その解を求めよ




「数学を教えてください」

赤司くんの前で頭を下げてお願いした私を、彼は大きな瞳で見つめる。ほとんど感情の機微を表情に出さない赤司くんだがそれでも機械ではないのだから全く表れないなんてことはなくて。おずおずと頭を上げて見上げた時にほんのわずか動いた(…ような気がする、)赤司くんの表情筋を観察して彼が驚いているということを知った。

「…別に、構わないよ」

淡々と答える赤司くんはもしや怒っているのだろうかと思ってしまいそうになるが、今の彼は特に怒っていない…と、思う。これがデフォルトなのだ。対峙する度なぜか無意識に平謝りしてしまいたくなる威圧感にはいつまで経っても慣れなかったが、何故かそれを心地が悪いとは思わなかった。むしろ…、と思いつつある自分がおかしいような恐ろしいような。

…ところで私が彼にこんなお願いをした理由だが、恐ろしく単純明快だ。一週間前のテストで目も当てられないような点数を叩き出してしまったのである。赤点の数センチメートル上をギリギリで掠めていったようなその点数に流石に危機感を感じた私は悩んだ末に眉目秀麗成績優秀、文武両道を地で行く彼…現在進行形で半強制的に私の恋人を務めている赤司くんにお勉強をご教授賜るべく頭を下げたのだった。

「平日と土曜はずっと部活だもんね……今度の日曜、とか大丈夫かな」
「分かった」

そうして日曜の午後、部活が終わってから家に来てもらう約束を取りつけた私がひとまず取りかかったのは部屋の掃除。散らかった部屋を片付け、掃除機をかけ、当日は服もゆるゆるの部屋着からよそ行きの私服に着替えて私はどうにか異性に見られても恥ずかしくない状況を作り出すことに成功した。満を持して招き入れられた赤司くんは部活帰りのためクラブジャージのまま私の部屋に入り、私の出したお茶を飲んでふ、と短く息を吐く。

「えっと、そしたら…お願いします」
「ああ」

分からないところをチェックしようと思ったらチェックだらけになってしまった無残な参考書を開き、赤司くんに見せた。いくつもの問題を赤丸で囲んであるこの参考書を前に眉ひとつ動かさない赤司くんに少なからず感服する。私が彼の立場ならこれを見た瞬間帰りたいと思うだろう。机の脇にはまっさらのノートと説明用に使ってもらうためのメモ用紙も用意してあった。準備は万端だ。私はシャーペンを握ってやる気満々で勉強会に臨む。……というところまでは、よかったのだが。

「…ここをxと置いて」
「う、うん」
「この式に代入する」

数分後、私は落ち着かない気持ちでそわそわとシャーペンを紙面に走らせていた。心なしか速くなっている気がする鼓動の原因は恐らくこの距離にある。一冊の参考書とノートを二人で覗き込んでいる私と赤司くんの距離は否が応にも近くなってしまうのだ。決して広くはないが狭くもない部屋の中でわざわざ二人寄り添っているこの光景を客観的に見たら、と想像するだけで何とも言えない気持ちになる。ギリギリのところで触れ合わない肩、時折視界に入る髪の毛、手元に注がれる視線……そんなものがいちいち私から冷静さを奪ってやまない。泣きそうな気持ちでxに与式を代入しながら私は赤司くんの一挙一動にいちいち反応してちらちらと彼の方を伺っていた。

「……ここ、計算が違う」
「え、あ」
「11×11は121だ」

単純な計算ミスだった。みっつ並ぶ1を憎々しい気持ちで見つめて消しゴムで消す。…普段ならこんな間違いしないのに。悔しさや恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じながら式を消した消しゴムを置こうとすれば自分の肩に赤司くんの肩がこつんとぶつかり、どくんと一際強く心臓が脈打った気がした。ごめ、と謝ればああ、と短い返事。私はシャーペンを握り直す。紙面にぎこちなく121、と書き直した所で赤司くんが小さく嘆息するのを聞き、にわかに不安に駆られた。流石にこのミスには呆れられてしまったのだろうか。赤司くんの方を見ることが出来ず、ノートの紙面を見つめたまま視線を動かせない私の鼓膜を彼の声が揺らす。

「…どうしてそこまで意識する必要があるのか僕には分からないんだが」

緊張でうっすらと汗ばむ手からシャーペンを抜き取られて、その上に赤司くんの手が重ねられた。ぎゅっと握られた手のあたたかさに目を泳がせながら自分の手の上に赤司くんの手が重なっている有様を見つめることしか出来ない。赤司くんは私の手を握ったまま、ほんの少し呆れのようなものを滲ませた声色で続けた。

「そこまであからさまに意識されると流石にこちらもやりづらい」
「……う、ごめんなさ、」
「それとも何か期待してるのか?」

突然降ってきたとんでもない言葉に目を剥いた私が弾かれたように赤司くんの顔を見上げれば、微かに上がっている彼の口角が目に留まった。ごくごくたまにしか見せてくれない笑顔でこちらを見ている彼の顔を何も言えずに見つめる。…赤司くんのこの顔はずるい。こんな時ばかり彼はいつもその端整な顔で私に笑いかけるものだからこちらは心臓がいくつあっても足りなくなってしまうのだ。冷たくはないが見透かすような瞳に耐えられなくなって思わずふっと目線を逸らしてしまった。

「……面白がってる、?」
「さあ?でも」

そこで一旦言葉を切り、赤司くんは私の手の上に重ねていた手を私の頬へと移動させる。割れ物を触るかのごとくそっと私の頬を撫で、顔を自分の方へと向けさせた赤司くんは変わらず薄い笑みを浮かべたまま私に言った。

「僕はここへ来てからずっと"我慢"しているということだけ、伝えておくよ」

その言葉とともに額に触れたやわらかくてあたたかいものが何か、なんてことを考えたらそのまま血液が逆流でもして死んでしまいそうで、私はそこで考えるということを放り投げた。すんでのところで破裂を免れた心臓はそれでもばっくばっくと煩く鳩尾の少し上で騒ぎ続けている。

「……さあ、勉強しようか」

一体何の勉強を始めるというのかと聞きたくなるような、いっそ艶めかしさすら感じる彼の声にようやく私は"恋人"を部屋へ招き入れることの重大さを認識し、顔に集まっていた血がさあっと引いていくのを感じるのだった。


(120916)



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「愛のかたちを〜」の赤司とお部屋デート…ということで勉強会を開いてみました。聡くて鈍いヒロインちゃんと実は正しく下心のある赤司くん…のような、もの。
さのさん、リクエストありがとうございました!


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