姉さんはどうして僕だけあいしてくれないの。

 一松が突如こぼした只ならぬ言葉にびっくりして、私は剥きかけのみかんをちゃぶ台の上に置いた。ちゃぶ台を挟んだ向かい側で膝の上に猫を抱いている一松は別段いつもと変わらぬ様子だったけれど、その声色にはわずかに責めるような色が窺える気もした。

 等しく愛してきたつもりだった。だって、同時に生まれてきたかわいい弟たちだ。歳の近い6人の弟たちは幼い頃から一様に手がかかるやんちゃ坊主揃いだったし、煩わしく思うことだって無かったわけじゃない。けれど、私が姉で、彼らは弟だった。それだけで彼らを愛するのに十分な理由になると思っていたし、そうしてきたはずだ。

「……どうして愛されてないと思うの?」
「姉さんが僕を見ないから」

 見てるよ、と私は答えた。小学2年生の時に私の誕生日に小遣いで花を買ってくれたこと。小学6年生の修学旅行で私にお土産だと言って木刀を買ってきてくれたこと。私が未だにそれを持て余していること。中学3年の時には私が体育の授業中に倒れ高校を早退したと聞いて(原因はただのひどい生理痛で、なんてことなかったのに)、いつもは6人で道草を食いながら帰ってくるところをその日は一目散に帰ってきてくれたし、大学に合格した私を祝ってパーティーを開いてくれたことだってちゃんと覚えてる。

「それは6人でやったことだよ」

 静かに告げられた言葉にはっとする。時々子供っぽいが長兄らしい頼もしさもあって、落ち込んだ時に励ましてくれるのはいつもおそ松だった。カラ松は幼い頃こそ喧嘩っ早くて困らされたが今は誰よりも早く私の変化に気付いて「前髪切ったか?似合うぞ」なんて嬉しい言葉を掛けてくれる。チョロ松は私の手を焼かせまいと思ったのか昔からとっ散らかった兄弟たちを制御しようと努力してくれたし、十四松は素直で優しいまま大きくなって、未だに道端で摘んだ花をプレゼントしてくれる。トド松は昔から甘え上手で甘えられ上手だったから、私の愚痴をいつもうんうんと文句も言わずに聞いてくれた。一松は、……

 ……一松は?

 何ひとつとして一松とのエピソードを思い出せない自分に気付いた私は愕然とした。どうして今まで気付かなかったんだろう。幼い頃の一松はどんな子供だったっけ?思い出せなかった。こんなに長く一緒に過ごしているのに。

「姉さんに迷惑掛けないようにしてきたのはチョロ松兄さんだと思ってるかも知れないけど、僕の方が上手」

 チョロ松兄さんは頑張ってるのが丸分かりだから。一松はそう言って膝の上の猫から顔を上げる。向かい合わせの私をじっと見つめる半目は何を考えているか分からなくて、自分の弟なのに少し恐ろしいと思った。猫がまだ薬の恩恵を受けていたなら一松のほんとうの気持ちがわかったのに。

「僕が何か問題を起こしたこと、今まであった?」

 一松は私に問う。私は首を振った。一松個人が何らかの理由で私に迷惑を掛けたことは、ただの一度として無かった。

「僕が一番、姉さんを困らせなかったんだよ」

 一松がものすごく上手に「よい子」を務めていたのだということを、私はそこでようやく理解した。何一つとして失敗する事なく、しくじることなく、正確に、精密に、幼少期の彼は「よい子」だったのだ。「努めてよい子であろうとしていること」を悟らせないくらい上手に彼は「よい子」だった。精巧すぎて、姉の記憶に残らないほどに。

「姉さんは、姉さんを困らせる奴ばかり見てた。昔から」
「そりゃ、危なっかしいから……」
「そうだよね。僕も高校に上がる時それに気付いた。だから僕も危なっかしい奴になろうと思ったんだ」

 とりあえず友達をつくるのを辞めて、自分の気持ちを話すのをやめてみた、と一松はまるでなんでもないことのように言ってのけた。思わずどうしてと口に出してしまったら一松は当たり前みたいな顔で、そうすれば姉さんが僕を見てくれるかと思って、と答える。

「でも結局だめだった」

 一松はそう続けて軽く嘆息した。

「姉さん僕のこと信じてるでしょ」
「え……」
「僕が、……昔から一つも問題を起こしたことのない僕が、何かしでかすわけないって」

 そうかも知れない。何かとんでもないことをするのではないかと私は常に弟たちをはらはらしながら見守ってきたけれど、一松に関しては私が手を差し伸べ導かなくとも、勝手に生きたいように生きていくだろうとどこかで思っていた。というより、変に口を出されるのを嫌がるのではないかと思っていた。他者との交流を拒絶しがちなところがあったから。(つまるところ「よい子」の名役者であった彼は「わるい子」の大根役者だったのだ。)

「僕は姉さんが思ってるようなイイコじゃない、だから、」

 猫を膝から降ろした一松はちゃぶ台に手をついて、ぐっとこちらに身を乗り出す。何を意図しているのか読めずに呆けていたら突然胸ぐらを掴んで雑に引き寄せられ、ちゃぶ台ががたりと揺れた。殴られるのだろうか。思わずぎゅっと目を瞑る。

「……僕も姉さんのこと困らせることにした」

 再びちゃぶ台が揺れ、急須の蓋が動いて微かに高い音を立てたのを聞いた瞬間、私の唇にあたたかくて柔らかいものが押し当てられる。それが彼の唇だと気付くのに時間は掛からなかった。やわやわと食まれ、下唇に少し強く歯を立てられてびくりと震えればふ、と息を漏らして一松が笑ったのが分かった。慌ててその胸を押せば思いのほかあっさりと解放されて。

「な、に、するの」

 思わず顔を逸らした私が気に入らなかったのか、一松は私の頬に両手を添えるようにして無理矢理自分の方へと顔を向けさせた。目が合うのは勿論のこと、否応無しにやや濡れた一松の薄い唇が視界に入ってきて先程の柔らかい感触と頭の中でリンクしてしまう。一松は私をじっと見据えたまま静かに言った。

「僕のこと見て」

 一松は再び私にくちづける。ちゃぶ台が揺れ、剥きかけのみかんが転がってぼとりと落ちていった。


人肌で進行する病

(151205)



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