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「ちょっと、円、飲みすぎだよ」 「何を言ってるんです央。閉店までまだ時間はたっぷりあるんですよ。今晩はとことん付き合うと言ったじゃないですか」 「いや、確かに言ったけどさぁ」
行きつけのバーに円を誘った事の発端は、よく晴れた本日の昼下がり。僕の店で、円は付き合っていた女の子に盛大に振られたのだ。 薄橙色の柔らかな照明に照らされる端正な横顔を眺めながら、その時の事をぼんやりと思い出す。
かわいい子だったなあ。
水の入っていたグラスを掴む彼女の指は細くてそれでいて白くて、小刻みに震えていた。
『愛してるなんて、本当に思ってくれた事なんて、ないくせに』
肩あたりできれいに揃えられた栗色の髪がふわりと揺れ僕の前をすり抜けていく。 店を後にするその姿を目で追いかけ、僕は申し訳程度に小さく「ありがとうございました」と呟いて、次いで、円の方にちらりと視線を向けた。 円はと言うと、何が起きたのか分からないのか呆然と彼女が座っていた場所を見つめている。
……ぽたぽたと前髪から水を滴らせながら。
そんな円の事が流石に見るに耐え切れず「まあ、今夜は飲みに行こう!僕の奢りで!」と誘ったのが数時間前の出来事だった。
グラスの中の水を頭からかけられる人、初めて見たな、まるでドラマみたい、なんて内心思っていた事は円には絶対に言えない。 何も、僕の店でそんな事しなくてもいいのに。 そんな事を考えながらシェリー酒を煽ると、円が一際大きな溜め息を吐く。
「…いつもそうです。必ず、『他に好きな人がいるんでしょう』と、言われるんです」 「へぇ、身に覚えは?」 「どうでしょうねえ」 「円、無意識に彼女にキツい事言ったりしたんじゃない」 「………」 「後は、優先順位を誤ったりとか、」 「央との予定以外で彼女を蔑ろにした事はありません」 「彼女と一緒にいる時に他の人と連絡取ってたりとか、」 「まあ…央から連絡があれば…けれど、それ以外はしてません」 「………あれ?もしかして僕のせい?」 「……そうかもしれませんね」
そんな冗談を交えながら話していると、先ほどよりも円の表情が心なしか明るくなり、くつくつと喉を鳴らして笑っている。
こうやって馬鹿な話をしていれば、次の日には案外けろりとしてしまうもんだ。それにきっと、新しい彼女が出来るのも時間の問題だろう。 円の顔は男の僕から見てもとても綺麗だ。…性格には少々難有り、だけれど。 実際、カウンター席の女の子二人組が先程からちらちらと円の顔を盗み見ては弾んだ声を上げている。
「後は、そうだなぁ、例えば、」
男同士で今更恥ずかしがる話題でもないだろうし、お酒の力も相まって僕は笑いながら口を開く。
「セックスで満足させてあげられなかった、とか」 「…キスだってセックスだって、ぼくは彼女を満足させていましたよ」 「あっはは、冗談だよ、じょーだん」 「…信じてないですね、央」
ぽんぽん、と元気づけるように円の背を叩いた僕の手を、円の骨ばった手が捕らえる。まるで、恋人にするみたいな、仕種で。 こんなごつごつとした手が、繊細なアクセサリーとかを作るんだから凄いよなぁ、なんて、この瞬間では至極どうでもいい事が過ぎった。 握られた手が、じんわりと熱く、もう片方の円の手のひらが、僕の顔に近づいてくる。
「…円…?」
円の指先が頬に触れるか触れないかのところで、糸が切れた人形のようにかくりと円の身体が僕に覆いかぶさってきた。
「ちょっと円!おっもいよ!あ〜もう、だから飲み過ぎだって言ったのに…」
小さく唸っている円の腕を肩に担ぎ、トイレへと連れて行く。小さなバーの個室トイレは成人男性が二人収まるには狭くて、円を押し込むだけでも一苦労だった。
「ほら、円、ちゃんと鍵閉めるんだよ?あとはごゆっくり、」 「………」 「…おーい、まどか?」
円が酔うなんて、本当に珍しい。熱に浮かされているのか、薄紫色の円の目がきらきらと宝石みたいな光を湛えながら揺れる。 縋るようなその目を見て、まだまだ手のかかる弟だと微笑んでいると、ドアを押さえていた手を掴まれ引き寄せられると同時にドアが閉まった。
「うっ、お、えっ、なに、」
突然の出来事に目を丸くしていると円は手早く施錠をし、僕の腕を個室内の壁に押し付け、息を吐く。 ぎゅうぎゅうと狭い空間でぴったりとくっつく円との身体に隙間を作ろうと暴れれば暴れる程、円の腕が僕の腰を引き付けるように抱く。なんだろう、この体勢は。
「円、ちょっと、暑いんですけど、…!?」
円の顔を覗き込んだ次の瞬間、円の薄い唇が、僕の唇に重なった。 なんで僕は今、弟にキスされてるんだっけ!?半ばパニックに陥りながら、円に掴まれた腕を必死に動かす。
「…っ、ま、ど、」
口を開くと、間髪入れずに再び唇を塞がれる。しかもそれだけじゃない。今度は舌が侵入してきたではないか。 僕の腔内をぬるりと生き物のように動く舌に、ぞくりと背筋が震える。逃れようと奥へ引っ込めた舌も敢え無く捕らえられ、甘噛みされ、鼻から抜ける声が甘ったい色を帯びたものへと変わっていく。 今、円に腰を支えられていなかったらこのまま崩れ落ちてしまいそうだ。
「まどか、やめ、んっ、…は、」 「んっ、…喋って、舌を噛んでも知りませんよ…」
そんな忠告はいらないからキスをやめてくれないかな!と心の中で必死に叫ぶ僕の声が円に届くはずもなく、円の舌が僕の上顎をなぞる。 今まで経験した事がないびりびりと痺れる感覚に視界が霞む。押さえつけられていない方の僕の手は、気付けば縋るように円のシャツを力強く握りこんでいた。
「んく、ぁ…、はっ、…ぅんん、」 「ふ…は、…央、」
なんて声で、僕の名前を呼ぶんだろう。 いつも冷静でどんな場面でも顔色一つ変えない円が、目尻をほんのり染め、切なげに眉根を寄せている。その表情に、僕は堪らない気持ちになる。 舌が絡んで、口の端から唾液が零れ落ち顎を伝っていく。触れては離れ、離れたかと思うと呼吸さえ奪われる深い口付けに頭がくらくらとした。
「はっ、はぁ、…あ、…な、んで、」
ようやく唇が離れると唾液が糸を引きぷつりと切れる。背をドアに預けながら肩で息をする僕を見て円は満足そうに目を細めて舌なめずりをする。
「ほら、うまいでしょう、ぼくのキス」 「……はあ?」
いやいや、そんなドヤ顔されましても。 僕、男なんですけど。 それ以前に、兄になんて事をしてくれたんだこのバカ弟は。
予想だにしない言葉に思わず素っ頓狂な声が出る。うまいでしょうと、言われても。 さっきからかった事を根に持っていたのか、円。 呆れながら頭を掻いて、一連の出来事を笑い話で片付けようとするも、出来なかった。…さっきからずっと、ドキドキと心臓がうるさいのだ。 円とのキスを記憶の底に追い込もうとしても、熱っぽい表情やざらついた舌の温度をリアルに思い出して、足の指先からぞくぞくと這い上がってくる感覚に頭を抱える。
僕が感じたのは、嫌悪でも憤りでもない、間違いなく、快楽だ。
「あーはいはい円のキスはうまいねなんで別れ話なんてされたんだろうねさっぱり分からないや」
なんでもない風を装いたくて視線を逸らしながらぶっきらぼうに告げる。正直、うまいなんて言葉で片付くものじゃ、なかった。
僕だって、経験がないわけじゃないのに、理性が吹っ飛びそうになるあんなキスは、未知の世界だ。まだ、甘い痺れが残っている。 強引に責め立てられ懐柔され、全てがどうでもよくなりそうになったところで円の舌は焦らすような動きに変わり、それがもどかしくて続きを請うように腰を摺り寄せた。無意識とはいえ自分の取った行動を思い出し顔が熱くなった。
「しかし…意外でしたね」
ふむ、と顎に手を添えて考える仕種を見せる。 必要以上に近い円との距離に、ぎくりとする。なんとなく、だけど。このままじゃ、まずい気がする。直感が僕の頭の中で警鐘を鳴らす。
「…なにが」
必死に絞り出した声は乾いていて、情けなくも掠れていた。
「央がまさか、こんなに感じやすいなんて知りませんでした。それに、なかなかイイ顔をしていましたよ」
何を思い出しているのか、細められた瞳が扇情的でぞくり背筋が震える。自分がどんな顔をしていたのかなんて考えたくもない。
「もー、今夜はこれ以上付き合いきれません」
このまま飲み続けて酔い潰れてしまえバカ円。 腰に回された円の腕を払おうと手を掛けると、逆に手首を握りこまれてしまい、いよいよ身の危険を覚え始める。
「円、僕先に帰るから、」 「嫌です、と言ったら?」 「なに、…っ」
べろりと円の舌が僕の首筋を舐め歯を立てる。 ぞくぞくと這い上がってくる快感に流されそうになるのを必死に繋ぎ止めようとするも、敢え無く失敗に終わった。 ズボンの上から形をなぞるように撫でられた下半身に、電気を流したみたいな痛みがちりちりと走り僕は言葉を失う。
「…う、そ、」
円とのキスで気持ちいいと感じてしまった事は、百歩譲って、認めよう。だけど、だけど、そんなまさか。 しっかりと反応してしまっている僕の下半身を見て、円がさも愉快そうに笑う。
「だから言ったでしょう」
央は、感じやすいんですねって。 一層低い声で囁く円の声に思考が溶けそうだ。ジジ、とゆっくりとした動作でチャックが下ろされ、きつく張り詰めていたそこは布の擦れにさえもぴくりと反応し、熱い息を吐く僕を見て円の目に愉悦が滲む。
「こ…こらこらこら!」
下着の中に手を滑り込ませようとするぎりぎりのところで円の手を掴むと不思議そうな顔で僕を見つめてくる。
「男同士で、恥ずかしい事なんてないでしょう」 「いやいや、そういう問題じゃないよね」
確かにお風呂だって一緒に入った事はあるし、下世話な言い方をすれば、円にぶら下がってるのも普通に見たし、それに、男同士の方が「イイ」場所が分かるから気持ちがいいという話は聞くけれども!それとこれとでは話が違うと言いますか。
「とにかく、離れ、」 「好きなんです」
その一言が。 頭の中で大混乱を極めていた僕に、更に追い打ちをかける。
「……………は?」
僕のこの反応は、真っ当なものだと思う。 円は酔うとキス魔になるだけでなく、だれかれ構わず愛の告白でもするのだろうか。
「いや、円、彼女がいたし、」
円に彼女がいたのは、一度や二度ではない。僕が把握してるだけでも、円の歴代彼女は片手では数え切れない程だ。
「ようやく、自覚しました」 「…な、にを」 「いつも…言われるんです、『他に好きな人がいるんでしょう』って」 「それは、もう、聞いた」 「…『あなたは私をすごく大切にしてくれるけれど、いつも、私を見ていない。他の誰かを重ねてるだけ』と、」 「………」 「ぼくにはそれが、どういう事なのか、分かりませんでした」
つまり、彼女の言う『他の誰か』が、まさか、僕だと言うのだろうか。
「…円、酔ってるん、だよ」 「ぼくが今までお酒に溺れた事がありましたか」
それがまさしく今なんじゃ、と抗議しようと開いた口を再び塞がれる。円とのキスは、息が出来ないくらい、甘くて、苦しい。
「ん、…ふ、ぅ、」 「……ぼくは、ずっと、こんな風に…央に触れたかったんだと…嫌…ですか」
そんな風に頼りない声を出して突然殊勝になるのだから、気を抜けない。 声を震わせながら紡がれる言葉に、ぎゅうと心臓が痛くなる。 嫌か、嫌じゃないかと聞かれたら、…後者だから、この上なく動揺しているんだ。僕は観念したように息を吐く。 円の猫っ毛を撫で、頬に手を添える。僕は、円を、
「もう一回…」 「…え?」 「もう一回、好きって言ってくれたら、考えてあげなくも…ない…」
自分でも何を言っているのか分からなくなってきて、だんだん言葉尻が小さくなる。 「な、なーんて」と冗談めかして顔を上げると、耳を赤く染め上げた円の表情に息が詰まった。
あ、僕、円の事が、好きだ。迷いもなくそう思った。
「好きです、央が。何十回でも、何百回でも、何度だって言います、央が、好きです。央の事が、どうしようもないくらい、好きです」
この短時間で何度キスをしたのか、もう分からない。今まで感じた事がないくらい心臓がドキドキして、苦しくて、すごく、恥ずかしい。 ただ触れているだけじゃ物足りなくて身を乗り出してより深く求めてしまう。
「まだ触ってもいないんですけれど…本当に、随分、感じやすい身体のようで」 「………円のキスがいやらしいんだよ」 「これはこれは、お褒めに預かり光栄です」 「褒めたワケじゃないんだけどなあ」
するりと下着の中に入り込んだ円のざらついた指の腹が、僕自身に直接触れる。それだけで、目の前がチカチカとして意識がぶっ飛びそうだ。 円が片手で自分のベルトを外すと、熱を放ち肥大するそれを目の当たりにして思わず息を呑む。
「ぁ…」 「…感じているのが、央だけだとでも、思いましたか」
正直、思いました。すっごく淡白なんだと思っていましたとも。 僕と円の隙き間なんてないくらいぴったりと身体をくっつけて、円の手のひらが僕と円のもの両方を握り込む。
「ひ、ぁ、…ま、ど、」 「んっ…は…、すごい、ですね、」
円が扱き上げるたびに、滴り続ける先走りがぐちゃぐちゃと音を立て、それが僕の耳を攻め立てる。もう、どちらのものかも分からない愛液が滴りお尻の方まで伝い、ひんやりと濡れた下着に眉を顰めた。 漏れてしまう声を抑えようと唇を噛んで円の肩口に額を擦りつけると、耳朶を甘く噛んで、耳元で円の熱い息が触れる。
「気持ち、いいでしょう」 「…っ、…ふ、…ぁ」
どうして、こんなに気持ちいいんだろう。 円が僕を好きだから?僕も円が好きだから?年甲斐もなくそんな初心な事を考えて頬が火照る。
「んっ、気持ちいい、…は、頭、おかしくなりそ、…っ」 「それは、っ、奇遇ですね、」
ぼくもです、とこぼす円の表情は余裕なんてちっとも感じられなくて、ぞくりと全身が震えた。 誰か人が来るかもしれないという緊張感と、背徳感。 耳から首筋を這うように円の舌が滑り、ガクガクと太腿が震え始める。円のシャツを掴んでいる腕に力が入らなくなくてもたれ掛かると首筋をなで上げられそれだけでも耐え切れず声が出てしまう。
「ま、ど、…んっ」 「…っ、く、」
根元に圧を加えられて、絞るように上下する動きが速くなり、息を吸うことが間に合わず呼吸が短くなり頭が白んでくる。 這い上がってくる射精感に腰をゆるく動かすと、キスをされ、円の舌に腔内を犯され、いよいよ何も考えられなくなり、いっぺんに受ける快感に涙がうっすらと浮かんだ。
「んっ、んぅ…っ」 「…、っ…は、ぁ、」
弾けるように先端から溢れた白濁色の液がパタパタと僕と円の腹部を濡らし、すぐに円のものからも精が吐き出され、どちらからともなく唇が重ねられる。
「…………」 「…央、顔、真っ赤ですよ」 「…すっっっっっごく恥ずかしいもん、お願い、あんまり、見ないで、」 「いやです」 「嫌って」
そんな唇を尖らせて。何を、子どもみたいに。
「もっと、いろんな央が見たいんです。…ダメですか」
ああ、元より僕は円に弱いのだ。こんな時でも強くノーと言えないダメなお兄ちゃんの事を許して欲しい。 だけど、だけど、
「…ダメ、僕、もうキャパオーバー…」
は、と吐き出した息が熱い。かつて経験した事のない倦怠感と快楽の余韻が全身を襲い、もう、いっそこのまま眠ってしまいたい。 今まで円と付き合ってた女の子たちはさぞかし大変だっただろうと考えて、すぐにムカムカと腹が立ち、一丁前に嫉妬している自分に気が付いて単純だなあと思う。
円を独り占めしたい。だけど、今日は、むり。 僕に円は刺激が強すぎるから、ゆっくり慣らしていく感じで是非お願いしたい。うんうん。と心の中で頷いていると、首筋を擽るように円の指が滑る。
「あんなものを注文しておいて、今更帰れるとでも思っているんですか?」 「…あんなもの…?」
円の言葉を反芻し、自分が注文したものを思い浮かべる。 僕が頼んだのは、シェリー酒で、よく冷えていて、一緒に頼んだチーズと相性がよくて、それで、それでえっと、シェリー酒は、と頭をフル回転させ、はた、と一つの考えにたどり着く。 いや、でも、まさか、そんな。 恐る恐る円の瞳を見上げると、いよいよ僕の予想は的中したのではないかと背筋に悪寒が走る。
「シェリーの意味。央が知らないはずはないですよね」 「…え、いや、えっ!?違うよ!?そんなつもりで注文したわけじゃ、あああもう、なんでそんな無駄な知識を身に付けてくるかなあ」 「ロマンチックでしょう」 「だ、」
顎を掴まれ抗議しようと開いた口を塞がれる。食むように唇を啄み、鼻と鼻がぶつかる距離で見つめ合う。ふ、と円が笑い唇を耳元に寄せてそっと囁いた言葉に、僕はもう逃げ道がない事を悟る。
「"今夜は寝かせません"。これが、ぼくの答えです」
ちゅ、とわざとらしく音を立てて耳にキスをする円の顔はこの上なく生き生きとしていて、僕は言葉も出ないままはくはくと唇を動かす事しか出来ない。
「だ、だから、違うってばー!!!!!」
sherry 今夜あなたに全てを捧げます
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