其の一


自由な恋なんて、出来ない時代

そんな時代が私は嫌いでした。



「お嬢さんは、本がお好きなんですね」

「ええ。本は、沢山の夢をみることが出来ますもの。」


夢ね……。とくすくす笑うのは、書生の坂田さん。
輝くような銀色の髪と紅い瞳を持った彼は、異人の血を引いているらしいのです。詳しくは解らないけれど、お父様から其うお聞きました。

「そういう、坂田さんも本がお好きなんでしょう?」

「お嬢さんみたいに、夢を持っては読みませんが……教養のつもりで読むんですよ、俺は」

彼は、医者を目指して帝大で勉学に励んで居る秀才なお方なのです。
坂田さんは、書斎にある大きな本棚に手を伸ばして、一冊の本を手に取りました。


「お嬢さんは、これはお読みになられましたか?」

そうおっしゃって私に差し出したのは、ドストエフスキィの『罪と罰』でした。


「いいえ。」

「何故、お読みにならないのです?」

「だって…其の本、堅苦しい感じがして、私はどうも好きになれないの」

私は、ハイネやゲェテの詩集、シェイクスピアのお話が好きなのです。

「俺は結構、好きな部類なのに…お嬢さんは、好みに煩いお人だ」

坂田さんは、くっと声を噛み殺して笑いました。

「世の中には、凡人と非凡人が居る。非凡人は勝手に法律を踏み越える権利を持っている…どうです?名言でしょう?」


坂田さんは、ソファに腰掛けて、長い脚を組んで『罪と罰』のを一節を声に出して読みました。
よく通る澄んだ低い声。私は彼の其の声が好きです。

「………。ヒュウマニズムなんて、今の日本では通じませんよ」


私は、薄く笑いました。自分は可愛くない女だと知っています。
それでも、自由のない籠に閉じ込められて居る私は、ドストエフスキィのように現実的なお話が余り好きではないのです。せめて、本の中では自由に空想したいのです。

自由な恋がしたいのです。
私は、書斎に置かれている洋琴(ピアノ)の蓋を開けて、ポロンポロンと鍵盤を鳴らしたました。

「……くっ」

坂田さんが声を殺して笑っているのが解りました。

「人の演奏で笑うなんて失礼だわ」

憤慨だと私は肩を振るわせる坂田さんを睨みました。

「すみません、あまりにも調子の外れた音だったので」

確かに、私は洋琴は駄目だしお裁縫も駄目な、良家の娘に相応しくない女ですが、流石に腹が立って「でしたら、貴方が弾けばよろしくて?」と皮肉めいて云いました。

「俺で良ければ」

本を閉じて、立ち上がり私の傍まで来る坂田さんに驚きました。
だって、きっと洋琴なんて弾けないであろうと思ってましたから。


ポロンポロン

坂田さんの指は綺麗な旋律を奏でました。

「まぁ、ベェトォベンの『テンペスト』だわ。坂田さん、お上手なのね」

「義父に少し教わった程度ですが…」

鍵盤を叩く、坂田さんの指は男の人にしてはとても綺麗でした。
周りからは、異国被れと囁かれる容貌ですが、
私はとても綺麗だと思います。
私は、そんなに恋心を抱いていました。
でも、彼は書生さん。

許されない恋なので、誰にも……。
勿論、彼にも、打ち明けるつもりはありません。


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