※柳生が最低、マゾヒスト
※82♀が病んでる








梅雨明けの夏の陽射しの下、読書に勤しむ。
中庭の気温は高いが、木陰はよく風が通る。涼しくて心地好い。柳生の髪を掬う。ハードカバーのページをめくった。


「おい」


突然降ってきた声に顔を上げる。
丸井がこちらを見下ろしていた。太陽を背景に、赤髪がギラギラ光っている。逆光で暗い顔の中、紫色の瞳がこちらを睨み付けている。柳生の顔は穏やかだ。

「一体どうされたんです?そんな怖い顔して……」
「とぼけんなクソ野郎」

抑揚の無い低い声。彼女が相当怒っているのが分かる。

柳生は笑みを崩さない。

「てめぇ……っ!」
「おっと……」

丸井が柳生の胸倉を掴む。更に眼光は鋭くなり、ギリ……と歯ぎしりする。

「あたしが言いたいこと、分かってんだろうな」
「……横暴なのは、桑原くん限定なのではなかったのですか?」
「質問に答えろ」

丸井の手の力が強くなる。柳生が若干眉を潜めた。

「……ネクタイにシワが寄るので、手を離していただけませんか?」
「断る」
「……本当に横暴な人だ」

やれやれ、といった風に柳生が首を振った。
すると、突然その顔から笑みが消えた。感情が欠落した、能面のような表情になる。

「……あたしの言いたいこと、分かってんだろうな?」
「まぁ……大方は」
「なら良い。一回死ね」
「おやおや。私が死んだら…………仁王さんが悲しんでしまいますねえ……」
「────っ!!」

丸井の目が憤怒の色に染まる。柳生の能面がニヤリと笑い出す。

「てめぇ……どの口が言ってんだ……!」
「貴女は数奇な人だ……わざとなのではないかと思ってしまいます」
「……あんな反吐出そうな現場、誰が好き好んで見るんだよ」
「そうですよね。親友の恋人の浮気現場なんて、見たくありませんよねぇ」
「…………っ!」

挑発するような柳生の言葉に、丸井が一瞬拳を固める。が、すぐに手を開き、代わりに溜息をついた。柳生のネクタイから手を離す。

「丸井さん。貴女が怒る原因は大方分かりますが、貴女には関係ないことでしょう?何をそんなに……」
「だからそういう問題じゃねぇっつってんだろ!!」

丸井が吠えた。近くにいた生徒が驚いてこちらを見るが、彼女の剣幕にそそくさと逃げて行く。

「……丸井さん?」
「…………見ちまったのが、あたしだけなら良かった」

吐き捨てるように丸井が言った。怒りや悔しさが滲む瞳の色はドロドロしている。

「……昨日、仁王も一緒にいたんだよ。それで全部見た。お前が教室で知らねえ女とキスした所も、そのまま抱く所も、全部」

仁王が放心してたから、すぐに連れて帰ったけどな。
眉間にシワを寄せ、搾り出すように丸井が言った。大きな目には涙が溜まり始めていた。
柳生の表情は変わらない。

「……仁王さんには、先に帰っていてほしいと伝えたはずなんですがね」
「知ってたよ。それでもてめえと帰りたいから探しに行くって……それでこのザマだ」
「……まあ、あの女性には恋愛感情も何も抱いていませんよ。単なる性欲処理の道具として利用したに過ぎませんから」
「言い訳してんじゃねえよ」

ガン、と丸井がベンチを蹴る。木製のそれが、少し嫌な音を立てた。パラパラと細かい木の屑が落ちる。
丸井が脚を降ろし、スカートに付いた木屑を払う。そこで、柳生が顔を上げた。

「……それで、仁王さんは何と?」
「…………はあ?」
「私が見たのは、去り際の貴女の顔だけですから……あの場を去った後、仁王さんはどうしました?泣いた?怒った?」
「お前…………何言ってんだ……?」

満面の笑みで、嬉々として訊いてくる柳生が怖い。そんなに仁王を傷付けたことが嬉しいのか?
そのふざけた面をぶん殴ってやろうと思っていたが、この何とも言えない気持ち悪さに拳を下ろした。

「ねえ、丸井さん」
「…………………………………………仁王は、」

様々な感情が混ざり合った脳内。どの感情が口を動かしたかも分からない。ただ、言葉が漏れた。


『……ブンちゃん』


寂しそうな、悲しそうな。
未だ鮮明に残る仁王の顔。



「………………………………………………………………そう、ですか」



そして、それを聞いた柳生の表情は────────とてもつまらなさそうに見えた。













「やぎゅう」

部活が終わり、仁王が駆け寄ってきた。ニコニコしながら、柳生を見上げる。

「今日は、一緒帰れる?」

向こうから丸井が睨んでいるのが見えた。下手したら、今度こそ殴られるだろう。前歯が吹っ飛ぶかもしれない。

「……ええ、今日は、一緒に帰りましょうか」

そう言って手を出したが──その手を取ることなく、仁王は柳生の隣に並んだ。
……行き場を無くした手を、そっと引っ込めた。


夕闇が迫っている。
赤い空が徐々に群青に飲み込まれる。並ぶ電柱達が黒く染まっていく。



「……………………」

いつも通り、ではない。
会話は無い。手も繋いでいない。歩幅も微妙に合っていないし、二人の距離は少し遠い。
仁王の笑顔はややぎこちない。それに、時折こちらの表情を伺っているように見えた。

彼女をこんな風にした原因は分かっている。知っている。

「……あんな、柳生」

不意に仁王が口を開いた。そちらを見ると、彼女が柳生を見上げていた。上目遣いの琥珀色が揺れる。

「…………ウチのこと嫌いになったら、ちゃんと言うてな」

寂しそうに、悲しそうに。
仁王が、微笑んだ。


「────────っ、!!!!」


……どうして。どうして。


「どうして私を責めないんですか……!!?!」


柳生が仁王の肩を掴む。突然の叫びに、仁王はただ困惑している。
それでも柳生は続ける。

「何故怒らないんですか?!私は……っ、貴女以外の人間を抱いたんですよ?!それも貴女の目の前で!」
「やぎゅ……」
「怒ればいいじゃないですか!私を!最低の人間だって罵れば良い!」

柳生の指が仁王の肩に食い込む。その手は震えだし、やがて柳生は膝から崩れ落ちた。仁王のスカートを掴み、額をくっつける。自分より大きな身体は震えていた。
柳生は泣いていた。
その涙でスカートに黒いシミが出来る。頬を伝う涙がアスファルトに染み込んでいく。

「どうして貴女は笑うんですか……っ、このくらいのことじゃ傷付かないと?そんなはずないでしょう……!」
「……柳生は、ウチを傷付けたいの?」
「っ、違う!私は……私は……!!」
「やぎゅ……?」
「……………………ごめんなさい」

仁王のスカートを掴んでいた手が力無く地に落ちた。頭を垂れた姿はまるで屍だ。屍のまま、ポツポツ喋る。

「私は……貴女に嫉妬してほしかった……首を締められて、『他の女と喋るな』と言われたかった……貴女に束縛されたかった…………私は、」
「柳生」

仁王が身をかがめる。そしてその身体を抱き寄せた。力の抜けた身体をしっかり抱き締める。
仁王の温かい手が、背中をさする。

「表には出さんでも、ウチはそれなりに嫉妬しとったよ?お前さんがブンちゃんとか、委員会の女の子と喋っちゅうと、何かモヤモヤしとった」

これも立派な嫉妬じゃろ?
子どもに言い聞かせるように、ゆっくり、優しく。仁王が語りかける。

「昨日柳生が知らん子と、その……セックスしとったん見た時は、頭おかしなるか思った。全身の血が沸騰して、脳味噌引っ繰り返って、胃酸が逆流する感じ…………あの時、傍にブンちゃんおらんかったら、どうなっとったか分からん」
「仁王さん……」

そう柳生が呟くと、仁王が柳生の身体を離す。彼の目を見てニッコリ笑った。

パァン!

乾いた音が鳴る。仁王が柳生の頬を張ったのだ。
先程までの笑みは消え、凍てつく視線が柳生に突き刺さる。

「怒ってないち言うたら嘘になるし、お前さんのこと許したわけじゃなか。正直言うたら、今でも柳生のこと、ぶっ殺したい」

全体的に低い声だったが、最後の言葉だけ更に低い。
本物の殺意が籠もったそれに背筋が凍ったが……顔を上げた柳生の顔は、とても嬉しそうだった。

「……何でそがいに嬉しそうな顔しゆうがよ、おまんは」
「……嬉しいからです」
「……変人」

少し呆れたように、クックと仁王が笑った。柳生と共に立ち上がる。
仁王が取り出したハンカチで、柳生の涙を拭く。すると、今度は柳生の腕の中に収まった。

「柳生……苦しい」
「あの……私が好きなのは、仁王さんだけですから」
「嘘くさい……」
「……これから先、またこういうことを私はするかもしれません。ですから、その……その時は、私のこと、殺してくれませんか?」
「……何それ。プロポーズ?」
「そう受け取っていただけたら嬉しいです」
「……自分勝手やの」


ふふふ、と仁王が笑う。


嬉しそうに、楽しそうに。


目の前の最愛の人に向かって。


綺麗な笑顔で、軽蔑の言葉を放つ。





「やぎゅうなんて、だいっきらい」






だけどもそれは、愛の言葉。
















2013.9.13
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