|
柔らかくて真っ白な尻尾をゆるやかに揺らしながら、歩き慣れた道を歩く。 太陽の光をいっぱい浴びてふかふかになった身体は触り心地が抜群で、ボクの自慢なのだ。 まずは菜の花のトンネルを抜ける。 今度は、いつも猫じゃらしで遊んでくれるおばあさんの一軒家の塀に軽々と登り家から家を渡り歩く。 ボクを見た子供がボクを指差しては「ネコだ」「すごい真っ白」「こっち来ないかなあ」と口々に言う。 君たちと遊んであげたいのは山々だけど、ボクは今日行くところがあるんだ。 彼らがどんなに手を伸ばしても背伸びをしても届かないような高いところへと飛び移ると、残念そうな声が聞こえてくる。ごめんね、また今度。
隣のアパート、駐輪場の屋根、そして、お目当てのマンションの非常階段。 マンションのベランダを器用に歩き、ある部屋にたどり着く。 部屋の中はやけに殺風景なのに、ベランダにはいつも鮮やかな花が咲いた鉢植えが置いてあって、これを目印にしていた。 窓の外から覗くと目的の人物がいるのが見える。マドカだ。
マドカはいつも、ボクがこの窓から入れるように少しだけ開けておいてくれる。 勝手知ったるマドカの家だ。我が物顔で窓に手を添えてカラリと開ける。
「おや、また来たんですか」
マドカはマグカップを片手に持ち、ボクに声をかけた。 あのマグカップの中身は「コーヒー」だ。 疲れた顔をしている時のマドカはいつも、あの黒くて苦い飲み物を飲んでいる。 どんな味がするのか気になって、前に一度だけ、ぺろりと舐めてみた。 尻尾まで痺れるような苦味に驚き、マドカの背中に飛び乗ったら爪で引っかいて怪我をさせてしまった事もあった。
マドカの腕がボクに伸びる。ボクを、撫でてくれるのだ。 鼻をツンと上に向けて、手のひらが頭に降りてくるのを待っていると、軽やかなインターホンが部屋の中に響く。 すぐにガチャリとドアが開く音がして、これまた見知った人物が顔を覗かせる。
「円〜、遊びに来たよ〜」 「今日は、訪問者が多い日ですね」
ふうとため息を吐くマドカの顔は少しだけ嬉しそうで、優しくボクの耳あたりに手を当て指の腹で擦った。
「え?なんのこと…あっ、猫ちゃんまた来てる!すっかり懐かれたね〜、円」 「餌にありつけるからうちに来ているだけでしょう」 「そんな事ないと思うけどなあ。それより円、顔色悪いね」 「今立て込んでる仕事があるから来ても相手は出来ないと言っていたはずですよ」 「猫の相手はするのに?」
ボクの話をしているのかな。マドカの足元で尻尾をゆっくりと揺らしていると、ナカバがボクを抱き上げた。 持ち上げられて視界が広がる。マドカの方を見ると、マドカが底の浅いお皿にミルクを注いでいるではないか。 嬉しくて、ぴんと前脚を伸ばしみゃあみゃあと鳴くとマドカの手が伸びてきて、ボクの喉元を撫ぜる。 もっと撫でて欲しくて喉をごろごろと鳴らすけれどいつまで経っても撫でてくれない。 気付いた時には、マドカの手はナカバの頭を撫でていたのだ。 ナカバは顔を少し赤くして、口元をボクの頭に擦り寄せてぐりぐりと押し付けてくる。 どうしたのかな?ナカバの表情が不思議で、ナカバの唇をペロリと舐めた。 ナカバは驚いた顔をして、その後すぐにボクの顔を包み込んで笑う。
「猫ちゃん、くすぐったいよ」 「ミャア」 「ねえねえ円!今ね、猫が僕にキスしてくれたよ」 「あなたの気のせいじゃないですか」 「そんなことないよ。ね〜?」
首を傾げながら、ナカバがボクの顔を覗く。 ナカバの声に合わせて鳴くと、「ほらね」とマドカに笑いかけた。
「落ち込んでたら慰めてくれるところ、円にそっくり」 「落ち込んでるんですか?」 「円が猫にばっかり優しいから、ちょっと、嫉妬」 「…あなたのことだって、ぼくはとびきり甘やかしてると思いますけど」 「んー、そうだねえ」
ヒトの言葉は難しくて、ボクにはよく分からない。 でも、二人がなんだか楽しそうだという事くらいはなんとなく、分かった。 二人の嬉しそうな顔がもっと見たくて顔を上げると、急に目の前が真っ暗になって夜がやってきたのだろうかと錯覚する。 けれど、すぐに、マドカの手がボクの目を覆ったのだと気付いた。 焦りを孕むナカバの声が頭上から降ってくる。
「えっ、ちょっと、まど、」 「少しくらい静かにしてくださいよ」 「だって、…ん」
二人は今、何をしているのだろう。 後ろ脚をばたつかせるとマドカがボクから手を離し世界が明るくなる。 最初に見えたのは、さっきよりももっと顔を真っ赤にしているナカバの顔だった。 くるくると表情が変わるなんて、ヒトって、面白い。
「ぼく以外が央にキスするなんて、ダメですからね」
そう言ってマドカはボクの鼻先をつんと指でつついて、床にミルクの入ったお皿を置いて背中を向けた。 マドカの言葉は、どういう意味だろう?やっぱり、難しい。 ミルクが飲みたくて、じぃとナカバの事を見つめ、前脚をちょこんとナカバの腕に乗せる。 抱きしめているボクの存在をようやく思い出したのか、慌ててボクを床に降ろした。
「おっと…ずっと抱きっぱなしだったね、ごめんごめん」
いいんだよ。そう伝えたくて、ミャアと鳴く。 三日月に細められたボクの目を見て、ナカバが顔を綻ばせ、しゃがみこんで頭をわしゃわしゃと撫でてボクに言う。
「ほんと、円に似てるよ、おまえ」
----------------------------------
マドカが用意してくれたミルクをすっかりと飲み干してしまって、ペロペロと腕を舌で撫で付ける。 そういえば、リビングにいる二人が静かだ。 ご自慢の尻尾を悠々と揺らして光の差し込むリビングへと向かう。 おいしそうな香りが立ち込めるリビング。きっとナカバがごはんを作ったのだろう。 ナカバの料理は世界一なのだと、マドカが得意そうに言っていたのをよく覚えている。 ボクがヒトなら、ナカバはボクにもごはんを作ってくれるのかな。 リビングの真ん中にある大きなソファに、マドカとナカバが横になっていた。
マドカは、眠っているのだろうか?
マドカが疲れた顔をして、とびきり苦いコーヒーを飲む朝は、いつも「徹夜」をした後らしい。 そういう時に限って眠れないのだとマドカがボクに聞かせるように話してくれたことがあった。 ナカバが居ると、マドカは眠れるんだね。 マドカがあまりにも気持ちよさそうな顔をするもんだから、ウズウズとしてくる。 きっとナカバの腕の中は大層居心地がいいに違いない。 ソファにぴょいと飛び乗り、二人の間に頭を潜り込ませると、ナカバが慌てたように声を出す。
「猫ちゃん、シーッ。円を起こしちゃだめだよ」
ナカバが、ボクとマドカを抱え込む方とは逆の手で、ボクの頭を優しく撫ぜた。 ナカバの手は、温かくて優しい。きっとマドカもこの手のひらが大好きなのだろう。 ぴったりとナカバの胸に耳をくっつけると、トクントクンと心臓が優しく鼓動するのが聞こえる。
ああ、なるほど、これはなかなか。
マドカとナカバの香りでいっぱいの腕の中で返事をするようにミャア、と鳴くと、ナカバは嬉しそうに笑った。
|