かむあぶ | ナノ
 



「あ、阿伏兎、」「これだろ」「さんきゅ」
とか。
「ねえ、阿伏」「ほらよ」
「ありがと。あ。阿」「ほれ」
「あ」「ん」
とか、まあ。
そういうやり取りを経て日ごろ俺は目当ての書類だったり入れたてのお茶だったり報告書の素案だったり今日着ていく服だったりを阿伏兎に用意してもらっていたのだが、ある日ふと、「あれ俺このままじゃ駄目人間じゃね?」と開眼したのであった。食うことと闘うことに関しては誰にも譲る気はないが、いつまでもそんな幼いことを言っても許される歳だと、俺は一体いつの間に慢心していたのだろう。4月1日午前7時40分、ベッドの上で俺は開眼したのである。いや、起床的な意味ではなくて。
白髪M字ハゲ親父のポジションを押し付けられたと身しては、ぼちぼち自覚とかそういうのを芽生えさせねばならないのではないだろうか。いいか、最近実年齢が発覚したが俺に比べて阿伏兎は見た目よりはマシとはいえオッサンだ、32歳だ、しかも割りと生きる欲求が少ない。多分俺より早く死ぬ。なんか俺とか同族をかばってあっけなく死にそうじゃないか。一生居てくれるなんて錯覚を他者に求めてはならない、部下になら尚のこと。ましてや我らは戦闘無くては生きられない血の一族夜兎、畳の上で大往生ということはありえないのだ。
奴がいなくなってから、途方にくれるような惨めな思いはしたくは無い、ゆえに、もっと自立しなければならないのではないか――俺はそう開眼したのである。「あ」と「ん」で会話が成立するとかどこの夫婦だよ。うちの両親はしてなかったけど。決めた。俺は今日から、阿伏兎の世話にはならない! いくら奴が春雨第七師団の艦で俺の次に偉い人間だとしても、わざわざ部下に手出しさせない! 自分のことは自分でやる! 阿伏兎を利用、及び、阿伏兎に依存したりしない! 宣誓! 俺は久しぶりに家出を敢行した若いときの気持ちを思い出した。あのときの俺は燃えていた。あのときの俺は親の力を頼らず自分だけの力で社会の中で生きていこうとして、春雨の駐屯地に赴いたものだった。
だから今日からは、なんだか仕事も面倒だし手持ち無沙汰で3DSが欲しいなあとか思っても阿伏兎にアイコンタクトなど出さずに自ら立ち上がり引き出しの中に乱雑に閉まっている銀色の端末機械を探したりするし、長い棒がいつまでも来なくてL型やらト型のブロックをかわすのにも一回一回阿伏兎へバトンタッチなど求めないし、勢い余って十字ボタンに指をめり込まして貫通したりしても阿伏兎に泣きついたりせずに、自分で小売店に連絡して新しいハードを20個くらいストックするのだった。阿伏兎はアイコンタクトもしていないというのに俺が左指をめきょっという音と共にテトリスをブラックアウトさせた瞬間電話をかけようとしていたが、いったん電話線を引っこ抜いたうえで俺が欠けた。ちゃんと注文した、手っ取り早いからって部下たちのものを取り上げることもしないのだ。俺は阿伏兎の手を借りなくとも、しっかりしているのだ。受話器を本体に戻し、仁王立ちしながら呵呵大笑した。阿伏兎がぽんと肩に手を置いてきた。

「で、なにがあったんだ?」

阿伏兎に首根っこをつかまれ医務室に無理やり搬送されて診察台の上でむくれる俺に、阿伏兎は諭すような口調といつもどおりのだるそうな半眼でたずねてきた。なにこれ?

「なにがって、なにが? べつに、なんにもないけど」
「自覚症状が無い、のか……?」

息を呑まれた。心なしか顔面も蒼白になられた。どうして心配されなくてはいけないのだろうか、俺は自立できる男になりたいだけなのだ。
俺は察しの悪い阿伏兎に説いた。俺はね、自分の足で立てる男になるんだ、お前の力なんかもう必要ないくらいの男になるのだ。切々と説明してやると、要所要所に相槌を打っていた阿伏兎がどんどんどんどん妙な顔をした。

「確認しとくが、エイプリルフールではないんだな?」
「え何それ」
「その自立ってのは、いずれ俺が居なくなってもいいように?」
「うん」
「ははあ、なるほど」

薬品のにおいが充満する白い部屋の中、なるほどなあと何度も阿伏兎はうなずいて、なんだこいつやっぱり俺がしっかりしないといけないと決意を新たにした。もしかして阿伏兎のほうは結構好きで俺の世話を焼いていたのかなあ、阿伏兎もさっさと俺離れするといいよ、と漫然と言おうとしたのだが、そのとき。
阿伏兎は独り語ちたのだ。

「でお前は、そうやって俺のことをどんどん必要とせずにいって、どうでもいい存在にして、いつ死ぬかもわからない俺をさっさと忘れるのね」

「え?」
「お前は愛を知らない男だねえ」
「え?」

ぽん、と今度は阿伏兎の節くれだつ手は頭の上。一瞬さらりと髪を撫でられた気もするが、すぐに離れた。阿伏兎自体、浮かべる笑みがいつもよりも老けて見えて、だけどお前本当に32歳かよと言いたくなる。「お前は何歳だっけ?」と問われたから「17だけど……」と答える。「ほら、まだ17だ。あのな神威、いや団長。俺だって愛を悟ったこともあるよ」、とオッサンは語る。

「だけど俺が悟ったのなんてたった7年前、25のときだぜ。悟りに歳は関係ないとはいえ、お前はもうちょっと周り見て、見聞広げてからでも遅くはねえよ」

阿伏兎が愛を悟ったというのが、10歳の俺が春雨のたまり場で爆風に巻き込まれて死に掛けていたときと符合してなんとなく俺は、阿伏兎から「愛」されているのだなあと思ったのだが、そもそも俺は今朝、何のために自立したいと思うようになったのだったっけ。別に阿伏兎を忘れたいわけではない。そんなことじゃない。ただ、単に、阿伏兎が居なくなったあとの自分というのが、ひどく脆弱で、魂の潤いを一心に求められるような高潔な男とは程遠いなあと、なんとなく察してしまっただけなのだ。俺は俺のために生きなければならない。阿伏兎の存在の有無如きで人生を左右されてはならない、と、そう考えて。
でもそうか、俺は阿伏兎に長生きして欲しかったのか、と今更ながら気づいた。








[戻る]


[top]