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「央、ぼくはまだ、返事を聞いていません」
最初に思ったのは、なんの話だっけ?だった。疑問符を浮かべてる僕に呆れたように溜め息を吐き、「本当に薄情な人ですね」と不快を顕に眉を潜める。 心当たりがないわけではないが、どうしたって信じられなかったのだ。
「あれって、本気だったの?」 「冗談であんな事言うとでも思ってるんですか」
相変わらず日和見的考えをするんですねと言われ、まるで責められているように感じて身体が縮こまる。
「央が好きなんです」 「僕だって円が好きだよ」 「そうではなくて。…央、ちゃんと、答えてください。これで、最後にしますから」
最後という言葉に、もうすぐ僕はこの家を出ていくのだなと実感する。季節が巡る速さを嘆く暇さえない。 引越しの準備で、積み上げられたダンボールを見回した。開け放した窓からははらはらと桜が入り込んできて、フローリングを桃色に染め上げている。
このやりとりを、もう何度繰り返したかわからなかった。 耳タコというわけではないが、「好きです」と言われ「僕も好きだよ」と返すと円は目に見えて不機嫌そうに唇を尖らせ押し黙ってしまうのが常であった。このやりとりも、どうやら今日で、終わりらしい。
淡い光を放つ澄んだ蛍石のような瞳がじっと僕だけを見つめる。その瞳の中にはたじろいだ様子の情けない僕が映っていて、思わず目をそらした。
「あ、の、えっと」
必要以上に僕の事を立てて円の世界が極端に狭く僕しか見れなかった時期も確かにあった。やがてたくさんの人と交流をし、世界が広がってもなお、円は、僕がいいと言っている。円は、僕が好きなんだ。つまりそれは、そういう意味で。
円の言う「好き」の意味にようやく気付いて、全身の血液が沸騰したように一気に身体が熱くなる。悟られないようにどうにか誤魔化したくて、胸のあたりで指を組んで弄ぶ。こちらを射抜くように真っ直ぐな円の視線は、どんな些細な動作すら見逃してくれなさそうで萎縮してしまう。円は、本気なんだ。
「ごめん」
全身から汗が噴き出し冷えていく感覚を覚える。乾いた喉に声が貼り付いたようで、なかなか声が出てくれず絞り出した言葉は掠れていた。 僕は、円のお兄ちゃんでいなきゃ、いけないんだから。
「そうですか…。わかりました。準備を邪魔してすみません」
そう言って円は僕の横をすり抜け背を向けて歩き出す。
風に吹かれるとふわりと軽やかにゆらゆらと揺れ、床を柔らかくすべる桜色の花びらを目で追う。
ただ呆然と立ち尽くし、自問自答してみる。 …僕のこの答えは間違っているだろうか。
円が僕の事を兄であると盲信する事で家族としての繋がりを持とうとしていたのは、僕も、円自身も分かっていた。 周りの人たちはそれを「変わっている」と思っていたかもしれない。 だけど、僕の浅はかな考えに気付いた人は、はたしているのだろうか。
円が兄として認めてくれるから、僕はここにいてもいいんだって思えた。 だから僕は「兄」であろうとした。そうすれば、それが僕の存在する意味になる。
僕はただ、「円の兄」でなくなることが怖かったんだ。
これから先、柔らかくて、お花みたいに可愛くて、甘い香りのする砂糖菓子のような女の子が円の心を解き寄り添うのだろうか。 そんなことになったら、僕はきっと、すごく嫉妬してしまう。
円の幸せを願うふりをして、僕が一番それを望んでいないなんて。 円の隣は、僕がいいと思ってしまうなんて。
恋の話を囁く人たちはみんなふわふわと浮ついた様子で、この世での幸福を全て知っているかのようだった。 だからきっと、僕自身が恋を知る時も、ドキドキと鼓動を打つ胸がなんだかくすぐったくて、嬉しくて、優しい気持ちでいっぱいになるような、幸せな気分になるんだろうなあと想像していた。
なんだ、思っていたのと、全然違うじゃないか。 目頭が熱くなってきて、自分から漏れる息も心なしか熱を帯びている気がした。 涙が出そうな程切ないし、まだ見ぬ円の恋人を思い嫉妬心を抱いてぎゅうぎゅうと胸が締め付けられて、痛いし、苦しい。 見つめられれば火が出そうな位恥ずかしくなり、心臓がうるさく鳴っている。 こんな風にドキドキを毎日感じていたら、きっと壊れてしまうだろう。
だけど、それ以上に。
朝目が覚めたとき、夜眠りに落ちるそのときに、円がいないなんて。 そんなのは、嫌だ。
「円、円。ごめん、行かないで。待って」
踵を返して僕に背を向けて歩く円を引き止めたくて、両手で服を引っ張る。つんのめった円が振り返り、呆れた顔で僕を見下ろす。ああ、いつもの円の顔だ。
「そんなに泣いてどうしたんですか。泣きたいのはこっちですよ」 「ううう」
はらはらと涙が溢れてきて、少しざらついた指の腹で円がそれをぐいと拭う。 ぎゅうと瞑っていた目を開けると向き合った円がいて、呆れた表情にいとおしいものでも見るかのような優しさが滲んでいて、僕はこんなにも熱い視線を受けていたのか、と頬が火照るのを感じた。
「なにか言いたい事でもあるっていうんですか」 「ある、まだ、伝えてない事がいっぱい、ある」
離すまいと力強く握っていた円の袖に皺が深く刻まれている。 一度払ってしまった手を掴むなんて、調子が良すぎるのかもしれない。だけど、もう絶対に離したくない。もう片方の手で自分の目元を擦った。 自分の気持ちを言葉にするのって、すごく、胸が痛くなるんだ。その痛みに、また涙が出そうになる。 言葉を紡ごうとする唇が震え、一度きゅっと噛んで、また開いた。
「す…き…なんだと、思う、僕も」
せっかく止まった涙がぽろりとこぼれるのと同時に、するりと流れ出るように唇が動いて言の葉を紡ぐ。甘すぎる響きに耐え切れず耳を塞ぎたくなる。
「なか、」 「ごっごめん!その、今、僕の顔、見ないで」
実際塞いだのは、僕の耳ではなくて円の目なのだけれど。 びっくりすくらい赤くなっているだろう顔を見られたくなくて、ぎゅっと目を瞑り俯き、咄嗟に円の双眸を手で覆った。
「央」
なんて、優しい声なんだろう。円は今、とびきり甘い顔をしているに違いない。 名前を呼ばれただけで、泣きそうになる。 指先で僕の手の甲に触れ、弱い力で握る。その指先は小さく震えていた。緊張してるのは僕だけじゃないんだ。 安心して力が抜け、うっすらと目を開けて覗き込むように円を見ると、やはり、声音と違わぬ優しい表情をしていた。薄い紫色の瞳が心なしか涙に濡れているようで、きゅーっと胸が締め付けられる。
「央、わかりますか」 「…なに、」
触れていただけの指が、僕の手を握り、包み込んだ。それを自分の胸へと運んで押し当てた。
「ぼくの心臓の音、わかりますか。こんなにも、喜びに打ち震えているんです」
とくんとくんと脈打つ音が指先を通して伝わってくる。それが嬉しくて、感情が溢れそうになる。
「央が、好きで、愛しくて、ぼくは央に触れて初めて、生を実感するんです」 「まどか」 「央が隣に居てくれるから、ぼくは、生きている事を許される。あなたと生きたいと、ぼくの心臓は強く鼓動を刻むんです」
円の目尻が少し赤い。今にも泣き出しそうな顔で、声で、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。 そんな風に言うなんて、円はずるい。
いつまでも、僕がこの手を引いて歩いていくのだと思っていた。 それも今日までだ。 兄としてではなく、円が僕を一人の存在として認めてくれたから。 これからは、隣で、並んで一緒に歩いていこう。同じ速度で、同じものを見ながら、たくさんの事を共有しよう。
「きったない泣き顔ですね」 「それ、告白した相手に言う言葉じゃないと思う」 「ええそうですね、でもそんな不細工な顔も可愛いと思ってしまうんですから、もうどうしようもないんでしょうね」 「へ」
円を見上げようとして、失敗に終わる。瞼にキスを落とされ、反射的にぎゅっと目を瞑ってしまったからだ。唇の感触が消え、ぱちくりと目を開き何度か瞬きをすると、一息置いて円の顔がだんだんと近付いてくる。あれ?もしかしてこれって。
「むぐ」 「ま、まだ、そういうのは早いんじゃないかな!?」
それより先の行為を拒むように、両手で円の口元を押さえた。掠めてしまった円の唇の感触に動揺してパッとすぐに離したら、逃げるその指は円に掴まれる。
「それじゃあ今はこれだけで我慢してあげますよ」
円の唇に触れていた指先をぺろりと舐められ、熱が集中し熱くなる。だめだ、やっぱり心臓がどうにかなって死んでしまうかもしれない。
「ちょっ、円、今はって、」
あっさりと引いていった円の背中を追うと、襟から覗く首筋や耳が目に入る。いつもは白いその部分が今は真っ赤に染まっているではないか。堪えきれず吹き出してしまうと、円が不機嫌そうな顔で振り向いた。
「なんですか」 「ぷっ…だって、円…いや、なんでもない…ふふ、」
突然大人びた円に、もしかしたら置いていかれるのかもしれないと戸惑いを感じていた。けれど、やっぱり円は円だ。そう思うとくすくすと笑いが漏れ、円は一層居心地がよくなさそうに眉を釣り上げた。
(そんな赤い顔で凄まれてもなあ)
急いで大人にならなくてもいいよ。ゆっくりでいい。あとどれくらい一緒にいられるかはわからない。それでも、限りある時間を、円と共に過ごしたい。
可愛い弟で、大切な家族で、そして、かけがえのない英円へ。
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