歯の浮く言葉はいらない




「じゃあまず手洗って」
「はあい」

大きな体をゆらゆら動かしてシンクに手を突っ込み、石鹸で手を洗う紫原くんの後ろ姿を見つめながらどうしてこんなことになったのかと溜息を吐いた。事の始まりは一週間前、突然私の元へやってきた紫原くんが「お菓子を作りたいから教えてほしい」と言い出したことにある。

「お菓子?」
「うん」
「買ったのじゃ駄目なの」
「そういうのは手作りにすべきだってむろちんが言うから」
「ああ、誰かにあげるんだ」
「んー……まあそんなかんじー。なまえちんのすきなやつでいーよー」

と、いうわけで。わざわざ紫原くんのオフに合わせて予定を空けた私の家に彼を招いて料理教室を開いている次第だ。エプロンなんて持っていないと言う紫原くんのために貸し出した母のエプロンは彼に似つかわしくない花柄で、しかもこの巨体に全くサイズが合っていない。低いシンクに窮屈そうに体を屈めてレース付きの裾を揺らしながら手を洗っている紫原くんはなんともシュールだった。

「あ……髪の毛長いしまとめた方が良さそう」
「ん〜……ゴムあるー?」
「あー、あるけどもう手洗っちゃったね」
「じゃあなまえちんがやってー」

膝立ちになってこちらに後頭部を向ける紫原くんに多少ぎょっとしながらもその藤色の髪の毛に指を通して髪の毛をまとめていく。特に手入れされていないのだろう、好き放題伸びましたという感じの髪の毛は所々傷んで枝毛がちらほら見られ、きちんと手入れしたらきっと綺麗なのにと少し残念に思った。長く垂れた前髪も後ろへ手繰り寄せてまとめられるだけまとめ、ゴムで留める。

「……はい」
「ありがとー」

うなじに生えた尻尾をぴょこんと動かしながら立ち上がり、紫原くんは私にシンクを明け渡す。そこで手を洗ってから材料を揃えると紫原くんが怪訝な顔でそれを覗き込んだ。

「これだけ?」
「メレンゲのクッキーだからね」

簡単な方がいいと思い、卵と砂糖だけのメレンゲクッキーを作ることにしたのだ。楽をするために電動の泡立て器、それからゴムべらも用意する。

「あと、ボウル……」

ボウルはキッチンの上に取り付けられた棚に仕舞い込まれている。背伸びをしてギリギリ手の届くその棚の取っ手に指を引っ掛け、力の入りにくい体勢で戸を開けようと奮闘する私の後ろからにゅっと長い腕が伸びてきた。易々と戸を開いて銀色のボウルを掴んだ紫原くんが私にそれを差し出してきて、おっかなびっくり受け取る私を見届けたあと再び腕を伸ばしてぱたりと戸を閉じる。

「あ、ありがと……」
「ちっちゃいって大変だねー」

悪気は無いがデリカシーも無いその無邪気な言葉にぐさりと胸を刺されながらもその長身を活かして隣の棚にある計量器も取ってもらった。……それにしても大きい手だ。握られた電動泡立て器がものすごく小さく見える。パース狂ってますよ、みたいな。

「卵、白身と黄身分けられる?」

ぶんぶん首を振った紫原くんの代わりに卵の白身だけを分けてボウルへ入れ、泡立てるように指示した。台所中に白身が飛び散る大惨事を防ぐために絶対に泡立て器を回転させたままボウルから上げないように注意すると紫原くんはごくりと唾を飲んで緊張していた。コンセントに繋いだ電動泡立て器が動き出すのを聞きながら残った黄身は容器に入れてラップし、冷蔵庫に入れておく。今晩のカレーのトッピングにでもしよう。

「ある程度泡立ったら砂糖量ってね」
「なんぐらむー?」
「120かなー」

巨体を屈めて電子表示と睨めっこしながら砂糖を量っている紫原くんはとても微笑ましかった。みみっちくなってどさりと砂糖を足したらかなり分量をオーバーしてしまい焦ったりしながらもなんとか量り取った砂糖を三回に分けて卵白に混ぜ込みながらしっかり泡立てていく。普段何をしていても退屈そうに落ちた瞼が印象的な彼だが今は彼なりに楽しんでいるらしく、くちびるが緩く弧を描いていた。意外とお菓子作りが好きなのかもしれない。

「なまえちん、もういいー?」
「ツノしっかり立つ?」
「立つ〜」
「じゃあレモン汁足してゴムべらで混ぜてー」

レモン汁を混ぜ合わせた生地を絞り袋に入れ、天板に敷いたオーブンシートにまずは私がいくつか絞り出して見せた。星のような形で綺麗に絞り出された生地に紫原くんが感嘆の声を上げる。

「先は動かさずに、右手だけ握って絞り出して……あんまり分厚くならないようにね、はい」
「え、俺がやるのー……」
「当たり前でしょ」
「俺こういうの苦手だし……」

大いに嫌そうな顔で絞り袋を受け取って生地を絞り出しはじめた紫原くん。大きかったり小さかったり分厚かったり薄かったり、バラバラに絞り出されていく生地にやきもきしながらそれを見守る。これじゃ焼き時間がバラバラで均等に焼き上がらない……

「ちが……先は動かしちゃだめ……ああ!もう一緒にやろう」

痺れを切らして横から手を伸ばし、紫原くんの大きな手に自分の手を重ねた。左手は添えるだけ!とどこかで聞いた言葉を言いながらぐっと右手を握り、紫原くんの巨人みたく大きな手越しに生地を絞り出していく。

「なまえちん、ねえ、」
「左手はブレないように支えてるだけだから握らなくていいよ」
「あーうん……そーじゃなくて……まあいいや」

結局最後まで一緒に生地を絞り出し、100℃に予熱しておいたオーブンに天板を入れて70分。使った用具の後片付けをしたが焼き上がるまではまだ一時間もある。とりあえず紫原くんをダイニングのテーブルに座らせ、紅茶かコーヒーかと聞けば紅茶がいいと言うのでマグカップを二つ用意して紅茶を淹れた。沈黙が恐ろしいのでテレビの電源をつけておく。昼下がりのワイドショーを横目で見ながら淹れたての紅茶を啜り、何か当たり障りのない会話をしなければと無意識に思考を巡らせてしまっている自分に気付いて少し嫌になった。

部活どう?とか昨日のテレビ何見た?とかそんな他愛も無い会話を交わしながら時間を過ごし、テレビではワイドショーが終わって数ヶ月前に放送していたドラマの再放送が始まる。それは少女漫画が原作のラブストーリーで、歯の浮く台詞の数々にこちらが恥ずかしくなるものだった。クラスメイトの異性と一緒に見ていいものじゃない……とはいえここでチャンネルを変えるのはなんだかわざとらしいし、何だこれは。拷問か。持参していたらしいスナック菓子をぼりぼり口に放り込みながら普通にテレビ画面を見ている紫原くんのハートの強さに感服する。

永久に等しいおよそ30分ののち、話が中盤に差し掛かろうという頃にクッキーが焼き上がった。粗熱を取って形のいいものを選別し、残りは自分たちで食べようと提案すると紫原くんはすぐにクッキーに手を伸ばしてきた。どうやら食べたかったらしい。

「美味しい?」
「なんか、なつかしい感じ」

そう言ってすかさず二つ目に手を伸ばす。そんな紫原くんをよそに誰かにあげるという話ならラッピング用の袋が要るだろう、と思い立った私はキッチンの引き出しを開けて何か余っていないか探していた。確か去年のバレンタインにクッキーを焼いて友達に配った時のものが残っていたはずなのだけれど。

「なまえちん」
「んー?」

呼び掛けられて振り返った所にいきなりメレンゲクッキーを押し込まれた。びっくりしながら何か考える暇もなく口の中へとそれを迎え入れるしか無かった私は戸惑いと共に紫原くんの顔を見上げる。三つ目のメレンゲクッキーを自分の口の中へ放り込みながら紫原くんが笑った。遠くに先程まで見ていたドラマの主題歌が流れ始めていた。

「なまえちんが好き」

その瞬間、私は口の中のクッキーと一緒にしゅわりと自分の心臓が溶ける音を聞いた気がした。


(130104)



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無駄に長くなってしまってすみません…!紫原くんがお菓子をあげたかったのはヒロインちゃんなのでした。
黒羽さん、リクエストありがとうございました!受け取って頂けると幸いです。


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