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朝目が覚めると、小さな違和感を抱く。 例えばそれは、開けっ放しのままだった窓だとか、閉まりきっていないクローゼットだとか、本当に些細な違和感。 けれど、僕の目に映る世界が昨日までのものとは違う、という実感があった。
「んん…起きなきゃ…」
寝ぼけ眼を瞼を擦ると、初めて、違和感の理由に気付く。僕の手になにか、付いている。
「……………糸くず…?」
ベッドに寝転んだまま左手を掲げると、小指から赤い糸が一本垂れ下がっている。ぱたぱたと手を振ってみても、その糸を引っ張ってみても、ゆらゆらと揺れるそれは僕の指から離れようとしない。
「まあ………いっか…」
欠伸を噛み殺しながらリビングへ向かうと、両親の楽しそうな声が聞こえてくる。
「央、おはよう」
お父さんとお母さんが朝食を囲みながら僕に気付いて笑いかける。今日は生徒会で円が早く登校してしまったけれど、見慣れた、英家の朝の風景だ。 だけど、やっぱり、決定的に違うのは。
「おはよう、ねえ、これって新しい遊び?」
そう言って両親に向かって僕は左手を顔の位置まで上げてみせる。何が言いたいのか分からない、と言いたげな二人の顔に、今度は僕が首を傾げる番だった。
「お母さんとお父さんの指にも、赤い糸、繋がってるけど」
目に見えているまま伝えただけなのに、お母さんは「まあ」と口元に手を添えてまるで少女のように頬を染めお父さんの肩を軽く叩く。お父さんも焦ったように咳払いをして机の上の新聞紙を手繰り寄せた。
「まだ夢でも見てるのかしら。これ、円にお弁当届けてね」 「はぁーい」
円と僕の分、ふたつのお弁当箱を隣に置いて席に着く。 今日も今日とて仲の良い二人の様子を微笑ましく思いながら、お味噌汁に口を付ける。視線だけを動かし左手を見ると、そこには相変わらずあるのは、糸。赤い、糸。 どうやらこれは、両親には見えていないようだ。 ふむ、とようやく覚醒し始めた頭で考える。
僕にはいま、運命の赤い糸とやらが見えているのかもしれない。 現実的ではない、少しロマンチックな考えかもしれない。
けれど、お母さんとお父さんを強く結んでいる赤い糸を見せつけられたら、やっぱり、そういう類のものなんじゃないかな、と胸がわくわくする。
外へ出ると、街ゆく人たちは誰かと繋がっていて、なんだか今日の僕の世界が賑やかだ。 僕のこの指の糸の先にも、誰かがいるんだ。 まだ出会ったこともない人かな、それとも、すごく近くにいる人かな。 そう考えるとやけにドキドキして落ち着かない。
校門を抜けて昇降口で靴を履き替え、お弁当片手に円の教室を目指す。
「おーっす央」 「おはよー」
僕の背を叩いて声を掛けてきた友人の指にも赤い糸が結ばれていて、そういえば彼からは、好きな子がいるのだと相談を受けたことがあった。指の先を目で追えば、その意中の女の子に繋がっていて、思わず小さくガッツポーズをすると友人に怪訝そうな目で見られて笑って誤魔化す。 嬉しい気持ちになるだけでなく、人目も憚らず手を繋いでいる恋人たちの指から、互いに別の場所へと糸が伸びているのを見たりすると、他人ながら少し複雑な気持ちになって目を逸らし足早にその場を立ち去った。
鼻歌を歌いながら僕の糸の先を追いかけるように歩いている途中で、向こうの方にお目当ての人物が見えて僕は大きく手を振り駆け寄る。
「おーい、円〜」
僕の声に気付いたのか、手元の書類に目を落としていた円が顔を上げ、その口元が僅かに綻ぶ。
「朝から生徒会のお仕事お疲れ〜。はいこれ、円の分」 「ありがとうございます」
預かっていたお弁当箱を円に差し出すと、円も手をこちらに伸ばしてそれを受け取ろうとする。 そうして思い出す。今まで他人事のように楽しんでいた今日の僕の世界は、昨日とは違うんだ、ということを。
「央?」
円の手がお弁当箱を受け取ったのに僕が手を離さないせいで、円は不思議そうに眉を顰めた。お弁当を掴んだ手とは逆の、書類を抱えた円の手。円のその手から、目が離せないでいた。
今朝目が覚めると、僕の目に映る世界は確かに昨日までのものとは違っていた。
例えばそれは、近所の猫がくしゃみをしたとか、登校中一度も信号に引っ掛からなかったとか、普段の生活では滅多にないけれど、ありふれた、本当に些細なことなんだと思っていた。
ほんの少しの非日常体験をしているだけ、そう、思っていた。この瞬間までは。
「央」
僕の名前を呼ぶその声にびくりと肩が揺れる。 僕はやっぱり、まだ、夢の中にいるのだろうか。ほっぺたを強く抓ってみると痛くて、「夢じゃないや」と小さく呟いた。
僕の小指に結ばれた赤い糸はまっすぐに、円の小指へと伸びていた。
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