「ぼくを、助けてくれませんか」

 この日出会った、縋るような瞳を、僕は忘れない。

「あなたにおねがいがあります」
「うん?僕に出来ることなら」

 ある日出会った、ふしぎな雰囲気を纏った少年。歳は5つくらいに見えて、銀色の髪は陽の光を受けてきらきらと輝いている。少年の目線に合わせてしゃがみ込むと、大きなガラス玉みたいなくりくりとした瞳が僕を見つめた。

(綺麗なすみれ色だ)

「呪いをかけられてしまったんです」
「………うん?」

 仰々しい響きがなんとも非現実的で、その時点で簡単にあしらうことも出来たけれど…少年の、アメジストのような薄紫色の瞳があまりにも真剣に僕の目を射抜くから、開きかけた口を閉じた。

「…子どもに戻ってしまう呪いなんです」
「えーっと、ボク、何歳?」
「子ども扱いしないで下さい。今年の春で21になりました」
「にじゅういち」
「その顔は信じていませんね」
「いやあ」

 信じるもなにも、屈んでようやく目線が合う少年はどう頑張っても成人を迎えているとは思えない。

「ひとりじゃ…元には戻れません…。誰かに、力を分けてもらわないと、」
「どうして僕なの?」
「それは、…あなたから甘い匂いがするから…」

 甘い、匂い。そこで僕は、ああ、なるほど。とようやく合点がいく。それには、思い当たる節があった。甘いスイーツは人を幸せにする魔法のようなものだもんね、と心の中で頷く。

「ぼくを、助けて下さい」

 もう一度言葉にする少年の甘そうな紫色の瞳が、今にも溶け出しそうに揺れる。

「よし、分かった。僕に出来ることがあるなら、お手伝いするよ」

 飴玉みたいな薄紫色の目がまあるく見開かれ、零れおちそうなほど。

「…いいんですか」
「いいですよ」

 にこりと笑うと、少年の口元も僅かに綻ぶ。

「あなたはただ普段通り過ごしていればいいので」
「えっ?それだけ?」

 なにかと戦ったりさせられるのか一応身構えもしていたのに、肩透かしだ。

「はい。そして、ぼくに力を分けて欲しいんです」
「どうやればあげられるの?」
「キスです」
「キス」

 少年の言葉を繰り返してみる。愛らしい少年が臆面もなくキスと口にするものだから、あまりにも不釣り合いで思わず吹き出してしまった。少年はそれが不愉快だったのか、ムッと唇を突き出して「だから、子ども扱いしないで下さい」とくりっとした大きな瞳を釣り上げてみせた。それがとても可愛くって、笑いそうになる口元を手のひらで覆いながら「はいはい」と頭を撫でる。彼の細い髪の毛が猫のように柔らかで気持ちいい。

「じゃあ、はい」

 ちゅ、と柔らかなほっぺたにキスをすると、ぷにぷにとした肌が気持ちよくてそのまま吸い付いてしまいそうになる。えっ、なにこれすごい!お餅みたい!なんて感動していると、不服そうな少年の声が耳に届いた。

「…そこじゃありません」
「そこじゃない、って、…え、ええ…?」

 もしかして、と思ったのも束の間、少年は僕の両膝に小さな手を添えて前のめりになる姿勢で「ん」と唇を上に突き出す。

(う…うわあ…、かわいい…)

 僕は思わず、道徳的によろしくないんじゃないか、と不安になり周りをきょろきょろと見渡してしまった。

「君もどうせならかわいいお姉さんを選べばよかったのにね」
「!」

 さらさらの髪の毛を撫でて両頬を挟みこみ、彼の唇のつんとした部分にキスをした。天使がいたら、こんな姿をしているのかもしれない。

「これでいいの?」
「はい」
「よーし、じゃあ呪いが解けるまで、頑張ろうね、小さな魔法使いくん」

 手を差し出すと、少年は驚いた表情をして、おずおずと僕の手を握り返した。僕の手にすっぽりと収まる小さな手のひらが愛らしい。
 きらきらと輝く宝石みたいな瞳。頬は林檎のように赤くて囓りたいくらいおいしそう。
 これから始まる僕たちの生活はきっと素晴らしいものになる。そう予感せざるを得ない出会いだと、僕はこっそり思っていた。








 僕は央。この前の夏で22歳を迎えた。
 森の奥でひっそりと紅茶やお菓子のお店を営んでいる。
 パンを焼くための竈があって香ばしい匂いが漂っている、煙突付きの赤煉瓦のお店がトレードマーク。庭では季節が変わるごとに色んなベリーが色付く。
 看板メニューは甘くてほろ苦いガトーショコラ季節のベリーソース添え、たまご色のふんわりプリン、今の季節のおすすめはチョコレートを贅沢に使ったクラシカルオペラ、秋色マカロン、林檎のコトコト煮、十月苺のタルト。
 今日は定休日だけれどジャムを煮詰めたり、木の実をローストしたり、氷花糖漬けを作ったりと朝から忙しい。

 そう。まさに、猫の手も借りたいくらい。

 日向ですやすやと丸まって寝息を立てている小さな身体を横目で見て、僕はため息を吐く。床で寝転がる真っ白な猫のおしりをちょんとつま先で蹴った。

「円、ミント摘んできて」

 僕がそう言うと、せっかくのお昼寝を邪魔されたからか少しだけ不機嫌そうな声でニャア、とふてぶてしく鳴いた。これが僕の生業なのだから、そっちだって手伝ってくれないと割に合わない。
 僕だってこの仕込みさえ終わったら、太陽の光をいっぱい浴びてふかふかになった円の身体に鼻先を埋めて力いっぱい抱きしめてそのもふもふを堪能したいし…。
 円は、陽の光を浴びると銀色にきらきらと輝いて見えるくらい真っ白で綺麗な毛並みで、宝石みたいな目を持つ猫――――に姿を変えているけれど、その実態は、魔法の国の住人で、本来なら人型をしている。
 信じられないけれど、目の前で突然小さな子どもが猫に姿を変えたのだから信じざるを得ない。
 日中は魔力の消耗が激しいから、猫になっている方が楽らしい、という話を、生クリームを泡立ててふんふんと鼻歌を歌いながら話半分に聞いていた。(もちろん怒られた。)

『ぼくを、助けてくれませんか』

 あの日の、迷子の子猫のような瞳を思い出す。

「いやー…あの時の円、かわいかったなあ…」

 円の小さな姿を思い浮かべていると自然と頬が緩んでにやけてしまう。ぐるぐると木苺のジャムを木べらでつついていると、ふわりと甘酸っぱい香りが部屋を満たす。うん、いい香りだ。
 ニャア、と鳴き声が聞こえてきて足元を見ると、口には摘みたてのミントを咥えたまま円が僕の足に尻尾を絡ませて擦り寄ってくる。ゆらゆらと揺れるしっぽが僕の目を奪う。
 …子どもの姿の円は可愛かった。ふわふわにゃんこの今の姿もすっごく可愛い。だけど、

「今でもぼくはかわいいです」

 すぐ背後でぽんっと小さな爆発音がして白い煙がもくもくと上がった。水を張ったボウルに爽やかな香りの青々としたミントが投げ込まれる。振り向くとさっきまで猫だった円はそこにはいなくて。

「…なんでおっきくなってるの」

 まだお昼にもなっていないのに。人型になるなら仕込みを手伝ってよ、という言葉をぐっと飲み込む。円が人型になるってことは、

「お腹がすきました」

 …やっぱりだ。僕はあからさまに肩を落として盛大なため息を吐いた。それは、力を分けて欲しいとねだる言葉。
 円のほっぺたは柔らかなマシュマロみたいで、ちょっと前までは喜んでキスしていたし、むしろ、しつこいと怒られちゃうくらいだったんだけれども。最近は…最近は…。

「…?なんですか人の顔をじろじろと」
「…円ってさ、ずいぶん大きくなったよね」
「呪いが完全に解けたらもっと大きくなりますよ」
「それってどのくらい?」
「まあ、央の身長は追い越しますね」
「えー…かわいくない…」

 すらりと伸びた身長、ズンと低くなった声、柔らかかった手はゴツゴツとして、あんなに大きくきらきらとした瞳はどこに行ったのと泣きついたら「目が悪いんですよ」と一掃され、今や見る影もない。

「そんなことより央、はやく」
「え、ええー…うーん…」

 はやく、と言うと円は慣れた手つきで腰を撫で、僕の身体はテーブルと円の板挟みになる。つまり、逃げ場がない。円に力を送るためだけのキス、それだけのはずなのに、

「ねえ、円がケーキを食べるとかじゃだめなの?」
「…?」
「なんか…ううん、」

 天使のような円とのキスは大歓迎だったけれど、正直、今の円はぜんっぜん可愛くないし、なんていうか……………………いやらしい。

「円って甘いもので力を取り戻してるんでしょ?それなら、直接食べた方が早くない?」

 僕がなにを言っているのか分からない、といった表情で円が首を捻る。しばらくして、手に顎を当てていた円が「ああ、なるほど」と小さく呟き何度も頷いた。
 今まではなんでもなかったのに、キスをするのが、恥ずかしい。端正な顔立ちと長い睫毛が僕の鼻先数センチにある。それだけで、心臓がやけにうるさく鳴るのだ。

「もしかして、意識しているんですか?」

 …図星だ。うっすらと瞳を開くその表情が色気を纏っていて身体が無意識に熱を持つ。

「…大人をからかうんじゃありません」

 内心、破裂しそうなほど心臓がドキドキしている。悟られないように、これくらいなんでもないんだ、という風を装って、円の腕を引き寄せ、目を閉じて屈んで円の顔に近付く。くん、と香る円の匂い。
 こうなったらヤケだ!と目をぎゅうっと強く瞑り円の薄い唇に自分のそれを重ねる。口と口をくっつけるだけ!数秒間くっつけてるだけだから!だから、鎮まれ僕の心臓!などと心の中で自分にエールを送ってみる。
 は、と口を開いた瞬間見えたのは、ぺろりと舌なめずりをする円の姿。本当に、いつからそんなに色気を纏うようになったのか…なんて呑気に考えていたら、突然世界が逆さまになる。
 円の腕を掴んでいたのは僕だったはずなのに、いつの間にか円の細くて綺麗な指が絡んで、テーブルに押さえつけられていた。

「まどか」

 もう『お食事』は済んだはずだ。それなのに、何故か円はもう一度唇を押し当ててきて、ふにふにと楽しそうに僕の唇を食んでぺろりと舐める。ぬるりとしたその柔らかな熱に、否応なく僕の身体がびくりと跳ねた。

「ちょっと、え、」

 僕の小さな反応すら見逃してはくれなくて、円の目が細められねっとりとまとわり付くような視線に背中がぞくりと震える。円の身体を押し退けようとして伸ばした手首はあっさりと掴まれた。

「んん、ふ…っ、まどか、」
「…なんですか、そんなだらしない顔をして」

 これは、まずい。僕の唇の端から零れ落ちる唾液を円はわざとらしく音を立てて吸い、円の舌先が上顎を器用に撫でる。びりびりと背骨が痺れて、足の指に力を込めた。

「…っ、ん、く、」

 変な声が出そうで目尻にうっすらと涙が浮かぶ。脳みそがどろどろに溶けて頭がおかしくなってしまったに違いない。何も考えられなくてふるふると頭を振る僕を見て、円は愉快そうに笑い、唾液で濡れた僕の唇を指で拭った。円が離れた途端に身体の力が抜けて、くったりとした。

「ぼくは別に甘い食べ物で力を得ているわけじゃありません」
「…え?」

(だめだ、心臓、すごく、はやい)

「央がぼくにとって、とびきり甘いんです」
「な、に、」

 呼吸が苦しくて肩を何度も上下させ、身体はどっと疲労感を覚える。視線を円に向けると、唾液でてらてらと濡れた唇をぺろりと舐め上げ笑った。
 つまり、円は僕がお菓子を作っている香りにつられてきたんじゃなくて、…つまり…僕…?

「だまされた…」
「ぼくが一度でも、あなたの作ったお菓子で力を得ています、なんて言ったことがありましたか?」

 ぐうの音も出ない。そう、言い返せないのだ。それが悔しくて、まだびりびりと痺れる背中をさすりながら円に蹴りを入れる。

「ごちそうさまでした」
「…そういうところが、ほんっと、かわいくない…」

 テーブルにもたれ掛かっていた身体がずるずると落ちていく。
 本当に今更なことなのかもしれないけれど、僕はとんでもないことを引き受けてしまったのかもしれない。

「あれから日に日に甘くなる央を味わうのが、ぼくの楽しみなんです」

 日に日に、って、どういうことだろう、とぼんやり考えて、僕はひとつの事実にたどり着きハッとする。

 僕が円を意識するようになったからだ。

 そのことに気付いてしまって、顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなる。僕の心の内を知ってか知らずか、円は楽しそうにくつくつと喉を鳴らしている。

「ってことは、意識してるのがバレバレだったってことじゃん…」

 もう、ほんと、穴があったら埋まりたい。
 どうにも腹が立って、焦げてしまった鍋と木べらの後片付けを円に言いつけると「気持ちよさそうな顔をしていたくせに」と文句を言われたので、しばらくごはん抜きにしてやった。
 僕のお店の看板猫が、しっぽをぺったりと床につけていて最近元気がなさそうだと心配されたけれど、多分、僕の貞操の方が危ない。
 やけに鼻につく甘ったるい苺の香りが、いつまでも僕の心をざわつかせた。












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