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廊下に出るとシンと静まっていて、自分の足音だけがやけに響く。 授業の終わりを告げる鐘と同時に教室を出たから、まだ廊下に顔を出している生徒はいなかった。
(退屈だったな)
分かっていた事だったが、さっきまでの授業の内容を思い出そうとしても出来やしない。 開いた教科書にどんな事が書いてあったのかも覚えていないし、…正直、起きていたのか寝ていたのかも記憶にないくらい記憶があやふやだった。 まだ話し続けている教師を無視して出てきてしまったから、きっと後で海棠に説教されるだろうけれど、一刻も早く、あの退屈な空間から出て行きたかった。
教師は出て行くオレを静止する事もなく、重い溜め息を吐いた。 海棠は困ったように眉を下げて笑っていた。
思い出せるのは、それだけ。
後から言われる教師の小言も、海棠の説教も、面倒だと分かっているのに、どうしても対人関係が拗れる方向に持っていってしまう。大人しくしていればいいものを。 そう自問自答するが、出来るわけねえだろ、とすぐに否定する。 お嬢様お坊ちゃんばかりの空間に放られて、異端者のような目でオレを見る。 そんな奴らの集まりに、こちらだって馴染みたくもない。 飽きもせず話しかけてくるのはあの課題メンバーの奴らくらいか、とぼんやり考えた。
そういえばこの前、告白されてたな、あいつ。 その課題メンバーの一人の能天気そうな顔が思い浮かぶ。 結局あいつは、あの日、何を言おうとしたのか。まあ今となってはどうでもいいけど。
欠伸を噛み殺すと、目尻にうっすらと涙が滲む。 このまま帰宅する気にもなれず、この後の時間をどこでどう潰そうか考え、足は自然と屋上に繋がる階段へと向かっていた。
背後からバタバタと足音が聞こえ、だんだんとその音は接近してくる。 海棠だろうか、教師だろうか。どっちにしろ自分にとって都合の良い来客ではないはずだ。 階段の手摺りに手を掛けぐっと力を入れた瞬間、聞こえていた足音はすぐ後ろで止まる。
「トラくん!」
海棠でも、教師でもない。 まったく予想していなかった人物がそこに立っていた。予想はしていなかったが、ちょうど、思い浮かべていた人物。 名を呼ばれた時点で、そこに誰がいるかなんて顔を見なくても、分かった。 そんな風に呼ぶ奴はこの学園にひとりしかいない。
「なんだよ、英」
ぜえはあと乱れた息を整えながら、英は思い詰めた表情で紅潮した顔で見上げてくる。 その表情が普段見慣れたものではなく、「あの日」と同じ顔をしていたから眉を顰めた。 走って暑くなったからなのか英は顔をぱたぱたと手で煽ぐ動作をし、「あのね」と口を開いた。
「あの、つ、つき」 「あ?」 「う…付き合ってください!」 「どこに?」 「え!?いやそうじゃなくて、その、」
英が口ごもるのを見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。 教室の方から生徒の声がまばらに聞こえてきて、廊下がだんだんと騒がしくなる。 教師に捕まるよりも海棠に捕まる方がよっぽど面倒だ。見つかる前に早くこの場から立ち去りたい。 こいつが何を言いたいのか分からず、はっきりしない態度にだんだん苛立ちが募り始めて口を開いた。
「用がねぇんならもう行くかんな」 「あっ、ねえ待って!」
英に背中を向けて階段を再び登り始めると急に腕を掴まれ、驚いて英の顔を凝視した。 手首にぎゅうと力強く回された英の指先が、熱い。 俯きがちに視線を彷徨わせていた英が覚悟を決めたようにオレを見上げ、視線が交わる。 真っ直ぐにこちらを見据え、唇が動く。
「好き、です」 「何が?」 「ねえトラくんって意外と鈍感なの!?」 「はあ?さっきから訳分かんねえんだけど」 「だから!トラくんが好きだから!付き合って欲しいです!」
その瞬間、周りの音が消えた気がした。 英の指が触れているからだろうか、その指先を伝って、英の鼓動の速さを直に感じる。
こんな事が今日自分に起こるなんて、誰が予想出来ただろうか。 これっぽっちも予想していない事態にさすがに面食らってしまい、数度まばたきをする。
「あの時、言えなかったから、ちゃんと、言おうって思って」
そうだ。あの日と同じ表情。同じ手の熱さ。真剣な目の色。 あの日言っていた英の好きな奴って、オレなのか。
オレの引きつった顔に気付いたのか、視線に耐え兼ねたように英は真っ赤になった顔を手で覆う。 耳まで真っ赤だから隠れてねーけど。 半ば呆れながら、掴まれていない方の手で頭を掻く。
英が。このオレを、ねえ。
どうにも実感が湧かないが、多分こいつは本気だろう。 なんの冗談だよと笑い飛ばす事も出来た。だけどそうしなかったのは、いつもヘラヘラとしている英が、いつになく真剣な表情をするもんだから、つい悪戯心が芽生えてしまった。
男だとかそういうのはどうでもよかった。こいつが、好きな奴に対してどんな顔を見せるのか。ただ、興味があった。 英がどんな風に化けるのか、それを考えるとなんだか滑稽で口角が上がる。
「いーぜ、別に」 「うん…やっぱだめだよね………って、…えぇ!?トラくん、今なんて、」 「付き合ってやってもいいっつったんだけど」 「い、いいの!?」 「お前から言っといてなんなんだよ。やめるか?」 「や、やだ!やめない!」
ただ、いい暇つぶしくらいにはなるかな、と。 先程見せた真剣な表情とは打って変わって、いつも通りの顔で頬を赤らめながら「よろしくね、トラくん」と英が笑う。 握られたままの腕に少し力が込められた気がした。 「ああ」と小さく生返事をし、心の中ではどうからかってやろう、とそればかり考えていた。
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