7日目
色々と慌ただしかった週末が明けて月曜日の朝。
はじめが傍にいてくれても仕事に行かなければいけないということには変わりなくて、私は起きてから色々と準備をした後、はじめが作ってくれたうどんを急ぎめに胃袋に収めてからビジネスバッグを持って玄関へ。
「はじめ!今日も早く帰って来られるように頑張るからいい子で待っててね!」
パンプスを履きながら、見送りに来てくれるはじめにいい子で待っててねなんて、まるで子供にでも向けているかのような言葉を掛ける。
『それではまるで俺が子供かのような言い方だな』
「あはは、冗談だよ冗談。どこにも行かずに部屋の中で待っててねってことだよ」
案の定ちょっとムッとしたような顔をしたはじめに冗談だと言って笑ってみせた私。
だけどどうしてだろう。なんだか心の奥、ずきずきって。
すごく痛い…
まるではじめがどこかに行っちゃう…そんな気がしてならなくて。
『なにを心配しているのかは分からんが大丈夫だ。俺は有紗が帰ってくるまでここにいるぞ』
「"帰ってきても"…だよ」
『……有紗、時間だぞ』
「……うん」
どうしてなの。
いま、どうして肯定してくれなかったの?
それじゃあ私、今日一日仕事頑張れないじゃない。
私が考えすぎているだけ?
昨日の夜からはじめの様子がおかしかった気がして…変に勘ぐっちゃってるのかな。
「行ってきます」
『ああ、行ってらっしゃい』
本当は聞きたいことや言いたいことがまだまだあったけれど、仕事に遅れるわけにも行かなくて。
私は後ろ髪を引かれる思いで、今度こそ部屋を出た。
はじめ、私が帰ってきたときも変わらずにそこにいてくれるよね?
*
今日は思っていたよりも仕事が長引いてしまった。
それは今日一日自分の仕事に中々集中できなかった私のせいなのか、こんな日に限って次から次へと新しい仕事を回して来た鬼上司のせいなのかは考えないでおこう。
とりあえず大急ぎで会社のあるビルを出た私は、目の前の大通りを走っていたタクシーを捕まえて大急ぎで自宅へ帰る。
まだまだ電車もある時間だったけれど、今は駅まで歩くその時間でさえも惜しかったんだ。
「はじめ、ただいま!遅くなってごめんね!今から、ご飯…つく、るから…」
30分も掛からないうちに自宅に着いて飛び込むように玄関に入った私だけど、そこでいつもと違う感覚に気が付いた。
その違和感がなんなのかは、考えるまでもなくはじめのこと。
はじめが現れてからというもの、私が仕事から帰って来て"ただいま"と玄関から部屋の方に向かって声を掛ければ、はじめはいつも"おかえり"と答えてくれてたのに。
「嘘…はじめ、どこにも行かないって言ってたじゃない…!!」
私は今朝の不安が現実になったんじゃないかと、玄関の鍵を掛けるのも忘れて部屋の中に駆け込んだ。
私が帰って来るまでいてくれるって言ってたのに、まさかいなくなったりしてないよね…?
不安のせいで呼吸が乱れた私が部屋に入れば、そこにはじめはいた。
もっと詳しく言うとするならば、はじめは窓辺のほうで佇んでいた。
私に背を向けるように…窓の外に目を向けているようだった。
「は、はじめ…よかった…いたの」
『あぁ、おかえり』
私が声を掛けると、はじめはゆっくりと振り向いた。
「どうしたの?窓の外なんて見ちゃって…考え事?」
『あぁ』
「そっか。とりあえず晩ご飯作るね!今日は簡単なものしか作れないかも」
考え事をしていたというはじめの顔はとても真剣で、私はどうしてだかこれ以上はじめと会話をしたくないと思った。
これ以上はじめに何か聞いちゃいけないと思った。
だから私は晩ご飯を作ると言って、できるだけはじめから逃げるようにキッチンへ向かった。
だけど…
『有紗、話がある』
冷蔵庫を開けて中の食材を確かめていた私に、はじめは静かにそう言ったんだ。
「話ならご飯の後でもいいでしょう?すぐに作るから」
『今じゃなきゃ駄目だ』
頑ななはじめを目の前にしても、私はどうしてもその先を聞きたくなかった。
それはきっと…はじめの口から出る言葉は私にとって辛いものなんだって予感があったから。
「いやだ…聞きたくない」
『有紗、俺は…』
「聞きたくないって言ってるでしょ!!」
自分の声の大きさに私はハッとしてはじめを見た。
はじめは悲しそうに眉を少し下げたけれど、それもほんの少し。
またすぐに真剣な表情になって私の目を見据えてきたんだ。
その瞳に捉えられた私はもう何も言えなくなって、静かに肩を落とした。
はじめの覚悟が痛いくらいに伝わってきたから。
『有紗、聞いてくれ。これは大事な話なのだ』
「……うん」
『ありがとう。有紗の素直なところが俺は好きだ』
「……う、ん」
どうしてだろう。まだ何も言われていないのに涙が勝手に溢れだして来る。
そんな私をはじめは今どんな気持ちで見ているんだろう。
『泣くな。有紗が泣いていると俺も悲しくなるだろう?』
「う…ひっぅ…無理だよ…」
『それに、だ。まだ俺は何も言っていないのに何故泣いている?』
「っく……じゃあ、泣かなくても…っ、いいような…話なの…?」
私がそう言うとはじめはとても困ったような顔をした。
返事の代わりに、はじめはそっと私の涙を拭う。
もう慣れたつもりだったけれど、涙を拭う半透明のその指は、私にぬくもりを与えてはくれなくて。
私は余計に悲しくなった。
『それは有紗次第だ。俺との別れを有紗が前向きに受け止められるかどうかにかかっている』
「わ、別れって…どうして…!」
『有紗も本当は分かっていたのだろう?このまま一緒にいても自分のためにならぬと』
「そんなこと…!」
どうして?私とはじめが一緒にいたらどうして私のためにならないの?
恋人なのに一緒にいることがおかしいの?はじめが幽霊だから?
そんなの関係ないよ…関係ないのに…
「どうして…幽霊だとしてもはじめははじめでしょ…!せっかくもう一度会えたのにどうしてまた私の前からいなくなろうとするの…?私、また一人ぼっちになっちゃうじゃない…っ、ひっく、っく…」
『有紗。今あんたに見えている俺は、確かに俺自身なのかもしれん。俺の魂なのかもしれん。俺がこのまま有紗の傍にいれば、有紗の心は一時的には満たされているのかもしれん。だがな、有紗。死んだ人間は本当の意味での幸せを生きている人間に与えられない。分かるな?』
「そんなことない!私幸せだよ、はじめ!だから行かないで!私を一人にしないで!」
私は悲鳴に近いような声ではじめに縋った。
もうどこにも行かないで。私を一人ぼっちにしないで。
お願いだよ…
『有紗。今はまだ気が付いていないだけで、このまま俺といれば有紗はいつか必ず辛い思いをすることになる。それが何かなど、有紗が知る必要のないことだ。それに、俺がいなくなっても有紗は一人ではないだろう?』
「一人じゃないって…どうしてそんなことが言えるの…っ!」
私の必死の問いかけにもはじめは落ち着いていた。
そして、その透けた腕で……私をそっと抱きしめた。
「……!!」
その腕に抱きしめられた私は、ふわりと風に包まれたような感覚の中で、今確かにはじめを感じた。
その感覚に驚いた私がハッとしてはじめのほうを見ると同時に、涙が止まった。
「はじめ…私…」
『……一人じゃない。有紗は一人などではない。家族や友人、それに総司もいるだろう?そして何より、これから先も俺が有紗の傍にいるのだからな』
「はじめが傍に…って…?」
私ははじめの言葉の意味が分からずに聞き返した。
はじめはもう少しで私の傍からいなくなっちゃうんでしょう?
それなのに、これからもずっと傍にいるだなんて。
私はとても不安そうな顔をしていたと思う。
そうしたらはじめは、そんな私を見てとても優しく微笑んで、私の両手を包み込むように握ってからこんなことを言った。
『確かに俺が成仏すれば、俺と有紗がこのように直接言葉を交わすことももう二度と叶わなくなるのかもしれない。だがな、有紗。死んだ人間は、たとえ生きている人間の傍にいることはできずとも、心の中でならばずっと傍にいることができる。この言葉は、それこそどれだけの人間が受け売ってきたか分からぬほどによく言われている言葉だが…俺はとてもいい言葉だと思う』
「心の中でならずっと傍に…」
私ははじめのその言葉で、重たかった心が少しずつ軽くなっていくような気がした。
さっきまでは死にたくなるくらいに悲しかったはずなのに、今ははじめの言葉がすぅっと自分の心に入って来る。
『そうだ。有紗が俺のことを忘れない限り、俺はずっと有紗の傍にいる。本当だ』
まるで私の心の変化が分かったかのように、はじめは優しく頷いてくれた。
そして、"今度こそお別れだ"とでも言うように、私の両手を包み込んでくれていたはじめの両手はだんだんと半透明から透明へ変わって…
ふわり
まるで風が吹き去ったかのように見えなくなってしまった。
私は見えなくなってしまった大好きな人を思いながら、
次にまた会えるその日まで、
今を精一杯笑って生きて行こうって、
そう心に強く誓ったの。
……だけど、ね
「はじめ、私…あなたともう一度会えてすごく幸せだったよ。最後に私に会いに来てくれてありがとう。なんだか泣き顔ばかり見せちゃった気がするけれど、今度会うときはきっと…笑顔をいっぱいはじめに見せられるようにするって約束するから…っ…っく…だけど…」
今日だけは…今日までは…
もう一度涙を流してしまうことを許してください。
あなたと過ごした7日間を思い出すと……
どうしても涙が止まらないから
7日目
ずっとずっと忘れない