|
窓の外を眺めると、木々はすっかり枯れて見るからに寒々しい。 は、と息を吐くと窓ガラスが白く曇り、その場所にそっと指を滑らせる。
なかば。
その名前は、この世界ではない、遠い世界の愛しい人の名前。窓は再び曇って私の書いた名前を消していく。それはまるで、私の中から真っ白に塗りつぶされていく記憶みたいで。 ふとポケットに手を入れると、指先がなにかに触れる。
「…これは…」
手のひらにそっと乗せたそれは、かさかさに乾いてしまった花の指輪。 央が―――大切なあの人が作ってくれた、私の指に嵌めてくれた、花の指輪。 どうしてあの世界のものがこの世界にあるのか、私には分からない。 他の人から見たら子どもだましみたいなちっぽけなものかもしれないけれど、それでも、私とあの人を繋ぐ、大切なもの。 忘れたくないのに、私の意思に反して記憶にはどんどんモヤがかかる。ぼんやりとしているのに、それでも確かに、私の胸を締め付ける。 あの人の声も、あの人の笑顔も、あの人の体温も、なにひとつ忘れたくないのに。
「いやよ…いや……忘れたく…ないの…」
私の中から消えないで。
どんなに強く望んでも、どんなに強く願っても、どんどん零れ落ちていってしまう記憶の欠片。 押し寄せる感情に耐え切れずに、嗚咽が漏れてその場で崩れ落ちてしまう。その花の指輪をぎゅうと抱きしめると、言いようのない気持ちが溢れて止まらない。
好き。好きなの。あの人のことが何よりも、誰よりも、失いたくない、大切な人なの。
頬を伝い落ちた涙がぽたぽたと床を濡らす。 毎日泣いても泣いても涙は枯れなくて、時間だけがどんどん過ぎ去っていく。 そんな日々に終止符を打ってくれたのは、私の大切な友達。 私はあの日、背中を押してくれた鷹斗と央の小さな手のひらに見送られて、愛する人のいるこの世界に、帰ってきた。 懐かしい景色と、懐かしい土の匂い。私はこの世界で生きるんだ、そう強く実感する。
「…なんだか、生まれ変わったみたい」
前へ進もう。そう思うと私の意思で動く、私の身体。 あの世界で教えてもらったことを、私はなにひとつ忘れない。すべて、大切な私の記憶。 いくら背伸びをしてみてもひとりでは生きていけないこと。助けを求めればいつでも頼れる仲間がいること。毎朝、おはようと言える幸せ。放課後、また明日と全身で手を振ることのかけがえなさ。みんなとひとつのことを達成して、心を同じくする瞬間。
どれも、みんなが教えてくれたこと。だれど。
ただいまと私の頭を優しく撫でてくれるあたたかな手の幸福感も、おかえりとあの人を迎えられる安心感も、苦しくなるほど胸が痛んで涙が出そうになるくらい誰かを愛しいと思う気持ちも、全部、あの人が教えてくれた。
私は、あの人に恋をしてしまったの。あの人を愛してしまった。あの人に、愛されたいと、願ってしまった。
もう一度会いたい。声を聞きたい。あなたの声で名前を読んで欲しいし、あなたの指で私に触れて欲しい。あの人を一人にしたくない。私の帰る場所はあなたで、叶うことなら、ずっと、離れずに一緒にいたい。 瞼がじんわりと熱くなって涙が出そうになる。
「みんな…ありがとう」
あの世界で教えてもらった、人のあたたかさを、私はきっと忘れない。 背中がぽかぽかと暖かくなる。みんなが、私の背中を押してくれている気がした。 足にぐっと力を込めて立ち上がる。泣いてなんかいられない。 私は、この世界の私として生きていく。そう、決めたのだから。
「さようなら」
こうして私は、愛する人とともに歩むために、生まれ育った優しい世界とお別れをした。 もう二度と交わることのない世界。 身勝手な願いではあるけれど、どうか、どうか、あの世界の優しい人たちが、あたたかな幸福に包まれますよう。
これは、一度は手を離してしまってそれでも諦めきれなかった、私が自分の意思で決断し、自分の足で進み、あの人の手を取った、私自身のたったひとつの物語―――。
I had good fortune to meet you.
「央」
ずっとずっと遠い記憶の中、愛しい人の声がする。何よりも温かくて、何よりも穏やかなその声。
「央、どうしてそんな場所で眠ってるのよ…」 「…なでしこちゃん」
僕の名前を呼ぶその声は、もう、夢の中でのものなんかじゃない。彼女の指は僕の肩に触れて優しく揺り起こすし、彼女の声は僕の耳を甘く震わせる。
「央、寝ぼけているの?」 「んー…おはよう、撫子ちゃん」
撫子ちゃんがこの世界に―――僕の元に帰ってきてから、数年が経った。 政府の力がない世界。有心会だけでは抑えきれない溢れる人たち。それでも、少しずつだけど世界の体制は整えられて、花も、鳥も、空も、息をするようになった。 ひらひらと風に揺れる真っ白なシーツがよく映える青い空。日向ぼっこをしたまま、眠っちゃったのかな?なんて頭を掻きながらのろのろと起き上がった僕の頭を見て、撫子ちゃんはくすくすと笑う。
「央ったら…なんだか、可愛いことになってるわよ」 「んー?」 「どこの道を迷い込んできたの?花まみれだわ」
僕の跳ねた髪の毛を楽しそうに撫でつけて、花びらを一枚ずつ取ってくれる。些細なその仕種でさえ、僕は、撫子ちゃんからたくさんの愛をもらっているんだと思ってしまうし、それが恥ずかしくて擽ったくて嬉しくて…この上なく幸せだ。 撫子ちゃんの細い手首を掴み抱き寄せると、太陽の香りをたっぷり含んだシーツを巻き込んで僕の胸の中に倒れこむ。
「なかば、っ、わ…ぷ、」 「はは、撫子ちゃんつかまえた〜」 「ちょっと、央!遊ばないでちょうだい!」 「えー、遊んでないもん」 「もんって…。もう…洗濯物が乾かないじゃない…髪の毛もぐちゃぐちゃだし、」
シーツに覆われた彼女が小さく身動ぎ前髪を整えた。
「…ねえ、なんか、さ」 「うん?」
僕の声に反応して顔を上げる撫子ちゃんは小動物を思わせる。
「ヴェールみたいだなって、思って」 「…ヴェールって…花嫁の?」 「うん、そう」
シーツの上から撫子ちゃんを撫でるときょとんと大きな目を丸くして首を傾げた。
「…それって、央のお嫁さん?」 「えっ、僕以外の人と予定でもあった?」 「…っないわよ…!」
冗談交じりの声でとぼけてみせると撫子ちゃんは耳までサッと赤く染めて僕の胸を軽く叩いた。
「…撫子ちゃんが、本来の世界に帰ってからさ」
僕の声に、撫子ちゃんが身を正す。
「撫子ちゃんがいなくなった部屋は広くて、癖でご飯を二人ぶん作っちゃったり、何度も撫子ちゃんの名前を呼んだりして、その度に、撫子ちゃんが本当にもういないんだって事実を突きつけられて…僕が何度も後悔を繰り返す度に、撫子ちゃんはきっと、僕を忘れちゃうんだなって、…なんで僕はあの時強がったのか全然分からなくなって、…もう、なにも考えられなくなってた」
縋るように、目の前の撫子ちゃんの存在を確かめるように、頬にそっと触れると、すり、と僕の手のひらに擦り寄り、小さな両手で包み込んでくれた。
「…撫子ちゃん…?」 「…ねえ央、…笑わないで聞いてくれる?」 「うん?」 「あの日からね、ずっと、私の宝物なの」
撫子ちゃんが大切そうに取り出したものは、撫子ちゃんの細い指にぴったり合いそうな、枯れてしまった花の指輪で、もちろん見覚えのあるもので。指先でつつきながら、本当に、本当に、慈しむような表情で、花の指輪を抱きしめる。
「私、あなたを忘れたことなんてなかった。毎日あなたのことばかり考えて、あなたとの些細な記憶に縋り付いて、それでも、あなたとの大事な記憶が少しずつ霞んでしまうことが、何よりもこわかった」
こんな、奇跡みたいなことが、あっていいのだろうか。 撫子ちゃんの存在自体が奇跡そのものだった。 今、僕の隣にいる撫子ちゃん。 花のように微笑む撫子ちゃん。 触れると柔らかくて、温かい撫子ちゃんの体温。 全部全部、この腕の中にある。
「撫子ちゃん、あの…さ…」
撫子ちゃんの柔らかな手に触れて、手のひらに乗せたのは、小さな石のついた銀色に輝く指輪。
「…これ…は、」 「お母さんに、撫子ちゃんに渡すように頼まれたんだ」
パッと顔を上げた撫子ちゃんは何かを察したのか驚いた表情をしていた。
「…ねえ、それって、」 「うん。お母さんの、結婚指輪」 「そんな大切なものを受け取るわけにはいかないわ」 「大切だから、僕に託してくれたんだ」
家族だと、思っているから。そう言葉にすると、撫子ちゃんの綺麗な顔がくしゃくしゃと歪み、今にも泣きそうな顔になる。
「こんな世界だから、ドレスも、指輪も、なにもなくて、」
本当に、よく撫子ちゃんはこの世界を選んでくれたなと胸が痛む。元の世界にいたら不自由はさせなかったかもしれないし、危ない目に合わせることもきっとない。
「それでも、」
君は、僕を選んでくれた。 朝目が覚めて、隣に、呼吸のたびに緩やかに上下する撫子ちゃんの身体、あたたかな体温。頬を撫ぜれば僕の指に擦り寄って、髪を梳けば気恥ずかしそうに僕の顔を覗き込む。日に日に撫子ちゃんの香りが薄れていく夜に、もう、怯えなくてもいいんだ。 もう、何度も、その事実に涙が込み上げそうになった。 撫子ちゃんが僕の隣にいる。そんな、奇跡みたいな、優しい世界。
「…それでも、ここが、私たちの生きていく世界だわ」
言葉に詰まっていると、撫子ちゃんが僕の手の甲に指を這わせて優しくなぞる。
「うん…」
僕の好きな女の子は、なにもかもを包み込むような、そんな強さがある。その強さも、僕と一緒にいるからだ、なんて、そろそろ自惚れてもバチは当たらないだろう。
「…途切れることなく、この縁をずっと、繋いでいきたい」
撫子ちゃんの大きな瞳が、まっすぐに僕を見つめる。
「その指輪を次に受け取るのは、僕たちの子どもで、」
まるで夢物語、なんて思ったこともあった。
「その次は孫に渡って…」
だけど、これは夢でもなんでもない。今、目の前にいる撫子ちゃんが僕の全てだから。
「そうやって、いつまでも一緒に、君と、歳を重ねていきたい」
僕の手の中で、彼女の指先がぴくりと動く。
「いつまでも、僕の隣に、いて欲しい」
震える指で撫子ちゃんの手を取り、指輪をそっと嵌めると、それは初めからそこにあったかのように柔らかく馴染んで光った。
「央…」 「僕の、」
そこで、大きく深呼吸をする。緊張、しているんだ。 言葉にしようとすると泣きそうで、本当に情けない。僕の指先が震えているのが分かって、目頭が熱くなった。
「…僕の…、奥さんになって欲しいなあ…なんて…」
ようやく出てきた言葉はうまく声にならなくて、全身が心臓になってしまったみたいに熱くて、手に汗だってかいている。好きな子の前では、いつだってかっこつけられない。 きっと撫子ちゃんは頷いてくれる。 そう思うのに、やっぱり、最後の最後までこの手を取ってくれるのかがこわくてたまらなくなる。 撫子ちゃんの顔が見れなくて、ただひたすら、僕の手を取ってくれるのを待っている時間は、とてつもなく長く感じられた。いつまでも続く静寂が不安でそっと片目を開いて撫子ちゃんを見ると、ただ、ただ静かに、頬に涙が伝っていた。
「撫子ちゃん、」 「…私はもう、あなたから離れないって決めてるの」
泣きじゃくる顔を覆う彼女の手―――左手の薬指には、華奢な指輪がぴったりと嵌っていて、陽の光を受けてきらりと輝いた。
「好き」
白い指が涙をそっと拭って顔を上げた彼女は、僕のちっちゃな不安を一瞬で吹き飛ばしてしまう笑顔を見せてくれる。
「あなたが、央が好き」
そう言って僕に微笑む彼女は、この世のすべての幸福を噛み締めるようで、それだけで僕は胸がいっぱいに締め付けられて、溢れ出る気持ちが抑えきれず撫子ちゃんを抱き上げた。ふわりと抱き上げると撫子ちゃんが小さな悲鳴をあげて、その大きな瞳をまあるくしている。
「きゃっ、」 「僕も!撫子ちゃんが好きで好きで好きで…もうほんと、世界一大好き!」 「もう央、はしゃがないで、」 「そんなの無理だよ!あー、もう、本当に緊張した!心臓まだドキドキしてるもん」 「ほんと…子どもみたいなんだから」
きゅう、と鼻を摘まれ僕が目を瞑ると、優しいキスが、瞼に落ちる。そのまま、柔らかな感触が唇を掠めて、目が合うと、彼女は照れくさそうに眉を下げた。 無邪気な彼女の行動ひとつひとつが、僕の体温をまた上げるんだ。 彼女を包む真っ白なシーツはまるでウェディングヴェール。 僕のお姫様で、僕の花嫁さん。 太陽の香りにまじって撫子ちゃんの香りがするシーツが、優しく僕たちを包む。
「…そうやってすぐ子ども扱いする…じゃあ、子どもには出来ないこと…しちゃう…?」
そっと耳元で囁くと素直な彼女はかわいらしく頬を赤く染めた。 彼女の表情すべてを見逃さないよう、取り零さないよう、大切なものを手放してしまったりしないよう、大切にしたい。 この世界はまだまだ不自由な世界なのかもしれない。 彼女がいた世界と比べてしまったら、それは、もう、ずっと、息がしづらいのだろう。 それでも、君と巡りあえたこの世界は、こんなにも、胸を締め付けるほど美しく輝いていて、こんなにも、いとおしい。
|