白い腕をつう、と伝った赤いものはきみの肘を伝ってぽたりと床に落ちた。一人暮らしのきみのアパートは板張りだから、床についた血液は布巾で拭えば簡単に拭き取れて染みにもならない。自分で傷つけた手首をまんじりともせずに見つめるきみの横顔からこれといった感情は読み取れなかったが、薄く開いた唇からはきっと僕には見えない静謐な霧をゆるやかに吐き出しているのだろうと、思う。

「……ご飯食べた?」

 首を振ったきみに嘆息する。朝から何も食べてないなんてだめだよ少しくらいちゃんと食べなきゃ。うどんくらいなら食べられそう?僕すき焼き弁当買ってきたから、少しあげるね、と言ったら彼女は小さく頷いた。手に提げていた袋から弁当を取り出せばまだ温かい。ベッドサイドの小さなテーブルを引き寄せて弁当を置き、蓋を開ければ美味しそうな匂いが部屋に立ちのぼった。部屋に漂う希釈された死のにおいがゆっくりと掻き消されていく。

「はい、それ渡して」

 彼女の右手に握られていたカッターナイフを取り上げれば、彼女は特に抵抗せずに大人しくそれを僕に寄越した。僕が怪我をしないようにきちんと刃を収納してから渡してくれるきみがどうしてそんなに簡単に自分の身体を傷つけられるのか、僕には分からない。
 刃物で自分の身体を傷つけることは彼女の趣味であり、日課であり、そしてライフワークだった。世の中には何かに思い悩んだり抑うつ状態に陥ってしまうことで自傷行為に走る者が少なからず居ると聞くが、彼女の場合は特に何かが悲しいわけではないという。

「お茶飲む?ああ先にそっち何とかしようか」

 糊化した血液が張り付く手首の傷口と腕に残る血痕を見て彼女の手を取った。氷みたいに冷たい手に相変わらず冷え性だなあと苦笑して、まだ乾き切らない血液を拭いてあげる。彼女はまるで他人事みたいにその様子を見ていた。

「……別にどうこう言うつもりはないけど」

 まだ固まり切らない血液がてらてらと光っている。何故だか少しだけ官能的だと思った。彼女の唯一の趣味は誰にも迷惑をかけていないし何人たりとも批判する権利を持たないけれど、

「きみの血がもったいないとは思う」

 ぽつりと零せば彼女は不思議そうな顔でちいさく首を傾げて僕を見た。勝手なことばかり言ってごめん、でも本当にそう思うんだよ。彼女は特に気を悪くした様子もなく、ゆっくりとまばたきをした後うすく微笑んだ。手首の傷を指先でそっとなぞって、吸血鬼みたいなこと言うのね、とわらう彼女の瞳が三日月のように弧を描く。

「別にきみの血が飲みたいとかそんなことは思ってないよ」

 わたしはあなたをたべてしまいたいけど。
 そう言った彼女が悪戯っぽく笑うさまはまるで少女のようだった。新築なのにやたら家鳴りの多いきみのアパートは寒々としていたが、彼女の笑顔だけは僕の心にささやかながら暖かい灯火をもたらすようだった。

「愛してるよ」

 てのひらに残るきみの肌の感触はほとんど呪いみたいに僕へと纏わりついて昼も夜も苛むんだ。見開かれる瞳、波打つ腹部に冷たくなっていく身体。毎日きみを殺す夢を見るよ。


腐乱してゆく愛の淵

(160116)



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