 夕飯の材料はいつもよりいいもの、ワインは彼の好きな銘柄。私用の果実酒もこっそり買う。流石にところてんは売っていなかったので、くずきりで代用。あらかじめ予約しておいたブランドのハンカチを受け取り、スターバックスで少し休憩。全て終わり、大きくて重い買い物袋を三つ下げ、車に戻る。 買い物が終わってもやることはたくさん残っている。マンションに戻るなり、すぐさま台所に向かう。 まずは夕飯の準備だ。いつもより丁寧に、きちんと下ごしらえをして調理を始める。それが一段落すると、部屋の準備に移る。新しく買ったランチョンマット、ワイングラス、紫色のアロマキャンドル。彼の好きな花を花瓶に生ければ完成。お洒落な空間が出来上がった。 料理の方を仕上げて、少し仮眠を取るつもりでソファーに寝転んだ──それがいけなかった。 耳元でうなりを上げるケータイの鳴き声で目が覚めた。ぼんやりした頭で通話ボタンを押す。友人の丸井からだった。 『お前いつケーキ取りに来るんだよぃ』 完全に覚醒した。 そうだ、パティシエの丸井に柳生の誕生日ケーキを頼んでいたんだった。取りに行くと約束していた時間をはるかにオーバーしていた。リビングを見渡せば夕焼けが差し込んでいる。 血の気が引いた。もうすぐ柳生が帰ってくる。 慌てて跳ね起き、車を飛ばして15分。やっと丸井の勤務するケーキ屋に到着する。すでに丸井は店の外にいた。私を待っていてくれたようだった。 「時間通りに来ねえのは分かっていたけどよ、全然来る気配ねえからさ」 電話して良かったぜ。 そう言って苦笑する赤髪。頭を下げる私に「気にすんな」と言う彼は本当に善い人だと思う。 店の奥から丸井がケーキを運んできた。小さいワンホールのバースデーケーキ。二人で普通のワンホールケーキは大きすぎると零したら、特別に小さめのものを作ってくれると丸井が言ってくれたのだ。 “Happy Birthday”と書かれたチョコのプレートを乗せれば完成。白い箱に入ったそれを受け取り、丸井の店を後にした。 もしかしたら、もう柳生は帰っているかもしれない。念のため連絡を入れようとケータイを探すが、見当たらない……どうやらリビングに置いたまま、忘れてきてしまったようだ。 「本当に貴女は馬鹿ですね」 腕を組んだ柳生にチクチク小言を言われる自分を想像して、少しげんなりする。 柳生が帰ってきていないことを願いながら、元来た道を帰った。 マンションに戻る頃には、完全に陽が沈んでいた。 急ぎたい所だが、ケーキを崩さないよう、そっと歩く。平行に、水平に、ほとんど歩いているような全速力で。 ようやく玄関前に辿り着き、鍵を取り出す。が、目線を下げた時に気付く。ドアの隙間に私のサンダルが挟まっている。家を出る時に鍵はちゃんと掛けたはずだ。思いっきりパニックを起こしていたが、鍵を掛けたことはしっかり覚えている。 …………ということはつまり、柳生は帰ってきている。 ドアを開けた。私のものにしては大きい、綺麗に磨かれた革靴が、一足。 お小言コース、決定。 「ただいま……」 リビングで仏頂面が待っているんだろうな……と思ったが、いない。明かりさえも点けていない。薄暗い部屋に、私が用意した夕飯の準備がそのまま残っている。ケーキをテーブルに置き、辺りを見渡す。 「やぎゅー?」 ひたひた廊下を歩く。それほど広くはないマンションの一室だ。恐らく寝室だろう。思った通り、ドアが開いていた。 「ただいま……っ?!」 驚いた。ベッドの上に、白い物体──いや、布団に丸まった柳生。 何やってるんだか……。真ん丸になった柳生の傍に行く。ポンポンとそれを叩き、声を掛ける。 「やーぎゅ?遅なってごめんな、今帰っ……」 「────っ!!」 にゅっと伸びる手。あっという間に布団の中に引きずり込まれた。 わちゃわちゃと揉み合い、最終的に組み敷かれる形になる。布団が床に落ちた。 「ちょっ……柳生!」 遅くなったとは言え、これは無いだろう。噛み付く形で柳生の方を睨んだが……言葉を失った。 薄暗い空間の中、柳生の姿が浮かび上がる。 柳生は全裸だった。 視線を少しずらすと、部屋のあちらこちらに服が脱ぎ散らかしてあった。一糸纏わぬ姿で何も言わず、ただ私を見つめている。 それだけでも十分驚いたのだが── ぽた、ぽた。 温かい雫が、私の頬に落ちる。眼鏡を外した彼の瞳から落ちるそれが、外の光に反射した。柳生は泣いていた。 普段なら何があっても泣かない柳生が、泣くことを恥と思っているであろう柳生が、泣いていた。普段の冷淡な光は無い。久しぶりに見る柳生の涙に、ただ戸惑う。 ぼたり、ぼたり。 「仁王さん……」 消え入りそうな弱々しい声。いつもの見下す感じはゼロだ。私の腕を掴む手が、微かに震えていた。 「ただいま、柳生」 そう言って私がにっこり笑うと、柳生の顔がグシャリ、歪んだ。そのまま私に覆い被さり、首元に顔を埋めた。震える彼の身体をそっと抱き締める。 「におうさっ……私、ごめんなさ……っ」 「?大丈夫、柳生は悪ないよ。謝らんで」 「仁王さん……仁王さん……」 「うん、遅なってごめんなあ」 「……っ、……っ…………っ」 声を殺して泣く彼の背中をしばらくさすっていた。 ようやく落ち着いた柳生の話を纏めるとこうだ。 柳生が帰ってきたのは、私が丸井の店に着くか着かないかの時間だった。 『今から帰る』と私にメールしたら、返事が無い。そこで柳生はへそを曲げてしまったらしい。仏頂面で家に帰ると、玄関の明かりが点いていない。私が寝ていると思い、思い切り毒を吐きながら家に入る。 だが、家のどこを探しても私の姿が無い。夕飯の用意はそのまま、テーブルの上で私のケータイの通知ランプがピカピカしていた。時計を確認すると、柳生が帰ると伝えた時間を大幅にオーバーしていたらしい。 折角準備したのに、肝心の本人が帰って来ないことに腹を立てた私が、ケータイを置いて家を出て行ってしまった──柳生の思考はそこに行ってしまったようで。 柳生も私がここまで気合いを入れているとは思っていなかったらしく、一気に申し訳なさが押し寄せてきたらしい。後悔と自己嫌悪で頭がいっぱいになり、わめきふためいて、布団に潜り込んだ(全裸になっていたのもその一環だったようだ)──そこで私が帰ってきた。涙が出たのは、私が怒って出て行ってしまったからでは無いと安心した所から来たらしい。 「でも結局貴女が悪いんじゃないですか。仮眠のつもりが熟睡してしまうとかベタすぎるでしょう」 「じゃけ、ごめんて言うとるじゃろ……いい加減許して?」 「許しません」 明るい寝室で柳生が服を着る。脱ぎ散らかしたそれらを集めるのは私だ。順番に渡していく。最後にネクタイを渡そうとすると、柳生が顔を天井の方へ向けた。結んでほしいらしい。 去年私があげた深緑色のそれをキュッと締める。そしてそのまま、その胸に顔を寄せた。 「のぅ、比呂士さん」 「……何です」 「明日、デートせんか?」 「…………」 「デート、しよ?」 「……仕方ありませんね。してあげないこともないです」 ですが。 そう言って彼が、私の頬に手を掛けた。自然に顔が上を向く。眼鏡越しの鋭い瞳が私を見据える。 「他に言うこと、あるでしょう?」 「……お誕生日、おめでとうございます」 「…………78点」 「中々厳しいのぅ」 「朝のやつが22点ですから、合計してください」 ふい、と目を逸らすが、その頬は桃色だ。 「さあ、早く夕ご飯の準備してください。お腹空きました」 「……そうやの」 テーブルに置いたままのケーキは一旦冷蔵庫に入れよう。ビーフシチューとロールキャベツを温め直して、ワインの栓を開けよう。プレゼントのハンカチは、ケーキを食べた後に渡すのが良いだろう。 その前にまずは、キャンドルに火を灯そうか。 紳士とわたしと涙色 2013.10.19 . |