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「たっだいま〜っと…あれ、お母さんいないや」 「買い物、でしょうか」 「かな〜?…ん?あ!チョコだー!ここに置いてあるってことは食べてもいいのかな!いいんだよね?ね!」
脱いだコートをソファに置いた央は、お皿に綺麗に並べられた四角い形のチョコレートに目を輝かせている。手を洗いながらそんな光景を横目に見て、チョコレート一つではしゃぐ央に、自然と笑みが漏れる。
「きっと今日のおやつなんだと思います。食べても問題ないかと」 「だっよね〜!」 「央、手、洗ってください」 「あっはーい、失礼しました〜!」
ぺろりと舌を出してぼくの隣に並ぶと、そういえば最近ぐっと央の視線の高さに近くなったなと実感する。もう少しで、央の身長を抜かせるだろうか。 そんな風に逸る気持ちを隠しながら、チョコレートを囲んだ。
「いっただっきまーす!…んんん〜…ん〜…おいしい!」
央が一粒口に入れるのを見届けて、それに倣って同じものを口へと運ぶ。 すると、チョコレートの甘くて苦い複雑な味の中に、ふんわりと、今まで感じたことのない香りが鼻を抜けていく。強い香りに、思わず顔を顰めた。
「…なんだか、不思議な味がします」 「ああ、多分、リキュールが入ってるからだね」 「おいしい…んですかね、」 「うん、とっても!円も大人になったら、この美味しさが分かるんじゃないかな〜!」 「ひとつしか違わないのに大人だと豪語する姿がやや幼稚に見えない事もないですが央はぼくが尊敬すべき素晴らしい大人だと思ってますよええ本当に」 「お、思ってないことは言わなくてもいいんだよ円…」
食べ慣れていない味に少し戸惑いはしたけれど、なるほど確かに、おいしい。 少しずつ食べているぼくを他所に、央はお皿の上のチョコレートをどんどん平らげていく。このままではぼくの分が無くなってしまう。 ハッとして最後の一個に手を伸ばすと、さっきまではしゃいでいた央が急に静かになったことに気付く。
「…央?」 「……………」 「なか、」 「…き…きもち…わるい…」 「…えっ…!?」
もしかして。もしかしたら。原因は、このチョコレートしかない。まさかチョコレートで酔ったとでも言うのか。その、まさかなのだろうが。
「央!?吐きそうなんですか?ぼくはどうすれば、水、ええと、それとも、」 「横に…なりたい…」
弱々しく央はそう言って口元を押さえ背を丸めた。央の顔は普段から想像がつかないくらいに白くて、央の身体を支えるぼくの指先がかたかたと震える。 どうしよう、どうしよう。 うまく息をすることも出来なく、声も出ずに無我夢中で、けれど刺激を与えないように央を抱きかかえて部屋へと急いだ。 ぼくよりもわずかに背の高い央を抱えるには、ぼくはまだ小さくて、こんなところで数センチの体格差を恨めしく思う。一刻も早く、落ち着かせたいのに。
央の身体をベッドに沈めると、ふにゃりと丸まった後に仰向けになってぼくと目を合わせた。
「ごめん円…ありがと…」 「いえ、いえ、央、何か欲しいものは、あとはその、吐いた方が楽になるなら、」 「いや…なんか…あつ…くて、」
もぞもぞと制服を脱ぎ始め、肌に触れている衣類が煩わしいのか気怠げに眉を顰めながらバサリと床に学ランを投げつけ、シャツのボタンを一つずつ外していく。
「うー…」
先程までの、こちらが心配になるくらいに蒼白だった顔色は赤みを取り戻していて、少しだけ安堵した。
「あついなら、濡らしたタオルでも、」 「…ん…いい、」 「ですが」 「…円の手、冷たくて…気持ちいい…」
央を安心させるように握っていたはずのぼくの手は、いつの間にか央の両手にすっぽりと握り込まれていて、瞳を閉じたまま熱っぽい頬を摺り寄せてきた。
「円、ひんやりしてる〜」 「っ、央、抱きつかないでくださ、」 「いいじゃん、減るもんじゃないんだしさあ」
先程まで気持ちが悪いとのたうち回っていたとは思えない力でぼくをベッドに引きずり込み、抱き枕のように腕の中にぎゅうぎゅうと抱きすくめる。
「なか…っ」 「円〜」 「や、やめて下さい央、」
両手でぼくの頬を挟み込んで容赦なく頬ずりをしてくる。ふわりとチョコレートに含まれたリキュールの香りが鼻を掠めて、どきりとした。 その時、ふと、央の唇がぼくのものに軽く触れる。
「…っ!」 「…あれ?ごめんごめん、チューしちゃったねえ」
驚いてバッと仰け反ると、焦点の合わない目でぼくを見て、ごろりと仰向けになりながら、頭を掻いてへらりと笑う。
どうして、こんなにクラクラするんだろう。どうしてこんなに、ドキドキ、するんだろう。
そっと央の手を握ると、央は不思議そうに首を傾げながらも指を絡め、ぼくの手を取った。
「どしたの、円」 「…、」
寝そべった央に覆いかぶさるように、つい、と顔を近付け鼻先が触れる。至近距離にある央の瞳に、ぼくだけが、映りこんでいる。心臓の音が、うるさく鳴っている。赤みを帯びた頬に、そっと口付けを落とすと、央の睫毛がふるりと揺れて、瞬きを繰り返した。
「なかば、」 「んー…なぁに」
その瞳は、涙を湛えたように潤んでいて、その表情が年齢に似合わず煽情的でぞくりとする。どのくらいそういていたのか、そのままの体勢でじっとしていたら、央が唇をツンと突き出し、ぼくの唇に再び触れる。それを合図に、ゆっくりと、ぼくたちは唇を合わせた。
「…ん、まど…」 「央、」
うっすらと開いた唇の隙間を舌で割って入り、おずおずと腔内に忍び込ませる。やり方なんて分からないまま央の舌を食むと、びくりと身体を揺らしぼくの肩を掴む手に力がこもった。チョコレートの甘い甘い味に、思考がとろりと溶けて手放しそうになるのをすんでのところで引き止めた。奥へと逃げようとする舌を追い吸い付くと、息苦しそうなくぐもった声が鼻から抜ける。
「まどか、くる、し…っ」 「すみませ…ん…加減がよく、分からなくて、」 「ん、…はぁ…っ、ぁ…」
猫のように背をにしならせて、荒い呼吸を整える。その汗ばんだ額に触れると央は微笑んで、ぼくの手に自分の手のひらを重ねた。
「…僕たち今、いけないこと、してるのかな」
どきりと、心臓がひとつ大きな音で鼓動を打ち、胸がぎゅうと苦しくなる。
「…央、ぼくは、」
身を乗り出し、央の頬に手を添えると、静かに寝息が聞こえてくる。
「…このタイミングで寝れるなんて、ほんと…尊敬しますよ」
届くことのない声を、眠りについてしまった央にそっと投げかける。 ぼくは。…何を、言おうとしていたのか。 くったりと身体を横たえる央の頬に優しく触れると、央は気持ちよさそうにむにゃむにゃと口を動かしながら小さく身じろいで笑う。愛らしい、寝顔だと、思った。
「…いけないことを、…してしまったのでしょうか」
ぽつりと呟いた言葉は静かな部屋に溶け込んで、ぼくの問い掛けを拾い上げてくれる人も、答えてくれる人も、いない。 夕陽が遠い地平線に沈み、星のカーテンを夜空に巡らせる。
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「央、気分はどうですか?」 「…僕、なんで寝てるんだっけ」 「チョコレートで酔ったんですよ。気持ち悪いとか言い出して」 「あああ…そっかあ…僕お酒弱いのかなあ…」
そういえばパッチテストの結果ってどうだったっけ、なんて呑気に言っている央は、驚く程普段通りで、何事もなかったかのように振舞っていて呆気に取られる。
「夕食は食べれますか、もう大丈夫なら下に、」 「あのさ、円」 「なんですか」 「その、僕、円に…なにか…した?」
瞬間。ぼくに関わる全ての時が止まった錯覚に陥る。
「…なにか、とは」
声が喉に張り付きうまく出てこない。どうすれば声が出るのかも忘れてしまったみたいで、それがうまく言葉になっていたのかは分からない。 それでも、央が「うう〜ん」と間延びした声を出したから、ぼくの声はきっと音になり央の耳に届いたのだろう。
「なんていうか、その…、キ…」
そう言って央の指先が自分の唇に触れる。それが、意識的なものなのか、無意識なものなのかは分からない。 央の目尻にさっと朱が差す。 ぼくは、先程の行為を思い出し、一人くらりと目眩を覚えた。
「な…なんでもないや!気のせいかな!」 「そう、ですか」 「今日の夜ご飯なんだろ、あっ、やばい、制服のまま寝ちゃったから、シワになるってまた怒られちゃう」
央はぽんとぼくの肩に手を置き「早く行こ」と笑って催促をする。足早に階段を降りていく後ろ姿を見送り、ほんの一瞬だけ央に触れられた肩に手を添えた。
央が忘れてしまったことにホッとしているのか。それとも、覚えていなくて自分勝手にも寂しいと思っているのか。ぼくは、どっちなんだろう。
もしかしたらぼくもお酒に弱いのかもしれない。 甘くて苦いあの味が腔内を侵して蝕み、いまだにクラクラとする。 ズキズキとした痛みを胸に残したまま、ぼくはただ、立ち尽くす。 この感情の名前も、この感情の行き場も、これらをどうにかする術も、今のぼくは、何も持ち合わせていなかった。
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