「ねえ央、いつかこの世界にも花が咲くのかしら」
「そうだね、いつかきっと」
「…ふふ」
「撫子ちゃん?」
「途方のない話のようだけれどね、私、あなたとなら叶う気がするの」

くすくすと微笑みかけると央は目尻をさっと赤く染め驚いた表情を見せて、手持ち無沙汰になった指で頬を掻く仕草をした。

土と砂が混ざり荒れ果てた土地に、夕日の橙がゆっくりと滲んで溶けていく瞬間。
沈みかけて空一面に溢れるオレンジにも劣らない央の瞳の色を、私は、とても綺麗だと思った。

「…あのさ、さっきの言葉、訂正してもいい?」
「え?」

央はそう言って恭しく私の手を取って、その大きな手のひらで優しく包み込み笑う。

「いつか、必ず」

央の笑顔は太陽よりもずっと眩しくて、きらきらと光るその表情にそっと瞼を伏せると、堪えきれず涙が溢れた。


ねえ、好きよ。私、あなたが好き。


私の手を握る温かなその体温に縋りついて胸の中で抱え込む。

いつまでもこうしていたい。そう思うのに世界がだんだんと白んでいき目が霞む。
…イヤよ、目覚めたくない。ずっと、夢の中で微睡んでいたい。強く望んでみてもいつの間にか手のひらからぬくもりがすり抜けていく。

もう、何度見たか分からない夢を見て目が覚める。
それは、夢と形容するにはあまりにも鮮明で、愛おしくて、褪せることなく私の胸を締め付けるもの。

これは、記憶だ。

あの人の落ち着いた声も、私の手に触れる指先の熱も、優しく抱き寄せてくれる腕のたくましさも、私は全部全部、覚えているのに。

どうして私は今、あの人の隣にいないのだろう。












あなたの知らない私の初恋












ずきずきと鈍く痛むこめかみを押さえると耳に掛けていた髪がさらりと流れて視界を覆う。頬を掠めた指先が涙の跡に触れ、それを消すように制服の袖で強く擦り足元に視線を落とした。

煉瓦が途切れることなくきれいに並べられ、整えられた道が延々と続いていることに違和感を覚える。

「夢の景色と、こんなにも違う…」

ぽつりと呟き、読んでいた本を閉じて小さく息を吐く。

首筋を浚う冷たい風の色も、木々の枝先に芽吹く春の訪れも、紅茶のように裾から滲む空も、夕日が反射する街も、私の目には何も映らない。
あなたがいないというだけで、私の世界はこんなにも色褪せるなんて。

私は、自分が生まれ育った世界に戻ってきた。
あの世界の記憶を何一つ落とさぬまま、あの人の手を離してしまったあの日からいくつか季節をまたぎ、もう何度目かの春が来る。

もう二度と会えない。もう二度と触れられない。もう二度と声も聞けない。
私に残ったあの世界の記憶は、日々私を苛んで、蝕んでいった。

この記憶は、私への罰なのだろうか。
何気ない会話も、優しい眼差しも、本音を隠した言葉も、涙まじりのキスも、あの人と過ごした時間全てが、今はただただ悲しかった。

私はどうして、ここにいるのだろう。どうして私の隣にはあの人がいないのだろう。何度も何度も、自分に問い掛ける。答えなんて出るはずもなく、頭を垂れる。手を離してしまったのは…私なのに。

…また私は、下ばかりを見て。

「撫子ちゃん!」
「…え?」

沈みかけていた意識を掬い上げる耳馴染みのよい声。足元に誰かの影が落ちたかと思うと、聞き慣れた声が私の名前を呼ぶ。パッと顔を上げれば目の前にはいたずらっ子みたいに笑っている央がいて、両手いっぱいに薄紅色の花びらを抱えている。声を掛ける暇もなく、央がそうっと手のひらを開くと、はらはらと私の頭上を桜の花びらが踊るように舞い散り、その美しさに目を奪われ息を飲む。

「さく、ら」
「うちの近所でね、もう桜が咲いてるんだ。すごく綺麗で、撫子ちゃんにも見せたくて」

まだ小さな、だけど私のものよりもずっと大きなその両手にはこぼれ落ちんばかりの桜が溢れていて、央はそれを宝物のように大事そうに抱えて笑う。

ああ、私は、この笑顔を知っている。
どうしようもなく胸が苦しくて、手が届かなくて、欲しくて、…だけど、最後には叶わなかった私の恋。

「…撫子ちゃん、どうしたの?」
「な、に、」
「泣いてる」

央の言葉でようやく自分の頬が涙に濡れていることに気付き、息が詰まった。
悲しいとか、苦しいとか、夢を見た後にいつも襲われる後悔ではなくて。

世界があまりにも美しくて、涙がとまらない。

(今、あなたが見せてくれた桜を、とても綺麗だと思ったの。)

私の世界はとっくに色を失ったのだと思っていたけれど、そうじゃなかった。

夕日が反射してきらきらと光るあなたの髪も、手の届きそうなところで眩く輝く金星も、何もかもが色鮮やかだ。私を取り巻く世界が色付き、彩りを取り戻していく。一気に溢れる世界の色に動揺が隠せず、私の小さな胸は押しつぶされそうになる。

「…っ、…う」
「え!?えっ、な、撫子ちゃ、」
「…ごめんなさい、…ごめ、んなさ、」

手のひらで口元を覆うと嗚咽に似た声が漏れ、涙が頬を伝い、制服のスカートにぱたぱたと雫がこぼれ落ちていく。息をするのも苦しくて、苦しくて、傍にあった央の腕に思わず縋り付いてお腹を抱えるように俯いた。
何も言わずに央がそっと私を覗き込むように跪く。優しく髪を撫ぜられ、繊細なものに触れるようにそっと抱き寄せるその仕草に身を委ねた。
気が付いた時にはあたたかな体温に包まれていて、今更、頬が熱くなる。
央の肩口に鼻を摺り寄せると、あの人とは違う香りにまた涙が溢れる。

この人も、また、二人といない央なんだ。

そう思ったら涙が止まらなくなって、央の制服を掴む指先により力が入る。

「…なにか、悲しいことが、あったの?」

宥めるような、優しい声。ぽんぽんと背を叩く温かい手のひら。コクンと、小さく頷く。

(とても…とても、悲しかった。とても、苦しかった。)

あの人と、小さな約束をしたの、…花を見ようって。それすらも、叶えられなくて。
そして、あの世界のことを何も知らないこの世界のことが、少しだけ憎かった。
私の中で渦巻く感情は何一つ言葉にならなくて、口を開くと嗚咽ばかりが漏れる。

「…そっか…」

ふわりと央が笑う気配がする。顔は見えないけれど、どんな表情をしているのか簡単に想像出来た。

央は、優しい。何も話せない私の隣で、何も言わずに、傍でいつも笑ってくれている。
けれど私ときたら、あの人と央の違うところばかりをいつも探してしまう。無意識といえど央を無碍にしていることに変わりはなくて、申し訳なくて、そして、この世界の央に心を開くことはあの人への裏切りになるような気がして、私は重く心を閉ざしていた。

あの世界で失くした私の心。
あの世界で止まってしまった私の時間。

私に残るあの世界の記憶は、あの人の手を離してしまった私への罰なのだと、そう思っていた。
何度も心が壊れてしまいそうになった。

二度と戻らない時間に、ちくりと胸が痛む。本当に、愛しい日々だったのだ。
この記憶を否定したくない。あの人と過ごした時間を、悲しいものだと思いたくない。あの人と共有した全ての時を、私は愛したい。

この世界の央は、私が不安に押しつぶされそうな時、いつも傍に居てくれた。
少しずつ、確かに、緩やかに、私の心臓は鼓動を刻み始め、今や、私の瞳は、色を映すようになった。
あなたが見せてくれる景色は、どうしてこんなに、…胸が苦しくなる程に、美しいのだろう。

もう、自分の気持ちに蓋をするのは、止めよう。
思えば、私はいつだって、央のことを追いかけていた気がする。

一度目は、小学生の頃。あの時は幼すぎて、恋なんて呼べるようなものではなかったのかもしれないけれど、私は確かに、あなたに特別な感情を抱いていた。

二度目は、こことは別の世界の央。あの人が最後の人だと思っていた。
どんな状況でも笑顔で、宥めるように背に触れる大きな手のひらはとても温かくて、自分を犠牲にしてでも何が最善かを考えて、いつも誰かのために走っていて、そして私の手を握ってくれた。
強くて弱い、そんなあの人を、私は、とても、愛していた。

そして、三度目。

私の名前を呼ぶその声は、私が知っている記憶のものよりも少し高くて、
私の指に触れるその手は、私が覚えているよりもずっと頼りなくて柔らかくて、

でも、それでも、私は、

私は、また、央に恋をした。

あの人への想いは、とても、とても、かけがえなくて大切なもので、失いたくない気持ち。
…失わなくてもいいのだ。私はこの胸の痛みを抱えたまま、あの世界の記憶とともに、前に進みたい。
私は、目の前の央と、向き合い、同じものをこの目に映していきたい。
もう、俯いていたくない。この人と…この世界の央と、生きていきたい。

「央、ごめん、なさい、」

これは、この世界の央に。今まで目を逸らしていたこと、あの人の面影を探して一瞬でも重ねてしまったことに対する言葉。

「央、ありがとう」

これは、あの世界の央に。あなたに出会えたこと、私を愛してくれたこと、あの世界で過ごしたあなたとの全ての時に対する言葉。



一向に泣き止まない私に央はわたわたと動揺し始め、緊張したような表情でたどたどしく私の手を取った。

「撫子ちゃん、桜、本当に綺麗でね、」

記憶の中の彼はこんなこと何でもなかったのに、目の前にいる彼はどこかぎこちなくて、手が震えている。
そんな些細な違いが、今は、とても愛おしい。

「だから、その、」

今目の前にいる央は、他のどの世界にもいない、たった一人の存在だから。

「桜、一緒に見に行きませんか」

夕日に染まる央の頬が、私の胸をじんわりと熱くする。
胸に仄かにともる灯りは私の胸を甘く疼かせ、また涙が出そうになった。

「はい」

うまく、笑えていたかは分からない。
ただ、私の手を優しく包むその手に応えるように、私は少しだけ力を込めて握り返す。
もうこの手を離さないのだと、あの空の下で生きる彼にそっと誓った。

「央、私ね、聞いて欲しいことがあるの」

雲を金色に染めていた夕日が沈みかけ、薄紫色の雲と星を散りばめた濃紺の空が薄く広がっていく。
あなたと見る世界は、こんなにも、美しい。

「私、央のことが」















−−−−−−−私はもう一度、あなたに、恋をしたんだわ。







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