グラスに入った水をこくりと一口、飲み込んだ。お風呂から出たばかりの身体はまだ火照っていて、喉を潤す。濡れた髪をタオルで包み込んでいると、机に置いてあった携帯がお気に入りの音楽を鳴らしながら振動する。

「もしもし、ミヨ?」

甘くて心地の良い声が直接耳をくすぐる。かわいいバンビ。

「宿題でわからないところがあるんだ」
「じゃあ明日うちに来る?」
「あ〜、明日はね、あの人とお出かけするんだ」

えへへ、と至極嬉しそうな声にこちらもつられて口角が上がる。
あの人。それは、バンビの意中の人である。バンビから好きな人がいると告げられた時、嬉しさで胸がいっぱいになってあたたかい気持ちになるのに、同時に心で寂しさを感じた。私のバンビなのに。
嬉しいのに寂しいなんて、変なの。
不思議な感覚に、彼女の腕に額を擦り寄せたら、ぐしゃぐしゃになった前髪を丁寧な手付きで優しく梳かれた。
『ミヨったら、かわいいのに台無しだ』
無邪気に笑うバンビを見て、かわいいのは貴女の事よ、とその瞳を見上げた。

「ミヨ?聞いてる?」
「ごめん、聞いてない」
「ミヨ〜」

恨めしげな表情をしているのだろう。それでもきっと笑っているに違いない。宿題の話は早々に切り上げて、明日はめいいっぱい晴れるといいなあと言ったバンビの発言から、話題はもはや明日のデートの話になる。

「どんな服がいいかなあ」
「バンビは、」
「何着てもかわいいは、なしだよ」
「…じゃあ、この前一緒に買い物に行った時の」
「あっそうしようかな!もったいなくてまだ着てないんだ」
「天気いいみたいだし、お昼はオープンテラスの所でとるとか」
「いいね〜、お弁当作ってこうかなって思ってたんだけど」
「それは、ずるい。私だってバンビのお弁当食べたいのに」
「じゃあ来週作るね!」
「うん」
「臨海公園の近くに新しく雑貨屋さんが出来たって!今度行こ!あ〜気になってた喫茶店もあって、」
「ん、行く」

他愛のない話はどんどん湧き上がり話題は尽きない。時間が経つのも忘れ、濡れていた髪はいつの間にかすっかりと乾いていた。

「そういえば、」
「なに?」

アッと叫びにも似た声をあげて、先ほどよりも少しばかり声音が明るくなった気がする。

「明日、ルカくんの誕生日だね」

明日。そう言われてカレンダーを見ると、明日は、七月の二日であった。それを確認したあと時計を見遣ると、日付が変わるまであと10分もなかった。もうこんな時間だったのか。もう、明日になってしまうのか。バンビに聞こえないよう小さく息を吐く。

「そうね」
「ミヨがおめでとうって言ったら、喜ぶよ!」
「…は?」

聞き間違いだろうか。自分の耳を疑い、誰が?と問うてみる。

「え?だから、ルカくんが」
「どうして」
「だってルカくん、ミヨのこと大好きだもん!」

どうやらいよいよ聞き間違いでは済まされないようだ。バンビにおそらく悪意はちっともない。きっと、小動物か何かを可愛がっているような意味合いで言ってくれているのだろう。それがわかっているのに、どうして頬がこんなにも熱いのだろう。

「あ、こんな遅い時間までごめん!」
「大丈夫」
「じゃあまた月曜にね!」
「ん、明日、楽しんできてね」
「うん!おやすみ!」

さっきの瞬間まで賑やかだった私の世界は静寂に包まれる。バンビの何気ない、たった一言が、私の心臓をうるさくさせる。眠るまでに落ち着かなくちゃ。深呼吸を繰り返し、窓を開けると、ふわりと入り込んできた風が机の上の本のページをめくった。ぱらぱらとめくる動作を繰り返すそれを持ち上げ、あるページを開く。

「桜井、琉夏」

名前を紡ぐと、しんとした部屋に自分の声がやけに響いて口元を覆った。写真だというのに、満面の笑みを浮かべたその写真はきらきらと星が零れんばかりの眩しさで、無意識に目を細める。
桜が散ってすぐの季節。まだ梅雨にも入らない季節。あの時はまだ肌寒く、ブレザーに袖を通していた。
あの日、自分に影を落とす彼を見上げられなかった事、彼の背中越しに見た一直線に走る飛行機雲、赤外線の受信完了を知らせる軽やかなメロディ、そしてフィルムを通して直視した彼の笑顔。いまだにどれも鮮明に覚えている。
最初から分かっていた事ではあったけれど、結局あれから、一度だって桜井琉夏の名からの着信を受けた事などない。それなら最初から、電話番号なんて教えなければよかった。そうしたら、「もしかしたら」とか「今日こそは」なんて期待せずに済んだのに。そこまで考えて、ハッとする。

「期待…」

なぜ期待なんてする必要があったのか。でも、携帯の液晶に表示された桜井琉夏の四文字とその下に羅列する番号をもう何度見たのか分からない事は、事実であった。
携帯をぎゅっと握り、見慣れたその四文字を見つめた。

「別に、私が祝わなくたって」

下唇を噛んだ瞬間、携帯の着信音が鳴り、思わず落としそうになるのを阻止した。

「はい、もしも、」
「もっしも〜し、みよちゃん?俺」

慌てて出たせいで誰からの着信かを確認せずにほぼ反射で通話ボタンを押した。今自分の耳に押し当てられている液晶で確認しなくてもわかる。どうしよう、桜井、琉夏だ。
考える暇もなく通話終了ボタンを押してしまう。こんなに近くで彼の声を聞く事になるなんて。身体の左側が火傷してしまったように、熱く、痛い。

彼の笑顔が気になったり、何度も携帯電話を開いてしまったり、熱くなったり、鼓動が早くなったり。
もしかしてこれは。もしかして私は。彼の事が。
などと一瞬考えたりもしたが、すぐに否定した。だって、恋をしている子は、可愛い。好きな人がいるの、と言ったバンビは誰よりも可愛かった。私は可愛くない。だから、きっとこれは、そういったものじゃ、ない。じゃあいったいなんだというのだ。理由がわかるはずもなく、考えあぐねる。

再び鳴る携帯電話に恐る恐る触れる。画面に表示されているのはやはり、彼の名前だった。

「…はい」
「みよちゃんひどいな〜、何も聞かずに切るなんて」
「こんな夜中に、非常識」

ああ、ほら、可愛くないことばかり。

「いやだって、聞きたくなったんだもん、みよちゃんの声」

どうしてそんな事を言うのだろう。どうして嬉しいと感じてしまうのだろう。得体の知れない感情がぐるぐると胸中を占めて胸がいっぱいになり、きゅうと苦しくなる。

「桜井…琉夏…」

小さく、ほんとに小さくその名前を呼ぶ。

「ん?なあに」

直接囁かれてるような錯覚に陥りそうになり、携帯を握る指がカタカタと小刻みに震える。

「誕生日……………おめでと」

先程よりももっとずっとか細い声で言ってみる。もしかしたら聞き取れなかったかもしれない。けれど、電話越しに彼がなんだか上擦った声で「ありがとう」と確かに言ったから、顔が見えなくてもきっとあのきらきらと眩しい笑顔をしているのだろうなと思ったから、つられて私も笑った。この胸をくすぶる想いの正体はまだわからない。それでも、ああ、私も彼を取り巻く瞬く星のようになれたなら。

今度はフィルム越しでなくあなたを真っ直ぐ見つめられるよう。
今度は電話越しでなくあなたの声を聞き落とさぬよう。

今は、心からのおめでとうをあなたに。





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