仁王雅治という人間に私は幾度となく驚かされてきたわけだが、今日ほど驚いた日は無かったように思う。その衝撃はとてつもなく大きくて、これまで彼に仕掛けられた悪戯(彼曰く詐欺)が全て薄れて、まるでそれらが夢だったのではないかと錯覚させるほどであった。
別に彼が何かしでかしたわけじゃない。寧ろ彼は何もしていない。何かはしているのだが、何もしていないのである。元に戻った……というべきか。

「おはようさん」

風紀委員会による服装検査のため、校門前で立っていた私の前に彼がやってくる。今までと同じように、銀髪だった頃と同じように、まるで変わらず私に言う。

黒。
黒髪。
真っ黒な髪。
あの雪の色の面影も無い。彼の髪は黒かった。

猫のような表情は変わらない。当たり前だ。髪が黒くなろうとも、彼は彼だ。
しばらく呆然としていた私だが、ハッと我に返る。いつものように「おはようございます」、と言おうとしたら、少し上ずった声が出た。それを聞いた彼がクツクツ笑う。ポケットに手を突っ込み、クッと背中を丸める。
その時に気付く。今日の彼は制服を着崩していない。カーディガンも規定のもので、あの派手なベルトも彼の腰に巻き付いていなかった。首元にはきちんと結ばれたネクタイが鎮座している。

「じゃあ、昼休み。屋上」

そう言い残し、私の肩を叩いて、仁王くんは昇降口の方へ行ってしまった。揺れる黒い尻尾を、見えなくなるまで見つめていた。もしかしたら、こっちが夢なのではないかと思い、自分の頬を抓ってみた。ちゃんと痛い。ヒリヒリする所をさする。ふと、真田くんの方に目が行った。彼も、自分の右頬をさすっていた。
やはり夢では無いらしい。




「何のつもりですか、その髪」
「ひどいのぅ……」

彼と約束していた昼休み。開口一番に私がそう言うと、ボスンと私の胸にもたれかかる。ひどい、と口で言うわりには傷付いたような表情はしていない。彼の猫っ毛が首筋に掛かってくすぐったい。少し身をよじらせると、彼の腕が私の首に掛かった。近くで見る彼の睫毛はとても長い。

「やーぎゅ」
「何です」
「誕生日おめでとう」
「…………は?」

突然の祝福の言葉に、思わず聞き返してしまった。その時の私の顔はすごくマヌケだったと思う。ケラケラと仁王くんが笑い出す。口元で動くホクロがまるで生きているように見えた。

「今日お前さんの誕生日じゃろ。じゃけ、おめでとう言ったん」
「唐突すぎます。もうちょっとムードとか考えて……」
「こうかの?」

近付いてくる唇。サッと手の平で塞ぐと、彼がムッとした顔をする。反撃のつもりか、手の平を噛まれた。引っ込めようとしたら、すかさず指を甘噛みされた。そのままちゅっちゅと私の指を吸う姿がどこかいやらしい。黒髪になっても、やはり彼は仁王雅治だ。
吸うことに飽きたのか、しばらくして指が解放された。彼の口と銀色の糸で繋がる。それを私が舐め取ると、満足げな表情を浮かべた。すり寄ってくる彼の黒い頭を撫でた。

「柳生に一日平穏をプレゼント……と思ったんじゃがのぅ」
「それで黒髪なんですか」
「ん。服装検査の負担が減ったじゃろ。ちゃんと制服着とるから」
「真田くんが驚きすぎてほとんど動かなくてですね、その分を私がやったので仕事は倍になりました」
「ありゃりゃ」
「おかげでヘトヘトですよ」

背中を壁に付け、ズルズルとその場に座った。見上げれば、青空を背景にこちらを見る仁王くん。風に靡く黒髪の間から、少し、ほんの少しだけ銀色が見えた。
私が手を伸ばすと、彼も同じ目線に来る。完全にしゃがんだのを確認すると、彼のネクタイを引き寄せた。そのままネクタイを緩め、ブレザー、カッターシャツの順番でボタンを外す。最後にその黒髪を引っ張った。カツラが外れ、いつもの銀髪が姿を現す。
いつもの仁王くんがそこにいた。つまらなさそうに首を傾げる。

「何じゃァ、平穏はいらんかったんか?」
「全く平穏じゃありませんでした。面白かったですけど」
「じゃけ、それじゃプレゼントにならんぜよ」
「いいです。貴方がいれば」
「やァん、恥ずかし」

わざとらしく両手で頬を包み、いたずらっぽい笑みを浮かべる。ゆらゆら揺れる瞳は、何も言わなくても私にその意思を伝える。
彼の手を解き、唇を重ねる。桜色のそれは柔らかい。うなじをなぞり、後頭部に手を添えた。猫っ毛からシャンプーと彼独特の甘いコロンが香る。
唇が離れる。猫の目が、私に微笑んだ。

何も変わらない、いつもの仁王くん。
彼がいればそれで良い。何もいらない。


「誕生日おめでとう、柳生」



特別なプレゼントはいらない、と言ったら嘘になるけど。







黒猫からおめでとう











2013.10.19
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