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落ちてきそうな重い空を見上げて息を吐く。 外気に晒されている頬や耳、指先にぴりぴりと痺れを感じて制服の上から腕をさすり上げた。 口を開くたびにふわっと浮かぶ白い息は瞬く間に消えていく。 ただ呆然としていたら、オレも消えたい、と口からするりと漏れ出ていた。
そんな意味のない事を考えていると、自分がバカらしくなってきて、しおしおと首をもたげた。 屋上に繋がる階段をドタドタと駆けてくる足音が微かに聞こえ、だんだんとそれは大きくなる。 オレを探してる教師だったら面倒な事になりそうだし、隠れた方がいいだろう。 だけどそうしないのは、この足音が誰のものかもう知っているから。 屋上の扉が勢いよく開き、そのまま壁に激しくぶつかった。
肩を上下させて息苦しそうにしている人物が顔を上げる。予想通りの顔がそこにあり、ほらみろ、と心の中で得意気になる。なのに。
「ちょっとトラくん!喧嘩したって本当!?」
開口一番にこれだ。あからさまに顔を顰めると、英は「やっぱり…」と溜め息を吐いた。
「…喧嘩は…してねえよ」 「何が原因か知らないけどさ、なんでそう手がすぐ出るかなぁ…。」 「うるせえな、お前には関係ねえだろ」
関係ないと言ってはみたものの、どう考えたって原因はこいつだった。 英の名前が出て頭に血が上ったなんて、言えない。なんで、それだけの事にカッとなんなきゃならないのか。 最近、ずっとこうだ。
「どうして殴ったの」 「教師や海棠みたいなこと聞くんじゃねえよ」 「じゃあ、聞き方を変える。誰のために殴ったの?」 「………」
あの後オレが殴った男がどうなったかは知らないし興味もない。 好き勝手言われたが、それはいつもの事だし何も腹を立てて殴る事はなかったな、と。少しは申し訳ないと思う感情が自分の中にあった。 その事も不思議だった。腹が立ったから殴る。いつもの事じゃないか。 殴った奴の顔なんて覚えてないし、誰に絡まれただの殴られただのもいちいち覚えていたらキリがない。 自分でコントロール出来ない感情が渦巻き、結果、手が出てしまったのだ。
「トラくん…?」
へらへらと笑う英の能天気な顔がむかつく。
英と同じ空間にしばらくいたせいで、感覚が麻痺していた。そうだ、オレがいていい場所は、こんな生ぬるいところじゃない。 自分が人と違うと忘れた事なんてなかったのに、全部、全部こいつのせいだ。
オレに何を期待しているのだろう。 なんの見返りが欲しいのだろう。 いつオレに飽きるんだろう。 その日がきたらオレは、どうなるんだろう。 どうして、オレなんだろう。
先の見えない未来に怯えたのは、失いたくないと思ってしまったから。 もうこんなごっこ遊びは、やめてしまおう。
「なあ、もうやめようぜ」
もうやめてしまおう、こんなごっこ遊びは。本気になる前に気付けて、良かったじゃないか。
「トラくん?今、なんて」 「何度も言わせんなよ。飽きた。お前に付き合うのも疲れたっつってんだよ」 「ちょっと、トラくん、何言って、ねえ、お願い、こっち向いて、」
本気になるなんて、どうかしてる。 飽きられて手放されるのが嫌だなんて、考える事自体がおかしいんだ。 捨ててしまえばいい。そうしたら、世界は元に戻り、何もなかったかのようにまた動き出す。 英という余計な歯車を取り除き、ようやく滞りなく動くはずだと、そう思っていた。 なのに、英の辛そうな、堪えるように眉間に皺を寄せる表情を見ると、心臓が軋む音がした。 もう、これ以上、お前に振り回されたくない。
「お前の事なんて、どうでもいい。お前で遊ぶのも飽きた。煩わしい。面倒。五月蝿い。顔も、見たくねえ」 「トラく、」 「じゃあな」
ああ、今にも落ちてきそうな重い空だ。このまま世界が終わってしまえばいいのに。 屋上の重い扉が音を立てながら閉じた。
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