「は、…っ、は……はあ、…う…」

うだる暑さの中を全力で走ったせいで、はあ、はあ、と息をするたびに肩が上下に大きく動く。ぽたりと顎を伝う汗を拭い走ってきた道を振り返り、僕を追ってくる足音がないことにひどく安堵して、ようやく僕は緊張の糸が切れたように大きく息を吐く。
今、どんな顔をして、円と話せばいいのかが、分からない。

「…う、う〜ん…」

立っているだけなのにじわじわと暑くて首筋に伝う汗を手で拭う。
壁にもたれ掛かりながら、そのままずりずりとしゃがみ込み膝を抱えた。ひんやりとした壁の温度が、気持ちいい。

まるで頭の中で響いているかのような蝉時雨。

なんで、円は僕にキスをしたんだろう。
まだ感触の残る唇を指でなぞってみると、顔が一気に熱くなる。

全部、この糸のせいだ。
赤い糸なんてものが見えたせいで、今朝からずっと、僕の頭の中は円でいっぱいで、もう、本当に、沸騰しそう。

僕の気持ちなんてお構いなしで、赤い糸は今も僕の目に映り主張してくる。この糸の先が、円に繋がってるということも、もう、分かっていた。
こんなの、おかしい。
僕はお兄ちゃんで、円は弟、なのに。

「円が…なに考えているか…分からないよ…」

そうだ。僕は、いつもそう。
分からないから、で片付けて、円の気持ちも、行動の意味も、分かろうとしてこなかった。

「…くるし、」

円が他の人と話していたらなんだかムカムカするし、円に触られたところが熱くてドキドキするし、円がこれから先誰かとキスをするんだって思うと、…嫌だって、思う。

僕は、円の目にどう映っていたんだろう。
円って、僕のことが、好きなの?
僕って、円のことが、好きなの?

「…まどか…」

ぽつりと呟いた名前は蝉の声にかき消されて消えていく。
背後から、規則正しく聞こえてくる足音に、僕の指がぴくりと動く。振り向かなくたって、それが誰の足音か、分かってしまう。だって、もう、何年もずっと、この足音は僕の後ろだけを追いかけてきたのだから。僕が聞き間違えることなんて、ない。

「円」

今度は、しっかりと、名前を呼んでみる。

床にぺたりと座り込んでいる僕を見下ろして呆れたように息を吐き、目線を合わせるように円もしゃがみ込んだ。

「…なんで、追ってくるかなあ…」

いざ口を開いてみると、僕の声は少しだけ鼻声になっていて、それがなんとも情けない。

「央が逃げるからでしょう」

汗で額に張り付いた前髪を掬い、火照った頬を撫でられる。慈しむようなその優しい手に、どんどん頭の中がぐちゃぐちゃになる。

「なんで、僕がここにいるって分かったの」

目頭が熱くて、じわりと目尻に涙が浮かぶ。それをからかうように笑いながら、円の指の腹が拭う。

「…央がどこに行こうが、ぼくは、央を見つけられますよ」
「…どうして」

三度目の僕の疑問の言葉に、この上ないくらい柔らかな表情で、ふわりと笑う。

なんで、そんな風に笑うの?

いつの間に、そんな表情をするようになったの?

ねえ、円って、僕のことが、

「…あなたが、好きだからですよ」

その一言で、十分だった。たった一言で満たされて、全身からぶわりと汗が噴き出すみたいに熱くなる。

ああ、こんな時に、なんともタイミングよくクラスメイトの言葉が脳裏を過ぎるものだ。「恋なんて、気付いたら落ちてるものよ」と。ようやく、その言葉がストンと僕の胸に落ちてくる。

円の手を取り、自然に、互いの手のひらを合わせるように指を絡ませる。
僕の小指と、円の小指の間で、一本の赤い糸がゆらゆらと揺れる。

全部、全部、この糸のせいだ。
昨日までの世界とは、もう、違うのだ。
もう、今までの僕じゃ、ない。

「…ねえ、円、変なこと言ってもいい?」
「央の言動が的を得ないことや、怪しいのは常日頃のことなのでわざわざ前置きをすることに今更感が否めませんが、まあ、どうぞ」
「…ほんと、いつもいつも一言多いんだよおまえは…」

はあ、と大袈裟に肩を竦めてこうべを垂れる。僕を見つめながら、僕の言葉を、ただ、静かに待っている。

「僕、円のお兄ちゃんなのに、………」

その続きを口にしてはいけない気がして、ごくりと唾を呑む。この一言で、今まで大切にしてきたものがすべてがダメになってしまうかもしれない。
喉がからからに乾いて、うまく声が出てくれない。
それでも苦しくて、抑えられないこの気持ちを、どう伝えればいいのだろう。

「…うーん、そうだなあ」

繋いだ手に力を込めてにぎにぎとその弾力を確かめる。

「央?何をして、」
「円のこの手が好き」
「は、はぁ?」
「長い指も、すごくきれいだと思う」
「はぁ」
「睫毛も、薄紫色の宝石みたいな目も、好き」
「ちょっと待って下さい、話がよく見えないんですけど」
「合気道やってる時の円は格好良いし、小物を作ってる時の円はすごく楽しそうで、好き」
「央、いったい、」
「僕の名前を呼ぶその声も、好き」
「…………」
「僕よりも遅く寝るのに僕よりも早起きで、毎朝文句言いながら起こしてくれて、撫でてくれるのも、気持ちよくて好き」

ひと呼吸置いて、円を見上げる。
僕が何か突拍子のないことを言う時には決まって、今みたいに、呆れたように眉を顰める。この顔も、好き。

「僕は、円が好き」

向かい合って座る円の目を覗き込むと、珍しく見開かれてぱちくりと瞬きを繰り返している。

「僕、円のことで、頭がいっぱいだ」

好き。

そう思うと、胸がちくりと苦しくなる。
なんて甘い響きなんだろう。なんて切ない感情なんだろう。
ぎゅうと心臓を締め付けるような痛みが全身を駆け巡り、身体が熱くなる。

「好き」

するりと口から零れた言葉があまりにも自然で、自分で驚いてしまった。
円の視線から目を逸らさずに言葉を紡ぐと、自分の表情を見せたくないのか、ぐいと力強く腕を引いて僕の肩口に顔を埋めた。
僕の身体はすっぽりと円の腕の中に収まってしまい、折れそうになるくらい強い力でぎゅうぎゅうと抱きしめられる。
背中に回された円の腕と同じように、僕もそろりと円の背中に手を伸ばす。子供をあやすようにぽんぽんと背を叩くと、首元で円が擦り寄った。

「苦しいよ、円」
「…殴ってもらってもいいですか?」
「………はい?」
「いえ、だって、いくらなんでも話がうますぎるといいますか、央が、ぼくを、…そんな、夢なんじゃないかって、」

まだ納得していませんと主張する訝しげな視線に、少しだけ焦れったい思いをする。
なんだか子どもみたいで、かわいくて、おかしくて、円の唇にキスをする。

「なか、」

なにをされたのか把握出来ていないのか、円が目を見開く。
円は、こんな表情もするのかと思うと、嬉しくて笑みが零れる。
伝えたい気持ちはまだたくさんあるのに、全部は伝えきれなくて、それがもどかしくて僕はまたキスをする。
触れ合った唇がちゅ、という音を立てて、恥ずかしいのに嬉しくて、苦しいのに幸せで。

ねえ、円も、おんなじ気持ちで、僕にキスしたの?

「…これでも、まだ、夢だと思う?」
「ほんと…あなたって人は、」

制服越しに感じる体温が、直接触れる手のひらの温度が、熱い。

円の手のひらが僕の頬を撫ぜる。ちらちらと視界の端で揺れているのは、赤い糸。
同じものが僕の小指にもあって、僕の糸の先は円に繋がっていて、当然、円の糸の先は僕に繋がっている。
僕にだけ見える不思議な世界。

「円ってさ、運命って信じる?」
「…はい?」
「んーん、何でもない」

ねえ、僕たちって、運命の赤い糸で結ばれてるみたいだよ。
そう言ったら、円は呆れるかな、それとも笑ってくれるかな。








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