#8.銀さんの手の温度に
 
銀さんは無言でパラパラと問題集を捲る。
もう私に目線を寄越す気配は無かった。
握り込んだ私の掌は固まったように開かない。

「そこの女は、"これは自分のではない、此処には迷い込んだ"と言っている。」
黒髪の男が煙草の煙を吐きながら答える。
我ながら、言い訳にするには苦しいと思う。
だって本当は、自分から問題集を預かったし、此処には攘夷志士のエリザベスさんに会いに来た。
呆れているのか、銀さんは黙ったままだ。
「そもそも、こんなの持ってる事がおかしいし、此処にいるものおかしいんでさァ。警察として職質すんのは当然でしょう?」
「…そうかもな。」
やっと口を開いた銀さんは肯定の言葉を返した。
三対一。
その数字的な事実より、銀さんに嫌われてしまったかもしれない事実の方が苦しい。
私が鼻を啜ったのと、銀さんが再び私を見たのはほぼ同時だった。

「好奇心強ェのは良い事だけど、もうこんなとこに迷い込むなよ?」
「………えっ、」
軽蔑の言葉が降ってくるのかと思っていた。
だから、銀さんの声が優しかった事に驚いたし、言葉の意味を理解してまた驚いた。
「つー訳で、本人も泣くほど反省してるみてェだし、もう帰してやれば?」
「テメェ、それはコイツを見逃せって言ってンのか!?」
黒髪の男が銀さんの胸ぐらを掴む。
「あれ?そう聞こえなかった?」
銀さんは何でもないような涼しい顔をして、男の手を払った。
「旦那ァ、そいつの言葉を信じろってのは無理がありやせんか?」
「無理も何も、本人が迷い込んだっつーンなら、そうなんだろ。入っちまったモンは仕方無ェじゃん。次は気を付けりゃいいだけだろ?」
「ふざけんな!問題はそっちじゃねェんだよ!…それをどう説明するつもりだ。」
それ、とは銀さんが持ったままの問題集だ。
道を間違えたというのは、真偽が証明出来ないから堂々巡りになるけれど、問題集は違う。
それは確かに存在するし、それをさっきまで持っていたのは私だというのは現実だ。
「コイツの持ち物じゃねェよ。…な、これ読める?」
銀さんが私に指差しで示したのは、真選組、という読み仮名を書く問題。
「えっと、しんせんぐみ、ですよね?」
「それ以外の読み方は?もっとちゃんとしたやつ。」
「えぇっ!?…あ、とくしゅぶそうけいさつしんせんぐみ、ですか?」
「違う違う。もっとコイツらの事よく見て。最初の文字は『か』。」
「『か』!?か、か、か、カリスマ…??」
私の答えを聞いて、銀さんは噴き出した。
初めて見た時は一般常識問題だと思っていたけど、当て字問題だったのかもしれない。
銀さんが答えを知っているようなのが不思議だった。
もしかして、テレビのクイズ番組とかでやってたのかもしれない。
「カリスマだってさ、良かったね。そんな言葉、攘夷志士だったら絶対死んでも言わねェよ?」
にたりと笑う銀さんに舌打ちをしながら黒髪の男が言う。
「…じゃあ、持ち主でもねェ本をその女が大事そうに持ってた理由は何だ。」
「忘れモンだろ?それを持ち主に返す為に預かってただけだ。」
「ほう…?なら、その返却に立ち合わせて貰えれば見逃してやれるかもしれねェな?」
今度は黒髪の男が笑う番だった。
それもそのはず、持ち主は攘夷志士以外にありえない。
私を利用して攘夷志士を捕まえようという算段なのだろう。
(どうしたら良い?せっかく銀さんが私を庇おうとしてくれてるのに…。)
そこまで考えて、ふと疑問が湧いた。
(落ちているのを拾った、じゃなくて、忘れ物?)
自然なのは、迷い込んだ路地でたまたま問題集を拾った、というシナリオだったかもしれない。
でもそれは証明出来ない事だらけ。
私の疑いは恐らく晴れない。
真選組を納得させるには至らないに違いなかった。
「立ち合い?あぁ、そりゃ良かった。これで晴れて見逃してくれンのな。」
「…それはどういう意味ですかィ、旦那。」
「そのまんまだけど?これ、俺の。いやぁ、騒がしちまって悪かったな。…ほら、帰って良いってさ。」
銀さんはそう言いながら、真選組側にいた私の腕を引いて、自分の背中に隠すように誘導する。
不謹慎にも、私は銀さんの手の温度にドキドキしてしまった。
私のすぐ後ろには路地裏の入口、いや、この場合は出口なのかもしれない。
「あァ!?自分が何言ってるのか分かってンのか!?その女の素性が不明のまま見逃せるかよ!」
「かぶき町にある行き付けの居酒屋店員だよ、善良な一般市民。俺が店に忘れて、中身説明せずに預かっててもらってたの。まさかお前らに職質されるとは思ってなかったけどなァ。」
「銀さん…っ、」
私を助ける為に全部一人で背負うつもりなんだと気付いて、思わず名前を呼んだけど、銀さんはこっそり私にしか見えないように口元で人差し指を立てた。
まるで、子供が内緒話をするみたいに。
「ほら、後は俺に任せて帰った帰った。面倒くせェ事に巻き込んでごめんな?コイツらが後をつけないように足止めしとくから安心して帰りな。…また今度、飲みに行くから。」
何か言いたげな真選組の視線を無視して、銀さんは私の背中を軽く押した。
私は銀さんの背中に深く頭を下げて、小走りで路地から出た。


最低だ、私。
銀さんを見捨ててあの場から言われるまま逃げた。
私に向けられた容疑を全部引っくるめて背負ってくれたのに。
あれでは、銀さんが攘夷志士だって事になってしまう。
もしかしたら拷問に掛けられるかもしれない。
それを思うと、私の足は動かなくなる。
(戻って、銀さんは関係無いって言いに行きたい。)
何度もそれを考えては足を止め、少し歩いてはまた足を止めてしまう。
それでも私は、引き返すわけにはいかなかった。
そうしないと、逃げないと、…私は桂さんを守れない。
本当に最低だ。
桂さんを言い訳にしてる。
(怖かった…。あの場所から離れられて、私はホッとしてる…。)
振り返っても、あの路地は夜の暗さが手伝ってもう見えなくなった。
(…銀さん、大丈夫かな。)
真選組の口ぶりからすると、銀さんとは知り合いなのかもしれない。
銀さんはお話が上手だ。
さっきだって、気付いたら皆銀さんの言葉に誘導されて、私はこの場所にいる。
もちろん、真選組が私に抱いた不信感全てが払拭された訳ではないだろうけれど。
("かぶき町"の"居酒屋店員"…。私の素性も全部隠してくれた…。)
その場しのぎだけじゃなくて、これからの私の事も考えてくれた。
("また飲みに行くから"って言ってた。きっとお店に来てくれる…。その時にちゃんとお礼をしなくちゃ。)
それを信じて、私は何とか足を動かす。


私が泣き腫らした顔で帰ってきたものだから、桂さんはすごく驚いていた。
エリザベスさんに手紙を渡せた事、真選組に捕まりそうになった事、だけど大好きな人に助けられた事を手短に伝えた。
「何はともあれ、真弓殿が無事に戻ってきてくれて安心した。…怖かったろう?」
桂さんは私と目線の高さを合わせて、しっかり見つめてそう言った。
「心から感謝はするが、もう優先順位を間違えないでくれ。まずは真弓殿の安全が一番だ。それさえ確保出来ているなら、俺の居場所がバレようと、ここから追い出されようと、真弓殿に裏切られようと構わない。」
「桂さん…。ごめんなさい…。」
私は感謝されるようなことは何も出来ていない。
桂さんを困らせ、銀さんにはとんでもない迷惑を掛けた。
(任せてって言ったのに。泣いたって困らせるだけだって分かってるのに。)
俯いてまた泣いてしまう私の肩を、桂さんが優しく抱き寄せる。
「真弓殿を助けてくれた男には、いずれ俺からも礼を言おう。その状況で真弓殿は頑張った。…今日はゆっくり風呂に浸かって、もう休むといい。」
「……はい。」
どれだけ泣いたところで、起きたことは変わらない。
エリザベスさんにはしっかり手紙を渡せたし、桂さんの無事も伝えられた。
真選組に疑われたけれど、私は自分も桂さんも守ることが出来た。
…つまり、私が後悔しているのは。
銀さんに余計な迷惑を掛けて、逃がしてもらったことだ。
(どうか、無事でいてください…。)
私には銀さんが言ってくれた「また」を信じることしか出来なかった。


お風呂に入って、湯船でぼんやりしていたら少し気持ちが落ち着いてきた気がする。
(ただの行き付けの甘味処の店員が警察に囲まれてたって、普通は助けてくれないよね…。少しくらいは特別な気持ちを持ってくれてるって事なのかな…。違うか、だって銀さんは誰にでも優しい人だし。…彼女、いたし。ううん、彼女かどうかは確かに分からないけど、でも、)
「真弓殿。」
「!?」
浴室の扉越しに桂さんの声がした。
「なっ、何ですか!?」
「突然すまない。さすがに二時間出てこないから、溺れているんじゃないかと思ってな。」
「二時間!?い、今あがりますっ!」
桂さんが脱衣所から出ていった気配を感じてお風呂から上がる。
言われるまで自覚しなかったけど、のぼせてるのか、少し頭がふわふわする。
私はバスタオルを体に巻いてから蹲って、気持ち悪い浮遊感をやり過ごした。
(考え事してて自分の体調に気付かないなんて…。これは、桂さんが声掛けてくれなかったら本当に溺れてたかも…。)
その時、浴室の戸が少しだけ開いた。
「水を置いておくから、落ち着いたら飲んでくれ。」
隙間から桂さんの腕が滑り込み、水の入ったコップが床に置かれた。
「うぅ…何から何まですみません…。」
私はすっかり桂さんに介抱されながら、熱が引いた頃合いで浴室から出たのだった。


「さっきはありがとうございました…。あ、そうそう。これ、桂さんに。」
私は濡れた髪を拭きながら、鞄からあるものを取り出す。
「これは…?」
「うちの制服です。余ってた一番大きいやつ借りてきたんです、ギリギリ桂さんなら着れるかなと思って。デザインも性別問いませんし。…あと、そっちはコンビニで買ってきた下着です。」
「かたじけない。」
桂さんはお礼を言うと、私から見えない位置に移動して制服に袖を通し始めた。
一応これで衣服関係は解決かな?
「これで合ってるか?」
桂さんは私の前に移動してきて、くるりと身を翻した。
「バッチリです!看板娘になれそうなくらい似合ってます。」
「いや、そこまで似合わなくても良いんだが…。」
桂さんは苦笑しながら、纏っていたシーツを畳み始めた。
「あ、あの、チャイナ服なんですけど…。一応手洗いしてから洗濯機に入れてみたんですけど、血が落ちきらなくて…。」
「みたいだな。それはもう処分してくれて構わない」
少しもったいない気もするけど、もう服として着るのは難しそうだ。
私は少し悩んでから、捨てるのをやめて箪笥の中にしまった。

寝る為に布団に入ったものの、目を瞑ると路地裏のやり取りを思い出してなかなか寝付けなかった。
どうしても落ち着かなくなって、私は布団から抜け出し間仕切りを開けた。
暗闇に溶け込んでいるが、桂さんが寝ている姿が見える。
(当たり前なんだけど…、いるって分かると安心する。)
私は音を立てないように這うようにして桂さんに近付く。
(綺麗な人だと思ってたけど、寝顔なんてお人形さんみたい…。)
マジマジと見つめていると、突然パチリと目が開いた。
「…どうした?夜這いでもしにきたのか?」
「! 起きていたんですか!?」
桂さんは柔らかい声で、寝ているとも言ってないな、と笑った。
「眠れないなら添い寝でもしてやろうか?」
「結構ですッ!…、でも、…近くで寝ても良いですか?」
桂さんは冗談で言ったのだろうけど、近くにいたいのは私の本心だ。
「いや、それ自体は構わんが、」
言いかける桂さんの言葉を途中まで聞いたところで、私は枕と掛け布団を抱えて戻る。
玄関から間仕切りまでの廊下は二人が並んで眠る程のスペースは無いから、私は桂さんの頭側に布団を広げた。
「…本当にここで寝るつもりか?何度も言うが、」
「今日は何も言わずに甘えさせてください、お母さん。」
桂さんは"俺も男だ"と前みたいに言おうとしたのだろうけど、私は"お母さん"という言葉でそれを制した。
私は寝袋のように掛け布団をくるりと巻き付けそのまま横になる。
「まったく、困った娘だ。…おやすみ。」
観念したのか桂さんはポンポンと布団越しに私を撫でた。
自分でもビックリするほどそれに安心して、自然と眠りに落ちていく。
(次、銀さんに会えたら沢山謝って、沢山お礼を言って、沢山甘味をサービスするんだ…!)
意識を手放す直前まで考えていたのはそんな事だった。


この時の私は、まだ知らない。
本名を知らない。呼び名が銀さんという事だけ。
年齢も知らない。二十代後半くらいかなと思ってる。
住所も知らない。職場はかぶき町らしい。
職業も知らない。お店にくる時間も曜日もバラバラ。
これから知っていけたら良いって思ってた私の知らない事。

本当に知らなかった。
今日が私と銀さんの関係の分岐点だったって事を。


next

 
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -