夏の話 3


外からパトカーの狂ったような音を聞いた。なにもしていないのに、私の醜さを突き止められたんじゃないかと、そのために捕まってしまうんじゃないかとひやひやした。パトカーはそのうち遠くに溶けて行き、背中には汗が伝っていた。

「クーラーつけていい?」
「いいよ。でも28度までね」

のれん越しに会話して、窓を閉めてからエアコンをつける。このアパートの部屋くらいならすぐに涼しくなる。窓を閉めたせいで蝉の声がさっきより聞こえなくなった。怖くなって窓を開けた。蝉は元気に鳴いていて、なぜかほっとした。

「窓閉めなよ。せっかくクーラーつけてるのに」

おぼんにそうめんとお味噌汁とお刺身が乗ってきた。お味噌汁にはやっぱりねぎが入っていて、そうめんに入っている氷はすでにちょっと溶けていた。お刺身はきっとスーパーの半額物だ。
窓をもう一度閉めてテーブルに座った。いただきますと唱えるとお箸がいつもと違うことに気付いた。茶色で持ち手が黒のボーダーの、長めのお箸だ。

「これ買ったの?」
「こないだ出かけたときに大塚さんが買ってくれたの。里恵ちゃんにって」
「なんでお箸?」
「駅前の小物屋さんで見てて、可愛いなぁって言ったら買ってくれたのよ」

そのお箸でそうめんをほぐしてめんつゆに入れる。使い心地は悪くない。でも、前まで使っていたお箸が恋しくなった。百均で買ったやつだし、ぼろぼろになってはいたけど、それでも思い入れがあった。母のお箸も新しかった。それも大塚さんだろうか。私が使っていたものも母の使っていたものも、捨てられたんだろうか。母は、なんの迷いもなく捨てたんだろうか。
垂れ目の黒目がちな目はテレビのパンダに向いていた。テレビに目を奪われながら咀嚼する様は子供のようでおかしかった。

「3人で会うとき動物園に行くのもいいね。あ、でも里恵ちゃんはもう動物園なんて嫌かな。高校生にもなって親と動物園なんて嫌よね」

一人で納得とすると刺身醤油をお刺身に直接かける。ピンクのサーモンが似た色をしている唇に向かってく。

「その口紅とチークの色は派手なんじゃない」
「そう?似合わない?」
「年相応ではない」

うーんと唸る。童顔な彼女の顔に似合ってないことはないが、それはなんとなく言わなかった。

「じゃあ、どんな色ならいいの」
「もっと落ち着いた色。そういうピンクは若すぎるよ」
「そうかな…じゃあこの口紅とチークあげるよ、もう使わないから」
「口紅もチークも使わないからいいよ」
「じゃあ、捨てるしかないかな」

喉を流れて行くそうめんが止まった気がした。どろどろとしているなにかがこみ上げてきそうだ。さっきまでそうめんを食べている意識があったのに今はへどろを食べさせられている気分になった。
急に押し黙った私をさほど気にせず、次はハムスターを黒目に写す。

「ハムスターくらいならここでも飼えるよね。かわいいなぁ、飼おうかな」

かわいくなくなったら捨てるの、と言いそうになった。言葉が腹の中で暴れている。この言葉を吐き捨てたらほかの言葉も次々と出てきそうだ。でもそうしたら楽になるのだろうか。いっそのこと、一番の禁句をいってしまったら私は変わるんだろうか。私は、母は、どうなるんだろうか。不安定ながら保ってきた今までのもの全部崩れるんだろうか。


夜中にパトカーのサイレンで目が覚めた。実際には鳴っていなかった。夢か幻聴か、どちらにしろ似たようなものだ。丸くなってタオルケットを頭まで被さると体はすぐに熱気で火照った。
汗だくになって見る夢は、ろくなもんじゃない。
タオルケットを蹴飛ばすと窓を全開にした。ふわりと入ってきた風が汗を冷やしてくれた。すると頭の中心も冷めてきて一つの言葉が頭に浮かんだ。

(私も捨てる?)

お箸みたいに、口紅とチークみたいに、お父さんみたいに。
母が父を捨てたのだと、なんとなく分かっていた。あの人は「使わない」「代わりがある」と思ったら捨てる人なのだ。
もし、私の代わりが出てきたら?私より素直で慕って笑って可愛い子が現れたら?

いてもたってもいられなくなって、母の寝ている部屋に行った。母は布団の端っこに丸まって寝ていた。


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