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放課後、夕方と云えど昼間と気温はさして変わらずじわじわとした暑さがまとわり付く。足取り重く、僕は俯いて赤い糸を辿りながら足を進めた。
どこに向かっているかは分からない。ただ、たどり着いた先に、誰がいるかはもう、分かっていた。
どうしても確かめたかった。 この糸が、僕にとって意味のあるものなのか、それとも深い意味なんてない、ただの白昼夢なのか。
一つ深呼吸をして、意を決して図書室の扉を開ける。テスト期間以外は人気のないこの部屋で円が本を読んでいた。円の周りだけ、時間がゆっくり流れてるみたいだ。視線に気付いたのか、円がゆっくりと顔を上げ、僕と目が合うと驚いた表情を見せる。 それもそうだ、円ならともかく、僕は図書室とあまりご縁はない。
「………珍しいですね、央が図書室に寄るなんて」 「は、はは、えっと、たまにはね。でも、円もいるとは思わなかった」
なんて。 円がどこにいても、今の僕には簡単に分かってしまうのだけど。 適当に一冊の本を引き抜いて円の向かいの席に座る。円はちょうど本が読み終わったところだったのか、次の本を取りに僕と入れ違いで立ち上がった。 読み慣れない本をパラパラと捲りながら、背後にいる円のことが気になっていちいち振り向いてしまう。紙の上の文字なんて、一文字も頭に入ってこない。
この糸は、運命うんぬんの類ではないのだろうか。 僕が今日一日見た限り、そう思わざるを得ない。けれど、それがかわいらしい女の子ではなく、まさか弟と繋がってるだなんて、一体誰が信じるだろうか。
にこりと花が綻ぶように笑う可愛さはないけれど、僕の後ろをついて来たり、僕のためと息巻く姿は愛しくて可愛らしさを覚える。
盗み見した円の横顔は陶器みたいで、長い睫毛が頬に影を落としている。 ピンと伸びた背筋も、本のページを手繰る細い指も、薄く開かれた瞼から覗く薄紫色の宝石みたいな目も…すごく、綺麗、だ。
「央」 「はいっ!」
急に声をかけられて思わずびくりと身体が跳ね、しんと静まった図書室で僕の声はやけに響いた。
「…?ぼくの顔になにかついていますか?さっきからジロジロと」
静かに、と無言の圧力をかけられるかと思って身を縮こませたのに、一向にお咎めがない。 不思議に思って周りをぐるりと見渡すと、司書さんすらいない、実質、貸切状態だ。道理で円に怒られなかったわけだ、とほっと胸をなで下ろしたのも束の間、「二人きりなんだ」という状況に身を正した。
いつもならなんでもないのに、今日に限って意識してしまうのは、やっぱり、この糸のせいなんだけど。 僕の百面相を眺めながら不思議そうに首を傾げ、「そういえば」と思い出したように円が僕の方に身体を向ける。
「今日、中庭でぼくのこと見ていましたよね?なんで隠れたりしたんですか」 「えっ!?あ、あー…お昼のあれ、ね、やっぱり気付いた?」 「それはまあ、あれだけあからさまだと」
何を勘違いしているんのか、円は心なしか落ち込んだ素振りを見せるもんだから、避けていたことに対して少しだけ心が痛む。 円のせいなんかじゃ、ないのに。 僕が勝手に円を意識して、勝手に遠ざけた、ただそれだけなのに。
「あ、あー、あのさ、円」 「はい」 「その、一緒にいた子と、付き合ってたりするのかなって!」 「…?いえ、そのようなことは」 「そ、そっか…じゃ…じゃあ!好きな人はいる?」
僕は、円になんて言って欲しいのだろうか。僕と円を繋ぐ赤い糸が風に揺れるのを見ながら、無意識に、その糸をきゅうと握り込む。
「………いても、央には教えませんよ」 「えっ、ちょ、なんで!?」 「なんでもです」
そう言って笑う円の横顔はなんだか知らない人みたいで、やけに大人びていて、円のくせに、とこっそり頬を膨らました。
「…ケチ。ねえ、もう一個聞きたいんだけど」 「今日は質問が多い日ですね…」 「あと一個だけだから!円ってさ…赤い糸って、信じる…?」
円の背中に向かって投げかけると、一瞬、本の背をなぞっていた動きが止まる。 言葉にしてみるとなんだか幼稚で、それが恥ずかしくて言葉尻を濁す。 顔に熱が集まってくるのが分かる。それを後悔するには遅すぎたのだけれども。
「…さっきからどうしたんですか央。そんな話…、ああ、もしかして央、好きな人でも出来ましたか」 「や、ちが、そういう訳じゃ、ないんだけど…だって…好きとか、そういうのは…正直よく分からないし…」
けど。 その後に続く言葉を、今の僕は、持ち合わせていない。 好きになるって、どういう気持ちなんだろう。 ドキドキしたり、その人のことを考えて眠れなくなったり、気付くと目で追っていたり、他の人と話しているところを見たらなんだかそわそわしたり。 僕だけを見て欲しいとか、…触れたいとか、思ったり、するのかな。 それ以上言葉が続かないと判断したのか、円は続ける。
「言っておきますけどぼくは、少なくともぼく以上に央の言動行動思考を先回り出来るような知性溢れるおしとやかな女性でないと認めませんよ」 「いやあ…円以上に僕のことを見てくれる子なんて、後にも先にもいないんじゃないかな」
特に深く考えず、そんな言葉が口を突いて出てくる。僕の言葉に驚いたように目を見開いて、すぐに嬉しそうに円は目尻を下げた。
「それでは諦めて下さい」
ふ、と微笑む円に心臓がひとつ、大きく跳ねる。なんだかふわふわと浮ついた気分になるのを誤魔化すように、大袈裟に本を持ったまま両腕を伸ばして机に突っ伏す。
「そんなあ…いつまでたっても僕は恋愛も出来ないのかな」 「恋が、したいんですか」 「えー、円はしてみたくないの?」
でも、僕の運命の相手は円らしいよ。なんて、そんなことは、言えないけれど。
「…じゃあ、ぼくでいいじゃないですか」 「え?」 「恋がしたいなら、ぼくとすればいいじゃないですか」 「円も面白い冗談言うようになったんだねぇ。うーん、円がお嫁さんか〜、いいかも」
一瞬、考えてることが見透かされたのかと思った。気付けば自分の正面に人の影が落ちていて、僕のすぐ後ろに円が立っていた。
「央、本、逆さまですよ」 「まどか」
後ろから伸びた手が僕の手の中の本を奪い、くすくすと笑っている。触れられたわけでもないのに、周りの空気が、熱い。
「意識、しましたか?」 「冗談きついよ円」 「冗談のつもりで言ったわけじゃないんですけど」 「…えっと、ごめん、言ってる、意味が」 「赤い糸があるなら」
机に置いていた手の上に、円の手が重ねられた。なに、と問う暇もなく、辛そうな顔をした円に動揺する。 全身が心臓になってしまったみたいで、息が、うまく出来ない。
「ぼくは、央と繋がっていたらいいなと、思います」 「まど、」
どうして、こんなに、息が詰まりそうなほど、心臓がうるさいのかが、分からない。
僕の手首を握る円の手が、熱くて、僕を見下ろす視線にたじろぐ。
「…あ、んまりふざけると、お兄ちゃん、怒るよ」 「怒っていいですよ。嫌だって言って無理矢理にでもこの手を払って今すぐに逃げればいいじゃないですか。なんで抵抗の一つもしないんですか」
なんで、なんて。そんなの、僕が一番聞きたい。
「本気じゃないと思ってるからかな」 「…あなたって、ひどい人ですよね」
円の顔がぐんと近くなり、二つの影が一瞬だけ重なる。
「…え」
時間にしてみればほんの数秒だったかもしれない。それでも確実に世界が止まった気がした。
「…なんでキスしたの!?」 「本気じゃないなんて言われたのが心外だったので」
さらりと円はそう言ってのける。どんな屁理屈だ。そんなの、勝手にキスしてもいい理由になんてならない。 さっきからずっと、ドクンドクンと心臓が壊れそうなくらいうるさく鳴っている。
「………っ」
円の手を振り払って勢いよく立ち上がると椅子が大きな音を立てて倒れた。そんなことに気を取られる余裕もなく飛び出すように走り出した。
痛い、悲しい、苦しい、熱い。 いろいろな感情が綯い交ぜになって頭が混乱してくる。
廊下に出ると外はまだ明るくて、部活動に勤しむ人たちの声がひっきりなしに飛び交っていて、帰ったら見たい番組があって、それで、えっと、そうじゃなくて。 朝目覚めたら、なんだかおかしくなっていて、今朝のニュースでは今日が最高気温を記録するって言っていて、お弁当には大好きなハンバーグが入っていて、それで、えっと、そうじゃ、なくて、
キスを、されてしまった。
唇が少しの間触れただけ。ただ、それだけなのに。 その瞬間を思い出すと、今までに感じたことのない甘ったるい痺れが指先から全身を巡ってちくりと痛んだ。
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