昼休みのことだ。
バン、と屋上のドアが勢いよく開いて、紳士と名高い先輩が飛び込んできた。

「あ…………」

気まずい沈黙。

「……どーしたんスか、柳生先輩」
「……どうも、切原さん…………」

ワカメと揶揄されるくせっ毛の後輩が、大きな目で不思議そうに柳生を見つめる。
動く度に両肩の上で揺れるツインテールが愛らしい。

「珍しいっスね、柳生先輩が全力疾走とか」

切原に言われ、私としたことが……、と柳生は若干ズレた眼鏡を直す。

校内を全力で走ってきたせいか、未だ息は荒い。肩で大きく呼吸すると、熱を含んだ空気が肺に充満する。今日は真夏日と朝の情報番組で気象予報士が言っていたのを思い出した。雲一つ無い青空は見ていてとても清々しいのだが、遮るものが無い直射日光が辛い。暑いというより熱いと言った方が良いだろう。

「あの、切原さんはここで何を……?」
「これっスよ」

先程から掌で転がしていた物を見せる。

「……水風船、ですか?」

正解、と切原はニッコリ笑ってみせる。

「今日ピッカピカに晴れてるじゃないっスか。水風船で遊んだら涼しいし楽しいかなー?って」
「……………………」
「あ、ちゃんと後片付けはするっスよ!?」

柳生が風紀委員だったことを思い出し、切原は必死で弁明する。
風紀委員長であり所属するテニス部の鬼の副部長を思い出したのか、その顔は半泣きである。

そんな切原に、柳生は優しく微笑む。

「……見なかったことにして差し上げましょう」
「マジっスか!?」
「そのかわりと言っては何ですが、一つ訊きたいのです」
「?」
「仁王さんを見ませんでしたか?」
「におー先輩…………」

空を仰ぎ、切原がつぶやく。

「んー……朝練以来会って無いっス」
「そうでしたか。お昼休みに教室を出て以来、丸井さんも見掛けていないそうなので……」
「まあ、仁王先輩暑いの嫌いだし、こんな炎天下の中わざわざ屋上まで来ないっスよー」

成る程。切原の言う通りだ。
彼女がとても暑さに弱いのを今更ながら思い出す。

「図書館は行きました?あそこ、エアコンガンガンきいてて超涼しいんス」

司書の先生が厳しいのが問題なんスけど。
軽く図書館の方を睨む切原に苦笑する。

「図書館ですか……それは盲点でした。ありがとうございます、切原さん」
「いえいえ〜……あ、このこと副部長に内緒っスよ!」
「えぇ、分かってますよ」

最後に念を押すと、柳生は軽く苦笑した。
錆び付いた鉄製のドアを開け、屋上を後にする。

その彼を、切原は少し陰った目で見ていた。


完全に、柳生の気配が消えた。


「……柳生先輩、行っちゃったっスよ。良いんスか?」 
 
屋上のドアの上──貯水タンクの方に向かって言う。返事は無い。

「におーせんぱーい、聞いてますー?」
「……聞こえとうよ」

渋々という風に返ってくる土佐弁。
ドア以上に錆び付いた梯子を上ると、タンクのある場に腰を下ろす。
そこにいた先客──仁王は膝を立てて、顔を埋めていた。肩や膝にかかる銀髪が、妙になめかましい。

「八回」

「俺が柳生先輩に仁王先輩の居場所訊かれた回数っス」

「俺、あんたのお陰で嘘付くの随分上手くなりましたよ」
「ほぉ、それは良かったのぅ」
「嬉しく無いっス」
「照れなさんな」

未だ仁王は顔を膝に埋めたままだ。

「……仁王先輩」

改めて呼ぶと、半分だけ顔を上げる。
切れ長の瞳が、不機嫌そうに切原を見つめる。

「……何じゃ」
「何で柳生先輩から逃げてるんスか?」
「…………逃げとらんよ」
「嘘つき」
「今更じゃの」
「…………」
「…………」
「……………………」
「そんな怖い顔しなさんな。美人が台なしじゃけぇ……」
「先輩」

切原にしては珍しく真面目な声色に、口をつぐんだ。
立てていた膝を伸ばすと、仁王は貯水タンクにもたれ掛かる。自然と空を仰ぐ体勢になった。空は抜ける様に青い。

「……柳生さんがの、ウチのこと好きなんじゃと」

ポソリと言った仁王の言葉に、目を見開く。

「最初は何の罰ゲームか思うとったんじゃが……どうやら本気らしい」

ふう、と溜息を一つ。

「……返事したんスか?」
「いんにゃ、しとらん」
「それで柳生先輩から逃げてるんスか」
「おん」
「何で」
「ウチは、柳生の“親友”じゃけぇ」

友情と恋情は違うんよ。

そう言う仁王の瞳は、どこか暗い。

「……じゃあ柳生先輩にそう言えば良いじゃないスか。恋人は無理、友達でいたいって。それで全部丸く収まるんスよ?」

仁王は答えない。

「それに、避けてばっかだと嫌われますよ」
「……その方がええんよ」
「…………っ!?」

切原は自分の耳を疑う。

「何言ってんスか……」
「無理に友達のまま現状維持するよりも、お互い楽じゃけぇ、その方が……」
「ふっざけんな!!!!!!!!」

遂に切原がキレた。 
 
あー……こりゃ、悪魔化フラグじゃのぅ…………。

妙に冷静な自分を呪う。
切原が掴みかかってくるだろうと身構えるが、何も起こらない。

「……?」

不思議に思い、今まで空に向けていた視線を後輩に移す。

「……………………っ!?」

今度は仁王が絶句する番だった。

「……っ……ひっ……っく……っ…………」

切原が泣いていた。
小さな肩は嗚咽で震えている。頬を赤く染め、翡翠色の瞳から絶えず涙を零す姿に心が痛んだ。

「あ、かな……?」
「……せん、ぱいの……っ……嘘、つきぃ……っ…………」

“嘘つき”。

今まで散々言われてきた言葉が、痛い。

「ばかぁ……にお、せんぱい、のぉっ…………ば、かぁ……」
「…………赤菜……っ!」

思わず切原を抱きしめた。仁王の腕の中で、切原はもがき、むせび泣く。

「何でお前さんが泣くんじゃ……」
「せん、ぱいが……っ、嘘つき、だか、らぁ……っ…………」
「じゃけえ、それは今更……」
「嬉しかった、くせにぃ……っ!!」
「……………………!!」

心臓がドクリと脈打つ。

「やぎゅ、せんぱいに……っ、好き、って言われ、て……っ……にお、せんぱい、絶対……っ、嬉しかった……っ、はずっス……っ!!」
「赤菜……」
「なのに……っ、仁王先輩が、柳生先輩に、嫌われたいとか、言うからぁ……っ、俺……っ…………」

泣きながら自分の胸を叩く切原に抵抗することなく、少しでも落ち着くようにと、仁王はただその髪を撫でる。

「嫌いっス……柳生先輩に嫌われようとする、仁王先輩なんか、キライ…………」

震えながら言われた言葉が、仁王の心臓をえぐる。
でも、その痛みを顔に出すまいと“先輩”の顔で言う。

「もう泣きなさんな、赤菜。お前さんの気持ちはよう分かったき……」
「……っ、馬鹿!!」

少し緩んだ仁王の腕を解き、面と向かった切原が怒鳴る。

「俺は……っ、そんなこと言ってほしいわけじゃない…………!!」

ぎゅう、とスカートを握り締め、俯く切原。

「赤菜……」

切原の名前を呼んだ時、視界がぼやけた。それからすぐ、頬に温かいものが滑り落ちる。 
 
「あ…………」

泣いていた。

「え……あ…………」

どんどん自分の頬に流れるそれは、一向に止まる気配を見せない。

「やっと、泣いた」

訳も分からず涙を零す仁王を見て、切原がクスリと笑った。

「お前さんなぁ…………っ……」

思わず嗚咽が漏れた。
戸惑う仁王の手を、切原がキュッと握る。

「今日くらい、泣いた方が良いっスよ」

その声があまりにも優しくて。

「詐欺師、失格じゃ…………」

声を殺して泣く彼女を引き寄せ、切原はその銀色の頭に顔を埋めた。


「柳生先輩のこと、好きなくせに……」


























2012.11.24
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