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3、僕の標準装備は泡立て器?それとも
最近、不思議な夢をよく見る。 青と赤が混じったような暗い空の色、鳥の囀りさえ聞こえない荒れ果てた土地に、僕は立っている。 それは、夢という一言で片付けられないくらいやけにリアリティがあって、肌で風を感じることも出来るし、鼻を掠める土の香りも懐かしさを覚えるくらい僕の身体にすごく馴染んでいる気がする。
それは、悲しい世界だった。 建物はぼろぼろに崩壊し僕たちの日常が跡形もなく消えてしまった世界。
「変な夢」
朝起きたとき、僕は泣いていた。夢で見た世界が、あまりにも悲しかったから。 円の誕生日を祝わなかったことなんて一度もないし、今日だって早めに店仕舞いをして円の誕生日の準備をするのだ。 夢のはずなのに、どうにも腑に落ちない。 まるですべて自分の身に起きたことなのではないか、と思ってしまう感覚は、一体何なのだろう。
それに今日は、円の22歳の誕生日なのだ。21歳を迎えたときだって当然、円の誕生日を祝った。
「…変な夢」
もう一度、同じ言葉を繰り返してみる。
僕の世界はこんなにも平和だし、赤と青が混じったような空の色はしていない。 わたがしのようにふわふわの白い雲が浮かび、鳥が囀る。 風が吹けば葉の擦れる音がさわさわと鳴る。 なにをとってもあの「夢」の世界とは、違いすぎている。
「夢がどうかしたんですか?」 「ううわっ!」
ぼんやりとしていると突然背後から声をかけられ、僕は手にしていたボウルを思わず手離しそうになる。 振り向いた先にいたのは、よく見知った、僕の店の厨房スタッフだ。
「えぇっ、そんなに驚かないでくださいよ、シェフ」 「…うん?え?シェフって?僕?」 「英さん以外に誰がいるんですか」 「ごめんごめん、立ったまま寝てたのかも」 「そんなだから、変な夢なんて見るんですよ。どんな夢だったんですか?」 「う〜ん、荒れ果てた世界でね、僕は正義のジャーナリスト。道に迷ったかわいいお姉さんを助けるんだ」 「はは、英さんらしい夢ですね」
そう、夢、たかが夢なのだ。それなのに、それだけで片付けられないのは何故だろう。 ねっとりとついて回る拭えないこの違和感は、一体なんだろう。
「その世界では、僕と円は離れ離れになっちゃって」 「それこそ、夢の世界じゃないとありえない話ですね」
だってとても仲のいい兄弟なのに、と彼は人好きしそうな笑顔を見せる。そうだよね、と僕もつられて笑う。
違和感といえば、もうひとつあった。
僕は親の店を継いでレストランHANABUSAのシェフとして働いている、…はずだ。 今隣にいる彼は、僕がシェフになる前から一緒に厨房に立ってきた昔馴染み、…のはずだ。 彼の癖や好きな食べ物だってよく知っている、…はずだ。
…本当に、そうだっけ。 僕は、彼のことを、よく知るほど、本当に時を共にしたのだろうか。
何故か最近になって、初めて会ったような感覚が拭えなくて違和感に顔を顰めると、彼が不思議そうな顔をした。
「?どうしたんですか?英シェフ」 「ねえ、僕たちって、実は知り合ったの最近だったり、しない?」 「…シェフ、本当に立ったまま寝てたんですか」 「…いや、うん、そうだよね、ごめん、なんでもない」
首を捻る彼に向かってかぶりを振り、手元の作業に集中する。 ピンと立った艶のあるメレンゲだって、手に持った泡立て器だって、僕によく馴染んだものであるはずなのに。
「英シェフ、弟さんが見えましたよ」 「あー、そう言えば今日、打ち合わせで顔出すって言ってたっけ。ちょっと表出るね」
店内に出る前に私服に着替えようと更衣室に向かう。服に手をかけながら、頭の中を支配するのは夢の景色ばかり。 ああ、またこの感覚だ。足元がぐにゃりと歪み、地に足がつかなくなる。僕の意思なんてお構いなしでどこかへ引っ張られていく。
これは、いったい、誰の夢?
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