|
「おい、英」
ざわついた教室でその声は凛と響く。声のした方を見ると腕を組んでドアにもたれ掛かる彼がいた。 こうして話すのは僕たちの関係があっさりと終わってしまったあの日以来だった。 ようやく会えた、という安堵を感じると同時に、トラくんが纏う空気が異質である事に気付き身を硬直させる。
「どうしたの、トラくんがうちのクラスに来るなんて珍しいね」
あくまでも、今まで通り。そう意識すれば意識するほど、声が震えた。
「来い」 「え?」 「いいから」 「ちょっと、トラくん」
ぐいと強い力で腕を掴まれ教室から引っ張り出された。今から一体何が始まるというのか。 何も映さないトラくんの瞳が垣間見えてドキリとした。このドキドキは、緊張だ。 不安が胸中を渦巻き、もやもやとしたものが支配する。ぎりっと爪が食い込む痛みに耐えるよう唇を噛んだ。 トラくんが人気の少ない校舎のある教室の前でぴたりと止まる。 いつもなら鍵が掛かっていて入れないはずのその教室のドアは何故かいとも簡単に開き僕たちを招き入れる。 敷居を跨ぐことを躊躇っているとトラくんがこちらを振り返り、言葉もなくただその瞳が入れと促している気がして、その場に縫い付けられたように動かなかった足が歩みだす。 僕の手を掴んだままトラくんがずんずんと教室の奥へと進み、再び振り返ってこちらを見る。 声を掛ける暇もなく、勢いよくがんっと壁に押されて肩が強くぶつかる。
「った、」 「お前、こういうのがしたいんだろ」
締め切られたカーテンの隙間から僅かな光がさすばかりで、あまり使われていないこの教室は古い本の匂いが立ち込めていた。 ほんの少しだけカビ臭い。 壁にぶつかった衝撃で思考が追いつかず、肩と一緒に軽くぶつけた頭をさする。 気付くとトラくんが膝を曲げてしゃがみ込み僕の制服のズボンのチャックを下ろしていた。
「なに、す」
ズボンと一緒に下着までずり下ろされ、情けなくぶら下がったそれをまるで無機質な物でも見るような目でトラくんが凝視し、躊躇いなど見せずに握り、形に添うように指を這わせる。
「え!?と、トラくん!」 「好きだとかなんとかって、めんどくせーんだよ。ようは、ヤリてーだけじゃねえの」
この流れが、まったく理解出来なかった。トラくんは多分苛立っている。でも、苛立つ理由は分からないし、自分がどうしてこのような状況に追い込まれているのかもわからない。
僕自身のものにかかるトラくんの生暖かい息にすら、足の指の先にまでびりびりと快楽を感じてしまう。根元を扱きながら、柔らかい舌の感覚が襲う。 びくりと身体が揺れ、逃げようと腰を引いてもすぐに壁にぶつかり、快感から逃げる事を諦めた。彷徨っていた手はトラくんに触れる事も出来ず壁に縋るように指の腹に力を込めた。 逃げた分だけトラくんは距離を詰めてきて、その唇が追うように深く咥え込んでくる。 口内で溜めたのだろう唾液が粘膜と混ざり合い、ぴちゃぴちゃといやらしい音が聞こえてきて耳を塞ぎたくなる。
「んぅっ、トラく、っ」
トラくんの唇が僕のを。真上から見る光景にたまらない悦を感じていた。 わずかに上気した顔で見上げられ、もうそれだけでぶっ飛んでしまいそうなのに、さらに責めるように裏筋の血管に沿って舐められ、歯を立てられ、足がガクガクと震える。 全身の血液がそこに流れ込んだように熱く、反り上がる。 こういう事をトラくんとしたいと考える事は、そりゃ付き合ってるんだから何度もあったし、そういう時にトラくんはどんな表情をするのかなと思い耽り自慰をする事だってあった。 でも、これは違う気がする。違和感しか、感じない。機械的な動作のようなのにそれでも感じてしまう自分が、どうしようもなく、滑稽なほどに惨めだった。
「やだ、トラくん、もう、や」
強く押し付けてすっかり白くなっていた指先を壁から離した途端血液が流れ込む。 静止を促すために僕自身に食いついたままのトラくんの頭を押すと、猟奇的な目がぎらりと光り、笑った。 その姿があまりにも綺麗で、心のない人形のようでぞくりと背が粟立つ。扱く手が一層激しくなり、擦れる感覚に頭の中が白んでいく。 トラくんは、何を考えているのだろう。 もう出てしまいそうだと思い、無理矢理トラくんの口内からずるりと自身を引き出すと、歯に当たった瞬間に射精感が襲う。まずいと思った時には既に遅く、一気に精が弾けた。
「うわ、このタイミングで抜き出すかよ普通」
せっかくだから飲んでやろうと思ったのに。と頭が痛くなりそうな台詞を吐きながら、手についた僕の精液をぺろりと舐めて顔をしかめた。 口淫を受けすっかり腰が立たなくなってしまい、壁に背をつけたままずるずると床に座り込んだ。ぜいぜいと乱れる呼吸を整えようとゆっくりとした呼吸を試みる。 突然の事すぎて驚いているし、未だに状況を把握出来ないし、でも恋人特有の雰囲気が漂っている訳ではない事だけはわかる。 トラくんの手を掴んでポケットに入っていたハンカチで精液を強引に拭い取る。トラくんの目は、見れなかった。 羞恥と、罪悪感。 トラくんにこんな事をさせてしまった。どうしてなんだろう。トラくんの真意が読み取れず、心臓が痛い。 ひどく格好悪い様子で、泣きながら、萎えた自身についている精液も綺麗に拭き取り、着衣を整える。 格好悪さに輪をかけるように、目からはどんどん涙が溢れてきて、見られたくなくて膝に額を擦りつけて抱え込んだ。
「トラくん、意味が、わからないよ」
精を吐き出してしまった後の気怠さも相まって、か細い声が自分の口から漏れ、動揺しているのが手に取るようにわかって、それがまたなんとも情けない。はあ、と盛大な溜め息が聞こえてきて悲しさがいっそう募った。
「性欲をどうにか出来れば、誰だっていいんだろ」
沈黙がしばらく続いた後に、深い溜め息を吐きながらトラくんが言う。 カーテンの隙間から漏れる陽の光が彼の頬を明るく照らしていた。 薄暗い部屋の中、ぽっかりと彼だけが浮かび上がっているようで、綺麗だななんて考えながら、また泣きそうになるのをぐっとこらえる。
誰だって、いいわけじゃ、ないのに。
気だけが急いて今にも言葉が口を衝いて出そうになる。 僕の勘違いでなければ、トラくんは今、僕に好意を向けられている現状が理解出来ないんだろう。 トラくんの言葉が繰り返し何度も脳内で再生される。まるで僕を追い詰めるように、耳元でずっと囁き続けられている気分だ。
まっすぐに腕を伸ばしてトラくんの頭を抱え込んで力いっぱい抱き締める。
「トラくんは、」
ようやっと僕が口を開くと、身じろぎもせずに視線だけをこちらに向けた。 思わず萎縮してしまいそうな金色に捉えられ、声が上擦ってしまう。
「トラくんは、僕に、なんて言って欲しいの?」
ゆっくりと、深呼吸をするように言葉を紡ぐと、少しだけ落ち着いてきて、トラくんの射抜くような視線を真正面から受け止められるようになる。 そうすると今度は、トラくんが居心地が悪そうに目を逸らした。 彼の頬に飛び散ってしまった自分の精液を指でぐいと拭い、頬を優しく撫で、笑う。
「な、んだよ」 「そんなことはない。僕はトラくんじゃなきゃだめだって言えば、安心する?」 「はぁ?何ふざけた事言って、」 「トラくん、僕は、怒ってるんだよ」
僕の気持ちは、トラくんには伝わってなかったんだ、と。自分の気持ちを疑われていた事に悲しくなり、悔しくなった。 そして、「誰だっていいんだろ」とまるで僕を責め立てるような言葉。そんな事を言わせてしまった僕自身に、腹を立てていた。 その言葉に含まれた毒は、僕を攻撃するものではなく、トラくんの全身を巡り蝕んでいるように感じられたからだ。
どうすればわかってくれるんだろう。 僕だけが浮かれて彼の周りをうろちょろとして、本当にそれだけだったのかな。 トラくんは、もっと直接的な言葉じゃないとわかってくれないのかな。
「こういう行為は、好きの延長線上にあって、これが目的じゃない。言葉だけじゃ足りなくなって、だから触れたいと思うし、触れて欲しいと思う。同じ感覚を共有したいと思う」
もう、泣いてしまいそうだった。声は震えるし、トラくんの手を握る指先もカタカタと小刻みに揺れているし、格好なんてつけられなかった。
「トラくんは我が儘だし、自分勝手だし、」 「…人の事言えねーだろ、お前」 「他人はどうでもよくて、僕のこと蔑ろにしがちなのも、すぐに手が出るし口悪いし飽きやすいところも、」 「喧嘩売ってんのか、おい」 「心を許した人には子供みたいに笑うところも、」
真っ直ぐに見つめると、トラくんの瞳に僕のくしゃくしゃの顔が映っていた。 透き通ったビー玉のようなそれが、水を湛えていて、何か言いたそうに、それでいて堪えるように、揺れる。
両手を伸ばしてトラくんの頭をそっと抱え込んだ。ぎゅうと力を込めるとトラくんがわずかに震えていることにようやく気付いた。 ねえ、僕ね、こんなにもトラくんのことが好きなんだ。もう、どうしようもないくらいに。
「トラくんの全てが、僕は欲しいよ」
|