「行かないんですか?」 陽が落ち始めた。病院のロビーがオレンジ色に染まり始める。座る俺の前に立つ柳生のローファーが夕日に光った。 「……樺地に連絡することがあった。先に行け」 「跡部くんってすごく嘘が下手ですよね」 柳生が軽く息を吐き、眼鏡のブリッヂを押し上げた。苦笑しながら俺を見る。 「君がここまで臆病とは思いませんでした」 「おい、誰が臆病だ」 「今、私の目の前でロビーのソファーに座ったまま動こうとしない、氷帝学園テニス部部長のことです」 「噂には聞いていたが、お前は紳士じゃねえな」 「私が名乗っているわけではないので関係ありません」 そう言ってニコリと笑む柳生。ハーフミラーコートが夕日に反射する。……色々と食えない野郎だ。 再び柳生が眼鏡のブリッヂを押し上げる。どうやらこれはこいつの癖らしい。 「仕方ありません。私は先に行ってますから、決心がついたら来たまえ」 「……分かった」 「仁王さん、拗ねていないと良いんですけどねえ……」 皮肉めいた言葉を残し、柳生が病棟の方へ歩いていった。 一人、残される。 「……………………」 “君がここまで臆病とは思いませんでした” 柳生の言葉が脳裏に蘇る。 「……………………………………」 “臆病”なんて、初めて言われた。心外だが、柳生の言葉を否定出来ないのが悔しい。 髪をかき上げ、溜息を一つ。 ……簡単なことだろう。立ち上がって、柳生を追いかけ、仁王のいる病室に入る。後は見舞いの花束を渡せば完璧だ。 だが、足は動かない。俺の足のくせに、動かない。 「動けよ。俺の脚だろうが」 俺は分からないのだ。仁王にどんな顔を向ければ良いのか、何と言えば良いのか。 きっと俺に求められているのは、申し訳なさそうな表情と、謝罪の言葉だ。 俺に非は無い、と皆言ったが、それは俺に気を遣ってのことだろう。直接的に俺が悪いとは言い難いが、間接的に俺が仁王を病院送りにしたことになる。俺自身そう思う。罪の意識を感じていなければ、俺の足は動いている。 「……だらしねえな」 ソファーに背を付ける。隣で花束のラッピングペーパーが音を立てた。淡いピンクの百合だ。幸村と見繕ったこれも、もしかしたら無駄になるかもしれない。その暁には、俺の五感は奪われるだろうが。 そっと花束を持ち上げ、その匂いを嗅ぐ。甘い、けれどきつくない香りだ。薔薇を持って行こうとして幸村に胸倉を掴まれた今朝が懐かしく感じる。天井を見上げた。 「……情けねえ」 息を吐く。試合直後でも無いのに、この疲労感は何だ。これじゃ体力に自信があるとか言ってられねえ。 陰りの入ってきたオレンジ色をぼんやり眺めていた。 「跡部くん」 突然の呼びかけに身体が跳ねた。柳生がいつの間にか戻って来ていた。 「遅いと思ったら……まだウダウダやってたんですか?黒部コーチ来ますよ?」 「……うるせえ」 「こんなことはあまり言いたくありませんが……君今日何をしに来たんです?黒部コーチに無理を言って連れてきてもらったんですよ?」 「……分かってる」 ふぅ、と柳生が溜息を吐いた。俺の様子に呆れているようだった。 柳生の言うことは痛いほど分かる。俺はここに何をしに来た?仁王に会うためだ。ここでウダウダやってただ座るためじゃない。 「……今日は帰ります?また、日を改めて……」 「いや、仁王に会うまで帰らねえ」 柳生の言葉を遮る。少し驚いているようだったが、何故か安心したように息を吐いた。 「……仁王さんに会う気は、あるんですね?」 「当たり前だ。それが目的でここに来たんだろうが」 「そうですか」 そう柳生が言った途端、急に視界が揺らいだ。柳生が俺を立ち上がらせたのだ。掴まれた左手を振り払う。一瞬、しまった、と思ったが、柳生は気にする素振りを見せない。寧ろ嬉しそうだ。 最初からこうすれば良かった、と言い、今度は柳生が腰を下ろした。 「今、仁王さん寝てるんです」 「!」 「待ちくたびれたみたいで、私が行った時にはもう眠そうでした」 穏やかな笑顔で俺を見上げる柳生。鞄から分厚いハードカバーを取り出し、膝の上で広げた。 「ここで待ってますから、花束だけでも置いてきたまえ。手紙でも添えれば、気持ちは伝わるでしょう」 そう言ったきり、柳生は何も言わない。本の世界に入り込んでしまったようだ。 俺も何も言わず、その場を離れた。 向かうは、仁王の病室。 『仁王雅』と書かれたプレートの前で立ち止まる。……何故これほどまで緊張するのだろう。 花束を握りしめ、引き戸をそっと開けた。 「……っ、」 仁王が眠っていた。こちらを向いていたため、一瞬起きているのかと思った。叫びそうになったが、グッと堪える。近くにあった椅子に花束を置くと、もう一つの椅子に腰掛けた。穏やかに寝息を立てる仁王の顔を見つめる。 解かれた銀髪が枕元に広がっている。薄い黄色のパジャマを着ていた。小花が散った可愛らしいデザインだ。 だが、俺の視線は自然とその左腕に行く。袖から手の甲まで巻かれた包帯が覗く。わずかに膨らんだ長袖のシャツが、どこか痛々しい。 「……………………」 ずれた布団を胸まで上げてやる。寝付きは良い方らしく、少し腕に触れてしまったが起きる気配は無い。 そうだ、置き手紙……。 ペンはあるが、便せんが無い。つい樺地を呼びそうになったが、我に返り、上げた腕を降ろした。やはり樺地がいないと色々不便である。 持ち歩いていた手帳を取り出す。確か余白のページがあったはずだ。ピリピリと慎重にページを切り離していく(先日忍足がやっていた。こんな庶民的なことは初めてだ)。 「…………あとべ?」 「うおっ?!」 突然の声に驚き、手元が狂った。だが、斜めに破れたページなどもうどうでもよかった。 「仁王……!」 「お見舞い、来てくれたん……?ありがと」 「悪い、起こしたか?」 「ううん。目が覚めただけやき」 仁王が身体を起こす。少し癖の付いた髪が、胸元に流れる。夕日に照らされ、オレンジに輝く様が美しい。 「……跡部、」 「アーン?」 「いきなりどうしたん?」 「あ?……っ、!」 無意識のうちに、仁王の髪に触れていた。慌てて手を離す。……何故か心臓がうるさい。 まだ覚醒しきっていないのか、仁王は不思議そうに首を傾げたままだ。 「……寝癖が付いていた」 「あー、そう」 柳生が見ていたら鼻で笑いそうな嘘だったが、仁王は気にする素振りを見せない。お前は詐欺師じゃなかったのか。それか見透かしていて、表情に出していないだけなのか。 しばらく沈黙が続く。 看護師が廊下を歩く音だけが聞こえる。 「……みんな、元気?」 「あ?ああ……」 「柳生はしょっちゅう来るんじゃが、あんま合宿の話してくれんの。いっつもウチの容態ばっか聞きゆう。つまらん」 「……切原は相変わらずうるせえし、丸井はよく食うし、真田は老け顔だ。眼帯は取れたがな」 「目の腫れ、取れたんか。良かった」 「その花束は幸村と選んだ。ほとんどあいつの趣味だが……」 「やっぱり。跡部のことやき、真っ赤な薔薇でも持って来ようとしたがやろ?」 「…………」 「図星じゃの」 楽しそうに笑う仁王。だが、フッと寂しげな表情を見せた。 「……ウチも早よ戻りたいのぅ。みんなとテニスしたい」 小さい呟きだったが、俺の心を砕くには十分だった。 「あ……?」 「跡部?」 つぅ、と頬を何かが伝う。 涙だった。 俺は、俺が、泣いていた。 拭っても拭っても、涙が止まらない。止まってくれない。 仁王があたふたとハンカチを取り出し、俺に渡した。 「っ、ごめんな。跡部、ウチ、何か気に障ること言うた?」 「……言ってねえ」 お前をこうしたのは俺が一因だ。悪かった。すまなかった。お前は何も悪くない。 言いたい言葉は沢山あるのに、それだけ言うのが精一杯だった。涙が溢れて止まらない。渡されたハンカチの淡いブルーが、どんどん藍色に染まっていく。 「……あとべ」 ふわり、温かいものに包まれた。仁王が俺を抱き寄せていた。病院の匂いと、仁王独特のコロンが香る。……顔に何か柔らかいものが当たっているのは、スルーしておく。 「泣かんで、跡部。大丈夫やから。な?」 仁王の細い指が、俺の髪を梳く。どこか懐かしい感覚に溺れる。 「だいじょうぶ、大丈夫……」 繰り返し『大丈夫』と言う仁王。まるでガキをあやすかのように、俺の頭を撫でる。 背中にも手が回った。痛むであろう左腕を使っている。思わず身体がこわばった。 「大丈夫。もう、腕は痛ないよ……すぐテニス出来るようになるき。お前さんが気に病むことじゃなか」 ……分かっていたのか。 全て見抜かれていた。やはり詐欺師は侮れない。 少し頬がゆるんだ。次第に涙も止まっていく。 仁王の胸から顔を離し、向き合う。夕日を背景に柔らかく微笑んでいた。 「……早く戻ってこい」 「おん……頑張るき、待っとって」 腕が伸び、細い指先が俺の目元を拭った。涙が残っていたようだ。 「泣き虫な王様」 悪戯っぽく笑う仁王に、俺も笑い返した。 泣かないで王様 お題提供: 確かに恋だった様 2013.8.14 . |