イザシズ | ナノ
 

「もう死ぬ死んじゃうギブギブギブ」
「ああ? 情けねえ、男だろうが、何情けないこと言ってやがる。まだゆるさねえぞ」
「いやああ、男女差別反対絶対反対」

 とうとう机に突っ伏し悲痛な声を上げた臨也は、奇声を発しそうになる口を押さえると涙目で、金髪の男を見上げた。年上で赤い眼鏡がよく似合う可愛い系女性が好みである静雄にとってその条件の何一つも満たさない相手の上目遣いなど見せられても苛立ちこそすれ絆されるということは一切なく、臨也がかたく塞ぐ手を規格外の力に物を言わせてはがし、ついでに食いしばられた歯へ指を押し、口をこじ開けようとしてくる。自分自身があれは化け物だと評する相手に抗うことはムダこれ以上は俺の素敵な歯が折れると理解し、臨也はそのまま後ろへゆっくりと倒れていった。静雄のアパートの年季の入った畳に、黒髪が広がる。
 寿司は大トロ、チョコレートはゴディヴァ、肉の部位は勿論サーロインのシャトーブリアン。
 なーんてスカしてはみても所詮折原臨也は庶民の生まれ庶民の育ちで、本当に舌に馴染むのは回転寿司屋のネギトロだったりチロルチョコのヌガー味だったりするのである。臨也は自称「違いのわかる男」を気取っているが、わかるのは値札の、高いか安いかの違いであってうまいかまずいかはこの際関係なのであった。好きな部位はサーロインだとかいっても、実際のところはバイキング食べ放題のもので十分なのである。いや、あるじゃん。生ハムうまいよねって思ってはいるけど最後の晩餐に食べたいのは雪印の4パック280円のお徳用ハムだってこと、あるじゃん。臨也は生来旺盛だった好奇心につき動かされるままあちこちに首を突っ込み足を運んで収集したおかげで食の知識も薀蓄も含蓄も豊富に兼ね備え精通しているが、ぶっちゃけ激安スーパーのタイムセール品で作った合い挽きハンバーグのほうが、ミシュラン推奨レストランで肉料理のメインに出されるA5ランク肉で作られたそれより舌に合うのだった。
 新宿に名高き情報屋折原臨也の趣味嗜好に対して関心のある人間は――まあいないとはいわないが、それにつき合うのはその中の誰でもなく、平和島静雄である。
 畳の上で大の字になった臨也が、シミだらけの天井に向かって吼えた。

「違うの、俺は、たくさんの種類のものを、ちょこっとずつ食べたいの!」
「女子か」
「男の料理だかなんだか知らないけど、どこの的屋かと思うほど大量に作ったから揚げをひたすら朝昼晩消化してゆくだけの作業にはもう、飽きたの!」
「うるせえ恵んでもらってる自覚を持ってキロ1850円の鶏肉様と俺に感謝し咀嚼しろ」
「なんで業務スーパーで大人買いしちゃうのおおおシズちゃん馬鹿あああ絶対馬鹿ー!!」

 箸をおき、調理している最中も離すことのなかったタバコに再び手を伸ばす静雄は、「近所迷惑だノミ」と新年会の粗品進呈でもらったという掛け時計を見やりながら冷ややかに吐き捨てた。
 どうして池袋住民誰もがご存知、旧知にして犬猿たるこの二人が、片方のアパートの食卓でのほほんとから揚げを囲んでいるのか。 
 いつだったか、好みの女性だけではなく、甘味も辛味も判別できないほどの味覚音痴であることがとっくにばれている静雄の家に、ある晩臨也が大量の缶詰が入った袋を持ってきたことが原因だ。
 仕事帰りで肉体はともかく慢性的な精神の疲れを静雄が持って帰ってきたら、何よりも静雄を疲れさせ、激昂させる男がしれっとした顔で座っていたのであった。
 臨也はサンタクロースが抱えるほど膨らんだずた袋を顎で指し、これね懸賞で10年分当ててしまったのだけれどこんなにあっても保管しきれないから1年分おすそ分けだよ、と爬虫類のような瞳で笑った。シズちゃん家ってムシューダのにおいするねと嘯く臨也に、鍵を閉めたはずの自室へ天敵が容易に侵入していたことよりも、修復不可能なほど険悪な関係にある相手からの贈り物など何をたくらんでいるかわからないと、そんなおぞましさが先立った結果、静雄は警戒し、玄関から一歩も動こうとしない。そんな静雄をつまらなさそうに眺めた臨也は勝手に持ち込んだのであろう湯飲みをあおり、こんな不衛生な部屋に平気ですんでいられる君ならこんな缶詰の山も飽きずに食べられるだろう、と言って静雄がゴミ捨て場から拾ったり命乞いに差し出されたのではない唯一給料で買った家具、ちゃぶ台から席を浮かせた。
 獣のような目で臨也の動向をうかがう静雄を尻目に臨也は、自分こそが家人だとでも言うような堂々とした足取りで袋を持ち上げ、静雄の足元に中身をばら撒いた。中のサバ缶やモモ缶など種類豊富な缶詰がごろごろと靴脱ぎ間、畳の上に転がる。静雄は無言で臨也の動向を凝視していたが、ふとひとつだけ明らかな人為的ぶりで真っ赤に塗られた缶に気づいた。吸い寄せられる静雄の視線を機敏に読み取った臨也は、「それね、毒入りの缶だから」と言った。
「ああ?」
 初めて発言した静雄に気をよくした臨也はご機嫌に「猛毒だから気をつけてね。あ、でも。三ヶ月くらい置いたら注射穴から気化して無害になる。一口食べて舌を刺すような刺激がなかったら、セーフだから。いいかい、三ヶ月だよ」と飄々と言い、言うだけ言ったらさっさと靴を履き、ぽんと肩を叩いて臨也は静雄のボロ城を後にした。
 結論から言うと臨也は赤い缶詰に本当に注射器で毒物を混入させていたし、静雄は臨也からもらった缶詰をきっちり三ヶ月ですべて平らげた。
 だが臨也が仕込んだ毒は細菌、三ヶ月ほどの期間を置いたところで注射針の穴如きで気化などしない。一年でも怪しい。
 臨也の気まぐれな襲来から半年後、偶然街で出会い「あれっまだ死んでなかったのシズちゃん」という至って平素と変わらぬ元気な様子のバーテン服の男の普通に驚いてしまった臨也の一言が原因でそれが露呈したのであるが、臨也にしては全く、うかつなことだった。なんのかんの言いながら静雄が食べ物をムダにできない性分なことも、妙に素直に他人の知識を受け入れることも、味もわからないくせに食欲は世の成人男性と変わらず数ヶ月もあれば食べきってしまうだろうことも、何もかもを予想し尽くしていたが、それゆえに視力障害や呼吸困難、起立不能などをきたしていないことが不思議でつい言っちまったのである。
 「んなこったろうとは思ってたけどやっぱ一服持ってやがったのかいいざあやああ」と絶好調に自販機を投げつける静雄に、「ねえ缶詰全部食べたんだよね? 体に変化なかったわけ?」と割と素面で訊ねてしまった。それに対して、「別に!」という返答と違法駐車の原チャリが飛んできたので、「ああ化け物も極まるとこまで極まったんだぁ」と妙な感慨を抱いたものである。注入したの、ハンターハンターで出てきたレベルの毒だったはずなんだけどなああ。
 必死でタバコや甘いものを好んでいるように、家族にでさえ偽装している静雄の舌の不備に気づいたのは彼を利用するため、比類ない関心と観察力を余すことなく彼ただ一人へ注いだ臨也だけだろう。それを見越した上での行為だったのだがそうか、毒、効かないのか……。

「いやいやそんなの味覚音痴な君が悪いだろだって毒は無色透明だけど無味無臭じゃあなかったんだよ君が食への感覚をちゃんと持っていたらそもそも食べる前に気づいたはずだもの!」

 マウントポジションを取られこれはやばいと頭をかばいながらひねり出したその一言で、何故か街中に置かれていたをドラム缶をふりかぶった体勢のまま、静雄は動きを止めた。
 何ここで止まんのかよこいつの反応まじ意味わかんない気持ち悪いと思いつつも見上げるしかない臨也に、静雄は奇妙なほど静かに言った。
 ただ、目だけはぎらぎらと殺意に燃えており、そう。

「……なら、俺の作った料理をてめえが食え」

 それだけにその台詞は、それはもう奇異だった。
 静雄には昔から言葉が足りない。それゆえに臨也が策にはめるのも貢献したのだが今回ばかりは笑えない。なにそのプロポーズ、と直倒不動かつ顔面蒼白で聞き返した臨也に、怒気心頭かつ顔面蒼白で静雄はドラム缶を振り下ろした。 
 静雄の言い分はこうだ。味覚音痴が作ったもんを非味覚音痴が食ったらさぞや楽しいことになるだろうなあ、だからお前の反応を見せろ。と。だからわかんねえってば何言ってんだよ!!
 あくまでも臨也の辞書にあわせる気のないものいいをどうにか公用語に翻訳してみたら、つまり静雄は「自分の味覚音痴はお前の人でなしと同じ生まれつきで、もはや治す気概もなかったが毒を盛られてユカイなわけもない、駄目元でもいいから味というものを知ってみたい。その際自ら料理をすれば、味を体で覚えられるんじゃないだろうか」ということらしい。ここまで訳してもまだわけのわからないことを言う男だ、さすがは化け物とあきれ果てた。
 どうやら、静雄に味覚というものを教えるために静雄の料理を食い、批評しろということらしい。それぞれの調味料がどのような作用を引き起こし、どんな風味になるのか、テレビでタレントがリポートする「味覚の宝石箱みたいな味」とはどのようなものを指すのか、事細かに。
 馬鹿馬鹿しい、と最初臨也は一笑に付した。どうして俺が忙しい合間を縫って大嫌いな君の料理など食わねばならない、それこそ何を盛られるかわかった紋じゃない。しかしそう言いかけて、はたと気づいた。
 静雄に味覚が戻ったとして、臨也に損することは特にない。
 むしろ、毒でさえ蝕むことのない規格外の体であるが、生まれてから一度も使ったことのない味蕾を刺激することは、下手な毒よりも静雄に効くのではないか。そうだ、静雄は、自分の味覚音痴をタバコや女こどもが好みそうな甘味を使い、神経質なほどに隠している。たとえば味覚という未知の感覚にもだえ苦しむことになったとしても、はたから見れば何故静雄が苦しんでいるのかわからない。ついでに苦しみのあまり死んでくれたら最高。
 おお、それって完全犯罪ではないか。
 自慢の脳みそを回転させてからは、早かった。臨也は指先で雑巾でも掴むかのような握手を静雄と交わし、お互いの日程が合う食事の時間だけ不戦協定を結ぶことを決めた。
 だが、そこからが難航した。なにしろ静雄は本気で味という概念を知らないのだ。辛味は味覚ではなく痛覚だと知っている臨也はそこから攻めようとしたが、痛覚さえも常人から比べるとはるかに薄い静雄には鯖の煮付けも綿飴もハバネロも一緒だという。どこまで人間離れするつもりだ。そもそも料理をほとんどしたことがないというのも本当だったらしく、包丁を握らせるのも怖い。そこいらの小学生のほうがよっぽど上手だ。こいつ、今までどうやって調理実習を乗り切ったのだ、と何度も頭を抱えた。これは早々に味覚を知ってもらわねばと臨也も腹をくくり、携帯で「明日は朝と夜は行ける」だの「俺は昼は行けるが夜は無理だ」だのやり取りをどれほど繰り返しただろう。
 当然、出来上がった料理がうまいわけもなく、協定により彼が作ったものを口にせねばならない臨也のほうが毎度悶絶し、何度洗面器と便器のお世話になったか知れない。静雄もさすがに罪悪感が芽生えたらしく、こんなちまちましたやり方じゃなくぼちぼち医者に行って抜本的に治したほうがいいのかな、と弱音を吐き出す始末。――馬鹿を言うな! 誰のためにやってると思ってるんだ! 俺だ! 俺のためだ!!
 言われたことはなかったが、臨也はなぜ自分に白羽の矢が立ったのか知っている。自分は静雄の味覚音痴を知る、恐らく唯一の人間であり、同時に臨也は、静雄がそれを知られていることを知っている相手でもある。更に、夥しいほど険悪な関係により多少無茶な実験台にしても静雄の心が痛まない、という格好の条件を兼ね備えている相手なのだ。
 しかしそれはお互い様で、臨也にしても合法的に静雄に苦しんでもらいたいので、万が一のために医者の診断書を残すのはまずい。かといって新羅に掛かるのはもっとまずい。待ち出会ったらいつもどおりのやり取りをしつつ、胃腸薬を飲みながら、静雄の口をふさぐために這ってでも食事の時間には静雄の家へ行かねばならないのだ。
 そんなことを数ヶ月も続けていれば、臨也の体にも耐性が出てくる。寝込むことも少なくなり精神的にも余裕が出来、相変わらずひどい味だがなんとか見た目はましになってきたから揚げをつい褒めたら、前述のように業務スーパーで鶏肉を購入されてしまった。薄給の癖に、頭おかしいんじゃないの。――あ。おかしかったね。
 静雄いわく、まずから揚げから幽に作れるレベルのものにする、とのことらしい。何だこの野郎、味云々よりもよもやそっちが本命ではあるまいな、とか思っていたら、本気で腹がいっぱいになった。シミだらけの汚い天井を見上げていると涙がこぼれそうになってきた。いやもう、ほんと、今日までよく耐えた自分。まじ偉い。
 
 寿司は大トロ、チョコレートはゴディヴァ、肉の部位は勿論サーロインのシャトーブリアン。
 なんてスカしてはみても所詮折原臨也は庶民の生まれ庶民の育ちで、本当に舌に馴染むのは回転寿司屋のネギトロだったりチロルチョコのヌガー味だったりするのである。好きな部位はサーロインだとかいっても、実際のところバイキング食べ放題のもので十分なのである。
 一人暮らし歴3年自炊歴数ヶ月にしてもいまだ能力向上の気配も才能もない、ついでに味覚音痴の男が作ったから揚げでも、たまに、まれに、まかり間違って、うまいと感じてしまうほどには、臨也は庶民的な舌をしていた。
 まあ三日三晩三食同じもん食ってたらさすがに飽きるけどね。はあ、明日は肉じゃがが食べたい。しかしこの低脳男、肉じゃがの材料をそろえてやってもルーをオイスターソースとかいれまくって代用してカレーっぽいものを作ってしまいそうで怖い。はああ。付き合うしかないから、付き合うけどね。
 静雄の味覚音痴は、まだ直る兆しがない。





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