普通金属バットで一発殴られたぐらいじゃ(よっぽど当たりどころが悪くない限り)人は死んだりしない。だから十四松が帰宅するなり「ねえいじめっこバットで殴ったら動かなくなったんだけどこれってやばいよね」と言い放った時も「まあかなりヤバいけど人殺しにはなってないんじゃないかな常識的に考えて」と最初に返事をしたのが僕だった。珍しく能動的な素振りで様子を見に行った一松が「生きてたよ」と話した時も、安堵する他の兄弟達と違ってそうだろうね、という程度の感想しか抱かなかった。人間の身体というのは存外丈夫に出来ているのだ。

「チョロ松」
「……ん?」

 羊羹食べる?と言って温かい煎茶の注がれた湯呑みと紙箱に入った羊羹を見せてきた可愛い妹に僕は小さく笑った。栗羊羹と抹茶羊羹。妹は栗羊羹が好きだから抹茶を選んだ。その意図に気付いた彼女はありがとう、とにんまり笑顔を浮かべて僕を見る。例えばその細い手首をどのくらいの力で捻り上げたら折れてしまうのだろう、どのくらいの強さで咬みつけば血を流すのだろう、……どのくらいの力で首を絞めたら、彼女はしんでしまうのだろう。

「あ、茶柱」

 湯呑みの中を覗いてふふ、と笑った彼女は、僕がこんなことばかり考えていると知ったらどんな顔をするんだろう。元来彼女は痛みに対する耐性が低いみたいで、少し大きな怪我をするとその度に痛い痛いと兄に泣きつくきらいがあった。わがままという訳ではないが酷く甘えたな妹に育ったのは、僕達みんなに甘やかされてきたからだろうか。とはいえ母さんを除いて男ばかりのこの松野家、たった一人の妹を可愛がるなという方が難しい話だ。

「おそ松と仲直りできた?」
「……まあ」

 まあ、って。と笑う彼女は然程心配していない様子だった。日常的に勃発する兄弟喧嘩を見てきたせいで肝が据わったのかもしれない。一晩帰ってこなかったおそ松兄さんは、次の日の朝には何事も無かったような顔でけろりと帰宅した。そうして我が家には(特にお互い謝罪があった訳では無いが、)いつも通りの、締まりの無い日常が戻っていた。
 妹と煎茶を啜っていたら階下から母さんが僕たちを呼ぶ声。階段を上がる足音に続いて襖が開けられる。部屋を見回し、あらチョロ松しか居ないのね、と零した母さんが財布とメモを差し出して言う。

「夕飯のおつかい、行ってきてくれる?」
「ああ、うん。分かった」
「私も手伝う!」
「じゃあこれお財布と、買ってきて欲しいもののメモよ。よろしくね」

 母さんは可愛い僕らの妹の柔らかい毛を撫で、お菓子も買っていいわよ、1人1つまでね、と言い残して階段を降りて行った。普段おつかいは男手が集められて命じられることが多いためか、彼女は大事そうに財布とメモをポケットにしまうと嬉しげな様子で僕に微笑みかける。連れ立って家を出た僕たちは近所の大きなスーパーまで、川沿いの道をてくてくと歩いた。日差しが柔らかくていい天気だ。

「一昨日ね」
「うん」
「一学年下の子が電車で自殺したって」
「知り合い?」
「ううん、名前も顔も知らない」

 道路沿いの白線を踏みながら話す彼女はまるで最近見たドラマの話でもしているかのような様子だった。現実味が無いのだろう。妹はそういう話を面白がって野次馬根性を露わにするタイプでも無いので、自殺した生徒についてそれ以上の話は聞いていないようだった。色々噂はあるみたいだけどよく知らない、と言って、彼女は後ろ手に組んでいた手をぶらんと身体の両脇に降ろす。車道寄りを歩く僕の左手が幾分小さな手の小指にこつんとぶつかり、束の間僕たちの間から会話が途切れた。そしてどちらからともなく手を繋いで、正面を向いたまま歩き続ける。

「死ぬのってどんな感じだろうねえ」
「……死んだことないからなあ」

 生憎死にたいと思ったことは無かった。殺してみたいと思ったことならあるけれど。華奢な彼女の手をぎゅうっと握ると彼女は痛い痛い痛い!と喚いた後、僕の手を振りほどいてけらけら笑った。その後再び僕の手を取って、ありったけの握力で僕の手を握り返してくる。仕返しのつもりなのだろうがか弱い女の子の握力なんて知れていて、ほんの少しも痛くない。

「それ本当に握ってる?」
「握ってるううう……」

 顰め面で呻きながら尚も力を籠める彼女の手をもう一度だけ、ほんの一瞬ぐっと力を籠めて握る。悲鳴みたいな声を上げて再び僕の手を振りほどき飛び退いた彼女は悔しそうに、けれどどこか楽しそうな声色で痛いよ、と僕を非難した。全力で握ってもたぶん僕くらいの握力じゃあ彼女の手の平の骨は砕けてしまったりしない。それでも何故か手加減した僕はいつか自分がほんとうに彼女を壊してしまうんじゃないかと恐れているのかも知れない。

「ねえ、こっち向いて」
「ん、なに、チョロま」

 「つ」の音は彼女の唇から僕の唇へ直接受け渡された。触れ合った唇を離し、掴んだ腕をそのままに彼女を見下ろすと長い睫毛がゆっくり上下して、ほんの少し意地悪に眇められる。ふっくらとした唇がふにゃりと歪んで弧を描き、赤い舌がちらりと覗いて唇を舐めた。……贔屓目無しに、僕の妹は時々酷く魅力的な表情をする。彼女はやや挑戦的に僕の顔を見上げ、まるっきり無垢ですという顔つきを装って小首を傾げて見せた。

「妹に何してるの?お兄ちゃん」

 ……ねえ、どこでそういう顔、覚えてくるの?
 或いは女の本能なのだろうかと思案する僕をさておいて彼女はそれきり僕の接吻への興味を失ってしまったらしい。服のポケットからごそごそと買い物のメモを取り出すと、そこに書かれたことを読み上げ始めた。じゃがいも、にんじん、たまねぎ、牛肉。

「……カレーかな」
「ううん、たぶんハヤシ」
「なんで?」
「牛肉カッコ切り落としって」

 私ハヤシはじゃがいも入ってない方が好きだなあ、と独りごちて、彼女は僕にそのメモを押しつけた。うちのハヤシにじゃがいもが入るのはたぶん、その方が腹持ちがいいからだろう。じゃがいも抜きのふつうのハヤシライスがたべたい、と嘆いた彼女は川を挟んだ向こう側に目をやって「あ」と声を上げる。

「お葬式」

 ぎゅ、っと手をグーにして親指を隠す彼女。それは霊柩車とすれ違う時だよ、と言ったらそうだっけ?と首を傾げていた。毎日必ずどこかで誰かが死んでいるのだから近所の会館で葬儀が営まれていることなんて別に珍しいことではなかったけれど、僕はそこで立ち止まってしばらく向こう岸の葬儀会場を見つめていた。それはたぶん、彼女の後輩が自殺したという話をしたばかりだったからだ。え、見ていくの、行こうよ、と少し気味悪そうに僕の手を引こうとした彼女が動きを止める。

「あ、うちの制服」

 見慣れた制服は毎朝彼女が身を包んで登校してゆくセーラー服だった。葬儀会場から出てきたにしてはえらく冷めた顔つきのその娘は橋を渡ってこちら側へと歩いてくる。見ているのが分かったら不審なので僕たちは慌てて葬儀会場に背を向けたが、女の子は僕たちのことなど気に留めない様子でずんずん歩いて行ってしまった。見覚えのあるやけに汚れた山吹色のスリッパを履いて。

「……行こう、母さんに怒られる」
「ん?うん」

 十四松。金属バット。いじめっこ。高校生の自殺。電車。葬儀会場から出てくるセーラー服の女の子。なあ、十四松、おまえ、一体何度、"いじめっこ"を殴ったんだ……?あの日の一松の声が頭の中で反復される。

 「生きてたよ」。

 一松、それは"今も"か?生きていた"そいつ"を、お前がどうかしてしまったんじゃないのか。
 深夜の踏切、気絶した"そいつ"が一松によって担がれ、踏切の真ん中に寝かされる。赤く点滅するライト、轟音を上げて通過する電車、一松の背中。全部想像に過ぎないのにありありと目の裏に浮かぶ。点と点を繋ぐ行為を僕のあたまはさっきからずっと拒否していた。彼女がしようとしたように親指をしまってさっさと通り過ぎておくべきだったのだ。都合の悪い真実に指先が触れてしまう前に。

「チョロ松顔こわい、そんなにカレーが良かった?」

 は、と我に返って声のした方を見た。可笑しそうに僕を見上げる彼女に微笑みかけてそっと頭を撫でる。ゆるく首を振って触り心地の良い髪の毛から手を離した。

「じゃがいも、抜いてあげなきゃね」

 何も知らない可愛い僕の妹は嬉しそうに頷いた。


ニル・アドミラリ

(160402)



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