「円ってさあ」

ぼくの部屋にあるクッションを抱きしめながら央が徐ろに口を開く。
次の言葉を促すために視線を向けると、テレビを見ていたはずの央がこちらを見ていた。そして、

「キス、したことある?」

はっきりと、そう言った。
聞き間違いだろうかと自分の耳を疑う。魚の事も思い浮かべてみる。いやまさかそんなベタな。

「…………はい?」

央の口からそんな言葉が出てくるなんて。
念のため聞き返してみる。冷静を装ったつもりだが声が裏返ってしまい、失敗したなと心の中でため息を吐いた。
一緒に見ていたテレビドラマの内容に沿った問い掛けでもなく、会話の流れでもなく、脈略もなく突然そんな事を言い出したのだ。

「だーかーらーキス。今までにした事はあるのかって」
「ないですね」
「…そう」

そう答えると、何故だか央の表情が曇る。
一体、どうしたと言うのだ。
ようやく先日自分の気持ちに応えてもらえて、長い片思いにようやく終止符が打たれたというのに。
自分の一方通行ではなく、央は、ぼくの事が好きだ。今なら胸を張って言える。
それなら、好きな人が今までにキスをしていなかったらそれは喜ばしいことじゃないのだろうか。
央の問いの意図するところが分からず頭を捻っていると、間延びした声で「そっかあ、じゃあ」と央が意味ありげに呟いた。
膝を抱え込み、頭を膝に乗せふにゃりとこちらに微笑みかけてくる。

「じゃあ、円は、僕とキスした事覚えてないんだ」
「…は?」
「薄情だなー円。僕の事好きとか言っておきながらさー」
「ええと、」
「ちっちゃい時によくしたのに、円は覚えてないんだ?そんなものかあ…僕のファーストキスだったのに」
「…覚えて…ないですね」
「うーん、じゃあやっぱノーカンかな」

ふふ、とぼくを見て笑う央は、まるで昔のぼくを思い出して重ねているようで、むず痒い気持ちにさせる。

「…覚えてないので、思い出させてください」
「うんうん、覚えてないのは仕方な、…え!?円!?なんで顔近づけてるの!?」
「思い出そうと」
「しなくていいです!」
「大事な思い出じゃないですか」
「ちょ、っと…忘れたくせに、なに言ってるの!」

央の髪に触れると、さらりと指が通り、ぼくを見上げている央の顔が次第に真っ赤に染まっていく。こんな表情をさせてるのは、ぼくなんだ。
指の先に少しだけ力を込めて、央の頭を押さえ、ぐっと近付く。息がかかるほど、睫毛が触れてしまいそうなほど、近く。
ぎゅっと強く目を瞑る央に、愛しさが募る。
…かわいい人だ。
ふ、と軽く唇を重ねると、央のそれはぎゅっとかたく閉ざされ力んでいた。
頬に、鼻の頭に、羽が落ちるように優しくキスをする。

「ま、円、ちょっと待って、なんか、恥ずかし、」
「ぼくだって、心臓壊れそうですよ今」

余裕を見せつけたいのに、気持ちが通じてから初めてするキスに、どうしようもなく鼓動が早くなっていた。
ようやく少し唇を開けてくれたので舌を滑り込ませると、びくりと肩を揺らし、瞳をまあるくさせて動揺する。もっと、もっと、ぼくにだけ、その顔を見せて欲しい。
キスとキスの間にくすくすと笑うと、央が顔を赤くしたまま不満そうに見上げてくる。

「……え、エロい…」
「よく聞こえません」
「僕の思い出が汚れた…」
「そんなに落ち込まないでください」
「もー!円のせいなのに!」
「でも、気持ちよかったでしょう?」
「…っ!」
「図星、ですか」
「…まどかのバカ!エロ魔人!」

央が今にも泣きそうな顔をするから、目尻にも口付けると、涙なんてなかった。

ああそういえば、とふと昔の記憶が蘇る。
昔は、ぼくがこうやって、キスをしてもらっていた。

この英家にいつ来たかなんて、あまりにも小さな時の出来事すぎて覚えてはいないが、昔はよく泣く子供だった。

何が悲しくて泣いていたのか、多分自分でもわかっていなくて、ただ、世界から隔離されてしまったようなそんな感覚を覚えて、それがなんだか、どうしようもない事に思えて、苦しくて、部屋の隅でよく泣いていた。
その度に、央は無邪気な笑顔で寄ってきては、泣いてるぼくの隣に無遠慮に座っては一方的にひたすら話しかけてきた。

無表情でぽろぽろと涙を流すぼくは、央の目にはどう映っていたのだろう。
涙の止め方なんて、誰も教えてくれなかったから、どうすればいいのかわからなかった。
だから、流し続ければいつか枯れるだろうと思った。

『まどか』
『はい、なんでしょう』

ふいに名前を呼ばれ振り向くと、瞼に優しくおりてくる唇の感触に、反射的に瞳を閉じた。
央の唇が目元に触れるたびに、どうしようもない気持ちなど忘れるくらい、別の何かに満たされ、気付けば涙は止まっていた。

『これは…?』
『幸せになるおまじないだよ!』
『おまじない…』

枯らさなくても、涙は止まるのだ。
涙が出る理由も分からなければ、止まる理由も分からなかった。
それでも毎晩飽きもせず涙を流すぼくに、央も毎晩飽きもせずにぼくの涙を小さな口づけで拭ってくれた。

幼い時のそんな記憶が、ふわりと浮かぶ。
あの時は、何故涙が止まったかなんて分からなかった。
そんなの、決まってるじゃないですか。幼い自分に聞かせるように、笑った。
そんな事もわからなかったなんて、本当にお子様だ。

懐古に笑みを漏らす。
後ずさりして逃げようとする央の腰に腕を回し、強く引き寄せた。

「さぁ、ぼくとの思い出のキスはどうでしたか?」
「こ、こんなチューじゃなかったよ!」
「へえ」
「もっとかわいいやつで、…こんなにエッチなやつじゃなかった!それに、円だってあの時はもっとかわいかったし、」
「何を言ってるんですか、今だって十分かわいいです」
「本気で言ってる…?」
「ぼくはいつだって本気ですよ」

央の口の端をぺろりと舐め、涙なんてない目元に再び唇を寄せた。

「幸せになるおまじないです」
「………はっ、え!?わ、忘れたってさっき…!」
「幸せに、なりましたか?」
「…うー…察してください」

「ほんと、円ってバカだ」そう力無い声で呟いて、頭を胸元に擦り寄せもたれ掛かってくる。
顔は見えないけれど、真っ赤な顔をしているのだろう。
それが手に取るように分かって、おかしくて笑う。
そっと抱き締めたら、胸が苦しくなる。
ぼくは今、幸せなんだ。

ぼくはあなたが好きなんです。

もっと、ぼくの気持ちを思い知って欲しい。

今までの分も、これからの分も。
溢れて枯れる事のないこの思いの行先は、永遠に、あなただ。






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