ぬるま湯に似た幸福




「たかおく、」

くちびるから発された言葉は尻切れに終わった。というよりも、遮られたのだ。別の誰かが彼を呼ぶ声によって。高尾ー、と、教室の中で誰かが彼を呼ばない日は無くって。面白そうなことをしている所には大体彼が呼ばれ、彼は持ち前の明るさと人懐っこさでその輪の中に驚くほど素早く親和して融け込む。そこに私の入る余地は無いし、私の声が高尾くんに届くことも無い。

たかおくん。

口の中だけでそう呟いて、私は高尾くんが呼ばれて行った先の輪から視線を逸らした。教室の中、というのはどうあってもそこにいくつかの輪が出来てゆくものだ。防衛本能だとかその他色々なものが姑息な計算を働かせて。窓と壁に仕切られ閉じられた教室という空間の中で、菌類のつくりだすコロニーのように、いつの間にかその輪は形成される。大体はそのどこか一つに属し、当たり障りなく過ごすのが学生として無難な日常のやり過ごし方であるし、無意識的にそうすることを選ぶように人間はつくられているのだと思う。だから私は意識的にそれを選ばないのだ。けれど高尾くんはいくつものコロニーを股にかけて教室の中を、時にはクラスの壁を超えてすいすいと人の輪から輪へと見事に泳いでいく。それも受動的に、そして恐らく無意識的に。

「なまえ、飯食おーぜー」

いつの間にやら先程呼ばれた輪の中から抜け出してきたらしい高尾くんは私の前の席に後ろ向きで座り、菓子パンを取り出していた。屈託の無い笑みにとくりと胸の奥が脈打つ。が、そこで再び別の輪から高尾くんを呼ぶ声。口の開いた菓子パンの袋を私の机に置いて、高尾くんは申し訳無さそうに眉を下げて私を見る。

「ごめ、先食ってていいから」 

座ったばかりの椅子から立ち上がって声の元へ行ってしまった背中。この背中を見る度に高尾くんはもう二度とここへ帰ってこないのではないかという感覚に陥る。それは錯覚なのだろうか、それとも予感なのだろうか。……いずれにせよ、きっと高尾くんはそのうち私への興味を失うのだろう。彼は少しばかり一人で居ることの多い教室の隅の女子、に興味があっただけなのだ。同情に近い愛情は、なまぬるくて、やさしい、

「悪い、ただいまー……って、お前なんつー顔してんの」

高尾くんはとても目敏い。それはもう、時折煩わしくなってしまうくらい。どろどろと滞留する憂鬱はあっさり見抜かれ、それが更に憂鬱に拍車を掛ける。そしてそれすらも彼は見抜く。言葉にはしないけれど。不安に形を変えた憂鬱は鳩尾の奥を締めつけ、痛みは怒りに変わった。

「高尾くんは私のことが好きな訳じゃないんだよ」
「……は?」
「可哀想って思う気持ちと恋愛がごっちゃになってるだけ」
「おい、」
「私、確かに一人で居ることの方が多いけど別に悲しくなんてないから」
「なまえ」

いつもより多めに瞬きを繰り返す高尾くんの切れ長の瞳。驚いて、いるのだろう。たぶん。眉間に寄った皺はどこか少し哀しそうにも見えた。けれど哀しさで言えばこちらだって負けてはいない。遣る瀬無い想いに震える吐息を吐き出して、ぽつり。

「……高尾くんといるのは楽しいけどつらい」

僅かに見開かれた高尾くんの瞳。ああ、ずるい。高尾くんはずるい。一人でも平気だったのに、一人が良かったのに。既に私は高尾くん無しでは居られなくなっている。高尾くんが居ないと何をしていいのか分からなくなってしまっている。彼は私だけのものではないのに、私はすっかり彼だけのものになってしまっていた。

それらが全て彼の計算だったのなら、まだ恨めただろう。けれどあくまで真摯に、誠実に、彼は私を絡め取ってしまった。救いようもなく生温い優しさは酷く心地が良くて泣いてしまいそうになる。彼がいつか私から興味を失う日を思うと胸がへしゃげてしまいそうなくらい痛かった。

私は、高尾くんがすきでたまらない。


(1201009)



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不安になるのは好きだから。なんだか今一つ幸せではないおはなしになってしまいました、ご希望のものでなかったら申し訳ないです……
花さん、リクエストありがとうございました!


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