成長 | ナノ
 

おいしそうだなと思って口いっぱいに頬ばった。その感触はいつまで噛んでも上あごにまとわりつき粉っぽい。おいしくなかった、と悲しくなって吐き出す。爛漫の花弁がシーツの上に飛び散った。ぺっとつばを吐いても、まだ口の中はじゃらじゃらと異物の感触がする、まずい。うつむき、うええ、と舌を伸ばして唾液をリノリウムの床にぽつぽつと落として排出しようとするが、胸あたりでわだかまる粉の感触が消える前に、きゅっきゅ、と小さな足音を立てて、小さな靴が狭まった視界に入ってきた。なんだろう、と顔を上げる。しょぼしょぼと瞬きすると、ふくらはぎ、太もものあたりが見えた。人間だ。細くて小さい。目の奥がシパシパと痛んできたので、あわてて視線を下ろす。再び靴が見えた。ゴム靴。白い靴。読めないが、甲のあたりに黒字で何かが書かれている。一歩、靴が進む、こちらにやってきた。

「おじいちゃん、お見舞いのお花を食べちゃ駄目だよ」

小さな高い声、そんな言葉と共に小さな両手で支えられたミネラルウォーターのペットボトルが口に突っ込まれる。ごほごほと噎せると、気持ちの悪い花粉の感触は咽喉から消えたが、代わりに涙と鼻水がこぼれた。何をする。きっと睨みつける。小さな男の子が一人、しれっとした顔をして立っていた。はて、見覚えがあるような、無いような。眉間に皺を寄せているとだんだんそのあたりが疲れてきて、どうしてこんな小さな男の子を睨んでいるのかわからなくなってきた。男の子が口を開く。

「おじいちゃん、そんなことばっかりするから、いつまでも退院できないんだよ。って、ママが言ってた」

ママってなんだい、と聞こうとして、ママって誰だいとなんとか言いなおせた。はあ、と小さなため息。ママはママだよ、僕のママだよ、と小さくて高い声は言う。ママ、まま、と口の中で転がしてみて、馴染みの無い言葉だなあと思った。はて、自分の周りでそんな言葉を使う人間はどのくらい居たっけ。いや、自分の周りの人間ってなんだっけ、どんなのだったっけ、首をかしげると容易に耳鳴りがして、うう気持ち悪いと口を押さえる。一体自分は、何をしてきた人間なんだっけ。頭の中にはうっすらとしたもやが男の子の口の動きに合わせてゆらゆらと動き、判然としない。誰かもよくわからないその小さな男の子に「おじいちゃん、大丈夫?」ときかれた気がしたが、それさえも耳鳴りを増進させるだけだった。小さな声は歪曲して耳の奥から脳を揺らす。気持ち悪い、と小さく呟けたか、それも無理だったのか。
そういえば自分はどんな人間だったのだろうか。ついに体は倒れ、なんだか柔らかいような硬いようなよくわからない白い塊に背中を預けた。回想してみても出てくるのは意味を成さない言葉だったり三つ穴があるだけの誰かの顔だったりなんだか丸いものだったりして、はてな、はてな、とぶつぶつ囁いていた。小さくて高い声はいつの間にか消えていた。目を開けないから、さっき居た誰かもわからない男の子が今どこにいるのかもわからない。そんなことはどうだっていい。ああ、声がする。脳を侵す、歪んだ声がする。
キャプテン、と呼ばれていた気がしてきた。
先生、と呼ばれていたような気もしてくる。
お父さん、と呼ばれた事もあったかもしれない。
大臣、と呼ばれたことがあった気がする。
不思議なもので、そんな風に性差もわからない声ともつかない耳鳴りに任せていると、どうも自分は今までいろんなことをしてきたような気もするし。
何もできてなかったような気もするのだ。
たくさんの人を嘆かせ、怒らせ、笑わせてきたような気もすれば、なにひとつ感情を揺さぶることが出来なかった気もする。何かを作って何かを成し遂げた覚えもある一方で、何かを壊して広大な虚無感に襲われた気もしている。
私はどんな人間だったのでしょう。
きっとちっぽけな男だったのでしょう。
だんだん、あの男の子こそが己なのではないかと思えてきた。煩悶する男を前に、冷然と立ち、冷淡に口を開き、冷血に水を流し込み、冷徹に見下し、冷酷に哀れむ少年。私は一体なんだったのでしょう、私は一体何をしたのでしょう、私は一体誰なんでしょう。耳を澄まして探しても聞こえてくる声に答えは無く、ああ、ああ、と弛緩した口からよだれと一緒に希求をこめた。ひりつく腕を伸ばした。耳の上、頭の上ではつかめない。虚空を掻いた、やせこけた腕。
己の腕じゃない冷たいものが手首を掴んだ。

「情けないですよ、赤司君」

瞬間的に、音叉の音を聞いた。
いや、もっと別の何かだったかもしれない。
もっと甲高くて、激しくて、耳障りで、ひどく馴染んだ音だ。なんだった。いや。違う。そんなことは、そうだ、本当に、そんなことはどうだっていいのだ。狭まった視界が急速に開く。色も識別できなかった器官が急激に蠕動する。急劇と焦点が定まる。
網膜は一人の男の像をうつしていた。
懐かしくて、震えるくらいに愛らしい、焦がれた男の姿が、にょにょりと視界で動いていたのだ。

「それでも僕らの統率者だった男ですか。それでも僕の足を奪った男ですか。それでも僕からバスケを奪った男ですか。情けない。情けないですよ、赤司君」

ごろりと首を横に向けた。目に入った白い靴。上履き? 黒い字で、黒子、と決してうまくは無いが丁寧な字で、書かれてあった。
喉が鳴る。花の粉も、水の甘みも無い。ただ飲み込んだ。何かを嚥下した。まさか、こいつは。
まさかではなかった。手首をつかまれたまま、ただ、見上げた。腹を通り、細い胸、首を通過して、その瞳に行き当たった。
その強烈な光を、なんと言い表そう。
およそ40年ぶりに見た鮮烈な輝きは、危うく視界を奪いそうなほど燦然と輝いていた。影の癖に。お前など、影だったくせに!

「赤司君。僕は、足に重大な不備を負いました。その結果、僕はバスケットが出来なくなった。でも、僕は誰も恨まなかった。心から、恨もうとも思わなかった。黄瀬君も緑間君も青峰くんも桃井さんも、泣きながら謝ってくれましたけど、正直泣かれるほうが困るというか、僕としては何で泣かれるのかわからなかったといいますか。あ、紫原君は泣きも謝りもしませんでしたね、彼は、君の言うことなら何でもききますから。まあそれは些事です。僕は知ってました、一体何が、僕の足を奪ったのか。僕がバスケをすることが出来なくなった理由を。君でしょう。君が彼らを唆したんでしょう、なにせ僕は一度、君たちを捨てましたから。そのことを巧みに突いたんでしょう。僕からバスケットがなくなれば、もはや彼らから離れることはないだとか、そんな甘言を。馬鹿馬鹿しい、彼らは結局、自分たちから離れていった。良心の呵責で、耐え切れずに、僕からも、バスケからも、離れてしまった。僕は何より、それが許しがたかった。それが一番、許せなかった。僕は君を許せないんですよ、赤司くん。どうしてもね。ああ、それと、覚えていませんか? 君が、僕の遺伝子をほしがったことを。僕はよく覚えていますよ。テツヤの子どもがほしい、お前はもう潰れちゃったからね、慈悲からのものとさえ錯覚できそうなほど完璧な笑みを形どった若かりし君の事をね。僕の心境、わからないでしょう、今でも。僕だってうまくは説明できません。ただ、誰が君などに、と噴出しそうになる激情すべてを押し殺して呟いたことははっきりと覚えていますよ。どうせ君は、忘れているのでしょうね、情けないですね、ざまぁないですね、本当に、くだらないですよ。君は。君の入院代、税金で賄われてるんですよ。くだらない。総理大臣だったころの名残がどうやらまだ効いているようです、でも、君の為政は本当に最悪でしたよ。僕はずっと見てましたが、もう同級生だったなんてことが恥ずかしくなるくらいに。君が上げた消費税が最近、ようやく20パーセント戻ったみたいですけどね。僕はさっさと死ねて、何よりでした。では」

では、なんて言葉一つで。
言うだけ言って、言いたいことだけ言って、ただでさえ希薄だった気配が掻き消えた。いってしまった。米寿も間近、死期が迫っているだろうこの身を連れて行きもしないで。どうしてお前は死んでからも思い通りにならない、と脆くなった歯肉で歯噛みした。しかし、すぐに合点がいく。
そうか迎えに来たわけがなかったな。
覚えているよ、思い出したよ。お前の遺伝子ほしさに、30くらいの頃か、お前の精子を奪った。一服盛ったんだったか、とにかく扱いたんだったか、誰かを雇ったのだったか自ら犯しに行ったのかまではさっぱり忘れてしまったが、とにかく入手した。出来ることならお前のクローンを作りたかった。けれど時期を窺っているうちに、もっといい方法を思いついた。女を産ませておいてよかったと、初めて思った。あの男と、自分の遺伝子を掛け合わせたら、どんなにかすばらしい人間が出来るのだろうと、やつの死後あれほど胸を高鳴らせたことも無い。
なんて意地の悪いやつだろう。出てくるだけ出てきて、こちらの思考を正常に戻した上で、無常に消えた。何かが胸に迫ってきた。まぶたに力をこめる。先ほど飲み込んだ、何かと同じだ。吐き出したくなくて、なんの触感も伝えてこない腕を、ぱたりと下ろした。あの男の名前をそらんじる。

「テツヤ……」
「なに、おじいちゃん」

再び目を開けたとき、小さくて高い声を上げるとともに覗き込んできたのは、あの男の子だった。
お前じゃない。と言いかけて口をつぐむ。こいつの名前は確かにてつやだ。すっかり存在を失念していたが、彼はずっとそこにいたのだろう。
そうだった。お前の名前は哲也だ。私がつけた名だ。娘夫婦が授かった男の子。高学歴の夫ではなく、親子ほども歳の離れた男の種を宿した中年の女が産んだ男の子。
産まれて10年も経過したというのに、とても口にミネラルウォーターのペットボトルを突っ込めるような顔をしていない。あの男のように気を抜くとすぐに消えてなくなるような希薄さも持ち合わせていない三流品だ。だが、その意志の強そうな瞳だけは、あの男の名残があった。

「おじいちゃん、元気になったの?」
「そんなくだらない質問はするな。殺すぞ」

目をぱちくりと瞬かせる彼にも私にも似ていない愛しい出来損ないの頭を、ただただ優しく撫でてやった。



赤司86歳。
黒子享年48歳。








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