23時を過ぎた頃、突然鳴らされたインターホンは静かな部屋へやけに大きく響き渡る気がして思わずびくりと体を揺らしてしまった。こんな時間に一体誰だ。足音を立てないように恐る恐る玄関へ行き、扉に手をついて覗き穴に顔を寄せれば赤いパーカー姿のよく見知った顔が突っ立っている。変な人じゃなくてよかった……いや、彼も割と変な人だが。突然の来訪者が顔馴染みであったことにいくらかの安堵を覚えながらドアチェーンを外し、鍵を開けて訪問者を招き入れればふわりと紫煙の香りが漂った。……煙草なんて吸ってたっけ。そう首を捻ったがポケットから出した駄菓子を手土産代わりに渡されたことでああパチンコか、と納得した。ハイレモン。懐かしい。駄菓子屋でいくらだったっけこれ。
 もぞもぞと玄関で靴を脱ぐ彼にどうしたの、と聞けば困ったようにへらりと笑う。

「弟と喧嘩しちゃってさー帰るの気まずいんだよね。一晩だけ泊めてくんない?」
「別にいいけど」

 いやあ悪いねありがとう、とさして悪びれるつもりも無いくせに言った彼に今更腹を立てたりはしないがつくづく図太いやつだとは思う。勝手知ったるといった様子でうちのシャワーを借りたおそ松が脱衣所から顔だけ出して「なあ、着替えある?」と聞いてきたのでこないだトド松が泊まった時に置いていった可愛い水玉模様のボクサーパンツを出してやった。うちで洗ってそのうち返してあげようと思っていたが丁度良い、このまま履いて帰ってもらおう。彼の言う「喧嘩した弟」というのがトド松でないことを祈った。

「なんか食べた?カップ麺しかないけど」
「うーん、いいや。腹減ってないんだよね」

 あ、そ。開けていたキッチンの戸棚を閉じてベッドの上に戻った私はハイレモンの箱を開ける。錠剤のシートみたいな包装からタブレット状のそれを指で押し出して口に含めば、子供の頃に食べたのと同じ強い酸味と人工的なレモンの香りがした。……私はこういう柑橘類の匂いにどうしてもトイレを想起してしまうのだが普通はどうなのだろう。トイレの排水管からぶら下がる白いネットと蛍光イエローのボールを思い浮かべていたらパンツ一丁のおそ松がこちらへ手を差し出してくる。

「いっこちょうだい」
「ん」
「うわ、これこんなに酸っぱかったっけ」
「うん」

 酸っぱすぎて顎が痛いと眉を顰めた彼は煙草臭いパーカーに再び頭を通して思いついたように、

「あ、あとさあ」
「うん」
「セックスしよ」

 彼のうすいくちびるがふにゃりとやわらかく弧を描いていた。まあそんなことだろうと思っていたので驚きはしない。私は口の中の甘酸っぱい唾液とハイレモンのかけらをまとめて飲み込み、上体をよじってベッドサイドの小物入れに手を伸ばした。指先で金具を外し、箱を開くとそこは空っぽ。残念、ゴムが切れてます。そう言うとおそ松は不服そうにえー、と声を上げて私を非難した。

「いいじゃん、中で出さなきゃいいんだろ?」
「責任取ってもらえないのに生でさせるメリットある?」
「うーん確かに」

 万が一の時に責任を取るのはおろか都合の良い嘘をつく気すら無いらしい。うそっぱちでも甘い言葉くらい囁いてみたら私の心も少しくらい浮ついてもしかしたら生で良いよなんて言ったり、は……まあ絶対にしないけれど。
 下心を多分に含ませた笑顔で私ににじり寄ったおそ松はやけに優しい手つきで私の身体を抱き寄せた。大きなてのひらが私の腰のあたりを抱き留める。頬に触れるパーカーからはおそ松のにおいと誰かの煙草のにおいがして、その向こうにはお風呂上がりの彼自身から漂ううちのシャンプーの香りがあった。私の名前を呼ぶ声にもぞもぞと顔を上げれば不思議そうに眉を持ち上げるおそ松と目が合う。

「いつもメリットとか考えながらセックスしてんの?」
「だとしたらそもそもニートとは寝ない」
「だよねぇ」

 へへ、と笑ったおそ松がどさくさに紛れて私の寝間着の中に手を這わせようとしたのでこら、とその手を叩いた。ちぇ、と漏らしながらも大人しく手を引いた彼は私を抱き枕扱いすることはやめずに、じゃあなんで俺とえっちしてくれるの?俺がすっごい上手いから?などとデリカシーの欠片も無いことを聞いてきたのでその額もぺちりと叩いてやる。なんで自分が床上手なことが前提なんだ。

「あ、携帯鳴ったよ」

 机の上へ視線をやれば携帯の液晶が点灯していた。メッセージの送り主はトド松だ。 "おそ松兄さんそっちにいる?" と送られてきていたので "いるよ" と返信した。すぐに既読がついたかと思うと可愛いパンダが謝罪しているスタンプが送られてきて、相変わらず男のくせにレスポンスが速いなぁと感心する。続いてすぐに "追い返してもらっていい?" と送られてきたので "泊まる気満々みたいだけど……明日には帰るって" と送信しておいた。その後、トド松にしては少し間が空いたものの "わかった" とだけ返事が返ってくる。どうやら喧嘩したきりなかなか帰って来ない長兄を心配したらしい。それとも何か用事でもあったのだろうか。

「おそ松」
「んー?」
「今日みたいに弟と大喧嘩してもそのうち普通の顔して家に戻るんでしょ?それってどんな気持ちなの」
「どんな気持ちって……」

 時に殴り合いまで起こしていがみ合うくせに、数日すると何のわだかまりも確執も残さず元の生活に戻れる彼らの感覚が私にはよく分からなかった。一度出来てしまった溝を平気で飛び越えてまた六人でひとかたまりに寄り添うというのは、一体どんな気持ちなのだろう。相手への憎しみや怒りを綺麗さっぱり忘れてしまうのか、それとも、忘れた"ふり"をするのか。互いにどすぐろいなにかを抱いたまま、見ないふりをして?
 だとしたらそれはもう、ほとんど地獄だろう。

「別に、ふつうじゃん?」

 何の疑いも無くそれを「普通」と言ってのける彼はいっそ清々しく、ああたぶん彼は当たり前のように"帰る場所"を持つのだろうなと、そう思った。私と違って。

「トド松が心配してたよ」
「んー」

 まあ明日には戻るし、と言った彼はバツが悪いのを隠すみたいに私の首筋に吸いついてくる。くちびるでやわやわと表皮を食み、少し痛いくらい強く歯を立てられて思わず眉を顰めた。ぞわりとした感覚が背骨を這い上がってくるような気がして、気付かれないように身震いする。

「ねーほんとにしない?」
「煙草臭い男はきらいです」

 残した歯型にまるで愛でるみたく口付けた彼のくちびるのぬるさがいつまでも消えなかった。


ニワトリ頭と鉄面皮

(160212)



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