5、最後の約束を、覚えている?




「…なかば」

誰かが、僕の名前を呼ぶ。その声は聞き慣れたはずなのに僕の耳は懐かしくさを覚え胸が震えた。どういうことだろう。

「央、央」
「…まどか?」

ぼんやりとした意識を引き上げるように、円が僕の肩を揺さぶっている。

「央、まさか、この一瞬で寝てしまったんですか」
「んん」

顔を覗き込む円の綺麗な薄紫色の瞳と目が合い、寝ぼけ眼で捉えたその姿は夢の中の青年と重なってハッとする。
勢いに任せて身を乗り出し、テーブルを挟んで向こう側にいる円の両肩を掴むと、僕の行動に驚き目を見開いた。

「円、ピアスなんていつ開けたの!?」
「は…?何を言ってるんですか、央、これはもう一年以上も前に、」

僕がなんの話をしているのか分からない、と言いたげな、不信そうな円の表情を見て一気に冷静になる。そうだ、僕は何を言っているのか。

「…寝ぼけているんですか…?」
「あれ…?」

ぱちぱちと数回瞬きをしてから、僕は再び椅子に腰をおろす。

「まったく、打ち合わせの最中に居眠りなんてしないでください」
「………いやいや、寝てない、寝てないよ」
「じゃあぼくの話聞いてました?」
「うんもちろん。円が動物園のふれあいコーナーで犬を目の前にして動けなくなっちゃった時の話だったよね」
「央」
「…ごめんなさい」

夢。そうだ、僕は夢を見ていたんだ。
その内容に、思いを馳せる。ふしぎなことに、空の色も、土の匂いも、肌を撫ぜる風の温度も、まるで全て自分が経験してきたかのようにいとも容易く思い出せた。
これは、なんなんだろう。
ズキズキと痛むこめかみを押さえ唸ると、心配そうに円が顔色を変える。

「央、体調が悪いのなら、」
「え?あ、いや、そうじゃなくて、」

円に弁解を口にしようとして、僕はそれに失敗する。
僕のすぐ横を通り過ぎようとする女の人の長い髪がさらりと靡く姿を目で追って、ハッと息を飲んで僕は言葉を失くしたのだ。

「撫子ちゃん!」

勢いづいて立ち上がるとガタンッと椅子が大きな音を立てる。僕の行動に目を丸くする円を見て、しまった、と思った。
見ず知らずの初対面の女の人に向かって、僕はいきなり何をしているんだ。
叫んでしまってから、さぁっと血の気が引いていくのが自分でもわかった。「撫子」なんて名前の知り合いは、僕にはいただろうか。

「あ、あの、すみませ、」

いきなり声を掛けてしまったこと、何より、見当違いにも名前を呼んでしまったことへの謝罪をしようとぺこりと頭を下げる。

「…元気そうで、よかった」
「…え?」

元気そうで、と。確かにそう聞こえた気がして顔を上げる。
彼女の瞳を真正面から捉えると、なるほど宝石みたいに綺麗な瞳の色をしている。僕は、ずっとこの色を、知っていた気がする。
絹糸のように細く艶やか長い黒髪は腰あたりまであり、気品を感じる声音と涼しげな目元。とても綺麗な人で、目を奪われる。
けれど、彼女の魅力は、容姿だけではないとなんとなく思った。

「ご馳走様、やっぱり、とてもおいしかったわ」
「は、はい、ありがとうございまし、た…?」

女の人はそう言って、隣に並んでいた男の人の腕にするりと自分の腕を絡ませた。男の人は僕と、そして円に小さく会釈をして店を後にする。
ドアを開けると軽やかなベルの音が店内に響き、彼女の後ろ姿は、やけに眩しくて、ひどく懐かしさを感じるものだった。
ところで、円と打ち合わせの最中だから私服になっていたのだけれど。僕がこの店の人だって、知っていたのかな。

「はー…、お似合いカップルってああいうのを言うんだね、円。美男美女だ」
「央あなた…まだ寝ぼけてたんですか?見てるこっちがヒヤヒヤしましたよ…」
「僕もびっくりしてる…」
「先程の女性、知り合いですか?」
「ううん。夢で会った気がするんだけど…って、なに?その目は」
「……いえ、そう言って何人の女性を口説いてきたんだろうな、と」
「やだなあ円ってば、人聞きが悪い」

さっきの自分の一連の行動を濁すように、カップに口を付け中の液体を飲み干す。
「もっとちゃんと考えてから行動してくださいよ」と制されそうな気がして身を縮こませていると、円がケーキをフォークでつつきながら何かを思い出したように「多分ですけど、」と口を開く。

「彼女、秋霖の生徒ですよ」

念を押すように、「多分ですからね」ともう一度円は言葉にする。

「えっ」
「おそらく九楼財閥の、」
「…下の名前は?」
「……撫子、さん、…だった気がします」
「…………」
「本当に知り合いではないのですか?」

円は単純に疑問なのだろう。だけれどそれを解決してやる術を、僕は持たない。だってこの僕が、一番驚いているんだから。

九楼、撫子、ちゃん。
それは、さっき咄嗟に口から滑りでた名前。何度も、夢で会った少女の名前。
これは本当に、ただの偶然なのだろうか。

もしかしたら、と。
今まで浮かんできた全ての疑問が、確信に変わっていく瞬間だった。

ここしばらく見ていたあの不思議な夢を見ることは、もうないんじゃないかと思う。
きっと、あの夢に、続きなどないから。

もしかしたら、あれは、夢ではなくて、「僕」の記憶なのかもしれない。

もしこれが、全て実際にあったことなら。
…リセットされてしまったのだろうか。
今僕が知っている僕自身のこの記憶は、いったいどこから来ているのだろうか。

眉間に皺を寄せていると、僕の顔を見て円は不思議そうに首を傾げる。

「ところで央、さっきの話の続きなんですけど」
「あ、ごめん、聞いてなかったから最初っから話してもらっていい?」
「今度は清々しいくらいに開き直りましたね…。女性の話ばかりでなくかわいい弟の話もちゃんと聞いてくださいよ」
「ごめんて円」
「新作の次の搬入日についてなんですけど、」
「…ねえ、円」
「…はい?」

話し始めようとする円の言葉を遮りゆっくりと口をひらく。

「円の願いを言ってみて」
「…なんですか突然、誕生日プレゼントなら間に合ってますよ」
「いや、そういうのじゃなくて」
「…?今日はいつも以上に央のぶっ飛んだ思考が推測出来ないのですが」
「あれー!?お兄ちゃん馬鹿にされてる!」



…最近、よく夢を見た。長い、長い夢だ。
まったく知らない土地なのにどこかこの街に似た、不思議な世界。

夢というにはあまりにもはっきりとしたそれに思わず自分が経験してきたことなのではないかと疑うほどだ。

円が一人塞ぎ込んでしまったり、周りの建物が次々と崩壊して世界がおかしくなっちゃったり、家族とばらばらになってしまったり。
とても、暗くて、悲しい世界だった。

円と再び出会う、というそんな小さな希望が、「僕」にとっての一筋の灯りだった。
「僕」は、円にとっての希望で有り続けられただろうか?今は、確かめる手段なんてないけれど。

「そうですねえ」

円は咳払いをしたあと、少しだけ言いにくそうに口を開いた。

「央の料理が食べたい、です」

思わず、息を呑んだ。僕の中にある記憶とぴたりと重なるその姿と言葉に、僕はどうしようもなく泣きそうになって、口の形が歪みそうになるのを必死に隠す。

「…毎日、食べてるじゃん」

声が、震えた。

「いえ、そうなんですけどね。なんだか今、無性に食べたくて」

そう言って円が笑う。

「…ほんと、欲のない子だ…」
「なに言ってるんですか、央の料理が食べられるぼくは、世界一の幸せ者ですよ」
「も〜、今日のディナーは最高のものを作るから、期待してて!」
「いつだって央の作るものは最高です」

ねえ円。
僕は、あの世界の円の願いを叶えてあげられなかった不甲斐ないお兄ちゃんだけれど。
もう円をひとりにしたりしないから。
これから、たくさんたくさん幸せをあげるから。

「円が生まれてきたこの日を、お祝い出来て、僕は最高に幸せだなぁ」
「…よくもまあ、素面でそんな恥ずかしいことが言えますね。ほら、まだ打ち合わせは終わってませんからね」
「はいは〜い」

円の誕生日をこうして祝えることは、ちっとも当たり前のことなんかじゃなかった。
僕の大切な弟がこうして隣にいてくれることは、奇跡に近いことなのかもしれない。

僕の手で救えないものも、取りこぼしてしまったものは、きっとたくさんある。

僕にこうしてあの世界の記憶が残ったことに、なにか意味があるのなら。
それは多分、円を幸せにするためなんだ。

これからたくさん、円を笑顔にしてみせるよ。

だって僕は、円の、お兄ちゃんだからね。





(2015.04.11)







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