きみのなみだで肺を満たして

 
 
 
※本誌ネタバレ&捏造
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
※WC洛山vs秀徳戦終了直後のおはなし
 
 
 
 あつしくん。ものすごく久しぶりに口にした名前は思ったよりもすんなりと私から発されて、おおよそ一年の時間を経てもこの三文字の名前が私の中でこれっぽっちも過去にならなかったことを思い知らされた気がした。懐かしいけだるさを全身から匂わせてゆっくり振り返った敦くんは私を見てその眠たげな瞳を大きくする。そしてぽろり、スナック菓子のかけらと一緒に私の名前が敦くんのくちびるのはしっこからこぼれおちるのを聞いた。懐かしい声色はまるで昨日聞いたみたいに鮮やかなまま私へ染み入って色々なものを呼び起こさせ、それだけでなんだか心臓が握り潰されたような気持ちになる。敦くんの隣を歩いていたきれいな顔の男の人が振り返り、私から敦くんの顔へと視線を滑らせた。
 
「アツシ、知り合いか?」
「うん、……俺の、彼女」
 
 敦くんの表情は、およそ恋人を紹介する時のそれとは言い難いものだった。…そりゃ、そうだよね。むろちんと呼ばれた彼は再び私に視線を移す。特に険が含まれている訳でもじろじろ観察する訳でもない、どちらかと言えば穏やかで悪意のない視線が私に注がれた。そして何の言葉も無しに私と敦くんの間に流れるただならぬ空気を察したらしい彼は、それ以上の追及や詮索を一切成さずにほんの少し困ったような微笑だけを浮かべると「先に行ってる」と敦くんに告げて、その場を後にした。どうやら彼はとても物分かりがいいみたいだ。
 
「あっち行こ」
 
 体の大きさに正しく比例する歩幅であっという間に私との距離を詰めた敦くん。く、と掴まれた腕を引かれる。相変わらず、びっくりするくらい大きな手。敦くんの目を見上げようと首を呷ったのに私の視界の中心に映っていたのは敦くんの前髪の先だった。身体に染みついた高低の感覚が裏切られ、そこにまたぽっかりと空いた時間の体積を感じてしまう。また少し背丈を伸ばした彼と、もう成長の止まってしまった自分。この構図が暗示するものは何だろうかとぼんやり考える。…答えは知っていたけれど。
 
 大きな身体で私から人波を遮るみたいに歩く敦くん。その間私に見えていたのは彼の広すぎる背中と風になびく藤色の髪の毛ぐらいで、手を引かれるまま敦くんの後ろを歩いて辿り着いたこの場所が体育館のどのあたりに位置するのかは今一つ判然としなかった。人気が無く暖房の空気が行き届かないその場所はほんの少し肌寒くて、衣服を通り抜けてひやりと素肌へ冷気が忍び寄るのを感じる。立ち止まった敦くんのジャージの裾をひっぱり、近くにあったベンチを指差しながら敦くんの顔を見上げた。
 
「座ろうよ」
「……ん、」
 
 二人でベンチに腰を下ろすと敦くんは私の手を取ってその大きな手ですっぽりと包んだ。つめたい、と簡素な感想を漏らした敦くんに冷え性だから、と短く返した私は敦くんの掌の感触に何故か責め立てられているような気持ちになる。言葉があるわけではない、けれどこの体温が何より雄弁に、私を責めていた。
 
「試合、見に来てたんだ」
「むろちんが見たいってゆーから」
「…そっか」
 
 緑間くんと赤司くん、頑張ってたね。そう言うと敦くんは一瞬だけ複雑そうな色をその顔に浮べたあとんー、と間延びした返事をこちらへ寄越した。そして何か言いかけてやめたような素振りを見せる。……俺の試合は見たの、という言葉を飲み込んだであろう敦くんは何も言わないまま私の手を握ってぼんやりとした表情で向かい側の壁を見つめていた。
 
「敦くん、ちょっと雰囲気変わったね」
「……なにそれー」
 
 どうして、と。その言葉を山ほど聞くことになるだろうと思っていた。彼は無垢だから。私の知っている彼は思うまま思うように、そのままの言葉を人に投げかける人間だったから。そしてそれは時に私へとろけそうなほどの幸福をもたらし、また時に息も止まるような痛みをもたらすのだ。これっぽっちの自覚も、無しに。
 
 …しかし今目の前でなんにも言わずに私の手をあたためている彼は私の知っている彼とは少し変わったように思う。……柔和、という程でもないが、なんだか少しだけ、やわらかくなったような気がする。何がというわけではないし、私が記憶の中で彼を辛辣に脚色してしまっていただけかも知れない。けれどその是非に関わらず、時間は私と彼の両脇を等しく過ぎ去っていったのだ。そのさなかで彼は何を見て、何を感じて、何を選び何を捨てたのだろう。私はそれを、しらない。
 
「まだ私のこと彼女って言ってくれるんだね」
「俺まだ別れたつもりねーし」
 
 私達が恋人と呼ばれるような関係にあったのは中学生の時。けれど私が都内の高校に、敦くんが秋田の高校に進学を決めた時からゆっくりと私達の心は離れていった。…いや、その前からとっくに私達は離れてしまっていたのかも知れない。気付かないうちに、白蟻が柱の中を食むように少しずつ虚ろになっていった感情は気付けばひどく空疎になってしまっていて、耐え切れなかった私は何も言わないまま彼に背を向けた。彼の声も、掌も、みんな振り切って彼の元から姿を消した。……なのに、内側に隙間風がひゅうひゅう吹き抜ける私の感情のその外皮だけは、いつまで経っても風化してくれなかったのだ。
 
「……敦くん、」
「別れようって言いに来たんでしょー」
 
 何でもないことのようにけろりと言ってのけた敦くんが横目で私を見る。その瞳は、私の記憶にある冷えた無垢を翻す駄々っ子のそれではなくて。幾分大人びて、そして少しだけ、あたたかさを含んでいる。あれほど覚悟を決めてきたのにいざ「別れ」というものが音になると肺が潰れそうな気分になって息を詰めながら静かに頷いた私に、敦くんは一言「いーよ」、と、そう答えて、するりと私の手を離した。あたたかい掌から放り出された私の手は指先を緩やかな冷気に食まれたまま微かに震える。
 
 なんて、なんて呆気無かったのだろう。嫌だと言われることを期待していた訳でもまた元通りに戻れるかも知れないなどと体の良いことを考えていた訳でもなかったのに、私はその場から動けなかった。そのくせ涙は出なかった。私は敦くんの言葉にうん、とだけ答え、その後は会話を交わさずにただ敦くんと隣り合ったまま天井の蛍光灯を見上げて目を閉じていた。瞼越しに蛍光灯の光がじらじらと眼球を焼く。
 
「……絶対さー、」
 
 数分の沈黙が続いたのち唐突に、敦くんが独り言でも言うみたいにぼんやりとした声色で声を発した。私は決して敦くんには視線をやらずに、壁にもたれて目を閉じたまま夢の中から話しかけてくるかのようなそのやわらかい声に耳を傾ける。
 
「絶対、また俺のこと好きって言わせるし」
 
 だから安心してよ。
 
 覇気が感じられないくせに折れる気なんて毛頭無い不遜さを含んだ言葉と一緒にふわっと全身があたたかいものに包まれる。薄っすらと瞼を上げると視界一面がむらさきいろだった。背中に回された逞しい腕がぎゅうっと私の体を締め付けるとラベンダー畑にでも飛び込んだような、夢みたいな藤色の視界がじわり、歪んで。つんと痛む鼻の奥に息を吐きながらその背に弱々しく手を伸ばした瞬間に胸のあたりで何かがぷつんと切れた。
 
 一年分の涙を涸らそうとするかのように泣き喚く私を抱き締めたまま敦くんがごめん、と謝るのを聞いた気がした。
 
 
(いつか必ず、もう一度恋に落ちよう)
 
 
(120903)

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