1、君に全部、あげる




「なんだか、未だに実感がわかないわ」

今まで静かに本を読んでいた撫子がふと口を開く。隣に座る彼女の方に視線を向けると、本を閉じ、訝しげに唇を尖らせこちらを見上げていた。

「何が」
「全部よ。私たちは前まで確かにあの世界にいたじゃない」
「それで?」
「私たちはこの世界の事をなにも知らないのに、この世界のひとつとしてきちんと埋め込まれている」

撫子が俯くと長い髪がさらりと流れる。隙間から覗く首筋は滑らかな大理石の彫刻のように綺麗で、やけに現実味がない。

「事故に遭わなかったあの日から、今のこの世界になった日までの記憶を全部、私たちは知らない。上書きされたものなんだわ」
「…まあ、それは俺らにだけ言えることじゃない。きっとこの世界で生きているやつ全員が『そう』なんだ。それを知ってるのが、オレたちだけっていうだけで」

無意識に、声のトーンが下がっていた。
オレたちは、あの世界で生きていたすべての人たちの年月をなかったものにしてしまった。
ふと思い出すのは、たとえ短い期間だったにしても一緒に過ごした有心会の奴ら。

利害関係で結ばれていただけとはいえ、情が一切なかったかと言われれば、そうではない。
あの場所で過ごした日々になんの思い出もなかったかと聞かれれば、それも違う。

寅之助や終夜も、この世界のどこかで、自分の足で歩いているんだろう。
オレのそんな考えをすべて見透かしたかのように、撫子の深い緑色の瞳がオレを覗き込む。まあるくて大きなその瞳に見つめられるとどうにも落ち着かなくて視線から逃げるように目を逸らすと、撫子がくすくすと笑う。

「…なんだよ」
「いいえ、本当に、この世界にまるで二人きりみたい、そう思っただけよ」
「呑気なやつ」
「…なによ、大人ぶって」
「大人なんだよ」
「理一郎のくせに」

頬を膨らませ、ぷいとそっぽを向く撫子の髪にそっと触れてみる。
さらさらとした髪に指を通し撫でると、最初は居心地悪そうにしていたくせに、次第に子供のように頬を綻ばせていく。ああ、なんて、愛しい。

大人なんて、嘘だ。ただの見栄でしかない。
目の前にいる少女を手放せないがために、自分は世界を大きく変えてしまったのだ。そのことに対して、少しも恐怖がないわけではない。
それを悟られたくなくて、思わず見栄を張った、ただそれだけだった。
そんな小さな虚勢すら、彼女は見抜いているだろうけれど。

「あっそうだ」
「ん?」

腕の中に収まる恋人がわずかに身動ぎ、顔を上げる。至近距離にある撫子の顔に動揺しているのを気付かれたくなくて平静を装う。

「ねえ、理一郎、もしかしたらこの世界にもHANABUSAのお店があるかもしれない」
「HANABUSA?」

遠い記憶の糸を手繰り寄せてみる。たしか、そんな名前の有名なレストランがあった気がする。

「央たちが、いるかも」

聞き馴染みのない名前を親しげに呼ぶ撫子に眉を顰めると、それを見て「いやだ、嫉妬してるの?」と白い指を口元に添えて綺麗に微笑んだ。
…大人びてるのは、そっちの方だ。

「央の作る料理は世界一なのよ。理一郎もきっと、気に入るわ」

そう言って撫子はオレに手を差し出す。

「…ああ」

握った手のひらのあたたかさをたしかに感じると、目頭が途端に熱くなる。
この暖かさの代償に、オレたちは名も知らぬ誰かの人生を踏みにじったかもしれない。
その重さに堪えきれず倒れてしまうことがあるかもしれない。


それでも、隣にお前がいてくれるなら、後悔なんてしない。










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