空契 | ナノ
31.僕と君が歩む道 (2/6)

    
   

   

アイクに突き飛ばされるような形で放り込まれたレオが借りている部屋は、暖房が効いていて暖かかった。
ナミが寒いのが苦手というレオの為に暖房を入れ、そしてサヨリが何処からか加湿器を持ってきた。サヨリはよく分からないが、少なくともナミは心配なのだろう。アイクも知らない。自分、は、

『……心配、だよ……』

自分のせいで、こうなってしまったのに。
───いや、そうじゃない。それだけで、自分は彼女を心配している訳じゃない。誤魔化すなと言い聞かせて、どうにかして逃げ出そうとしている弱い自分を押し込める。
そんな自分が大嫌いだ。苛立ちげにそう呟いたユウの耳に、声が届いた。ぴくりと細長い耳を揺らして、顔を上げる。

「…っ…、………!…」
『……レオ……?』

呻き声が聞こえてきてユウは慌ててベッドに飛び乗った。ぎしりと揺れたベッド。
そこに身を寝かせて毛布を掛けられた少女は、まだ意識は戻ってはいないようだった。しかし、頬を涙のように流れていく汗に、苦しげに寄せられた眉。瞼を震わせているその姿。───なにかに追い詰められているような、辛そうな顔。

『レオ……レオ………夢を、みてるの……?』

顔を覗き込んで問うも、返事はなく代わりにか細い声と吐息、かたかたと震えている肢体があるのみだ。
───夢を視て、魘されているレオは、何度か見たことがある。
いつも低く呻いては、冷や汗をかいている姿を、共に旅をしている時は、ほぼ毎日のように見ていた。

ある日……その事について、尋ねたことがある。悪夢を視ているのではないか。どんな夢なのか。すると、彼女は「そうだった?」と本気で驚いたような顔をして首を傾げてきた。───曰く、内容も、視たという事実すらも覚えていない、らしい。
まぁ、夢というのはそんなものだろうと気にはしていなかった。だが、それはまだマシな方だったから。

今は──────違う。

今のレオは、まるで……世界の終わりのような絶望的な顔をしている。そして、子供のように───否、子供らしく、泣きそうな顔だ。
普段の夢を視ている顔より、それは厳しく、苦しく、険しく、悲しそうである。

『…レオ……!』

額に触れて彼女の名前を呼ぶと、ぴくりと長い右眼の睫毛が揺れた。
はやく、はやく、彼女を絡めとっているだろう闇から引き上げたい一心だったユウの、足に、何かが触れる。見れば……レオの手だった。
小刻みに震え、力なく空中をさ迷うその手が、ユウは助けを求めているようにしか見えなくて思わず掴む。その瞳は動揺で揺れていた。

普段あんなに明るく振る舞う彼女が、今はこんなにも幼く……壊れてしまいそうに見える。溺れてしまいそうに見える。もしかして、ずっと表に出していないだけで溜め込んでいて、こんなにもなってしまっている?
自分が、彼女を追い込んでしまったから? 精神に隙をつくらせてしまった?

「……、ん…………」
『レオ……?』

「、れい…………ゆかり……、
ぇ…ん…………、」

れい、ゆかり、そして、えん。
レオの乾いた唇から、汗と共に零れ落ちたそれらは誰かの名前らしい。少なくともユウは知らない名前で、その後彼女は───「ごめ…な、さ……ぃ」───そう、懺悔するように、途切れ途切れに囁く。
ぽたり、と、白いシーツに、涙に見えた汗が一筋落ちていった。
ぎゅぅ、強く、ユウが掴んだ汗ばんだ手に力が込められ大きく震える。

レイ、ユカリ、エン、
それが誰かは勿論分からないが、今レオが視ている夢は、その者達が関わるのだろうか。普段はこんな呟きなど残さない。
やはり、そこまで弱っていたのか。そして、更にここまでレオをぐしゃぐしゃに歪ませる程───今視ているだろう夢は、恐ろしいのか。ならば尚更だ。助けないと。今すぐ、そこから引っ張り出さなければ。
目が覚めるまで待つつもりだったが、それどころではないと掴んだ手に自身の額を押し付けた。

『レオ、ねぇ、お願い、レオ……!
帰ってきてよ……』


話したいことがあるんだ。
悲しいのなら、恐ろしいのなら、そんな闇の中で吐き出してないで、自分の前で吐き出してほしい。そう思ってしまうのは僕の我が儘なのだろうか。

『でも……』

これが僕が……、





「ん……、……っー……」

自嘲気味に呟いたそれが、届いたのか。
はぁと深く吐かれた息に紛れて、聞こえた声と共に、ぴくりと一瞬瞼が痙攣するように開かれた。
何度か瞬きを繰り返して、右眼の眼球は宙をさ迷い、脳細胞はまだ起きてはいない。気だるそうに息を吐き出しながら、彼女はユウに掴まれていない方の手の甲で、汗で濡れた額を拭った。
その一々の動作が遅く、明らかに意識と肉体のケーブルはまだきちんと結ばれていないようである。
しかし、さ迷う右眼はぼーっとユウの方向を向いた。

「……ゆ…ぅ…?」
『っ、そうだよレオ……』
「…………ゆー……おはよー……。
おっきくなったなぁ……」
『あ、うん……寝惚けてるね……』

頭を撫でてくるレオの手は汗ばんで冷たく震えていたが、へにゃんと破顔した表情を見たら何も言えなくなった。
だらしなく緩んだその頬をつねって呆れたい所だが、レオらしい。……安心できてほっと笑った。冷えきった頬と指先、流れる汗、今だ止まっていない震え、引き攣った眉……痛々しく見えるが、いつも通りへらりと笑おうとしてくれている事が、せめてもの救いだ。

『……大丈夫? レオ……魘されてたよ』

いつもより、もしかしたら酷く。
レオは今だ脳内を泥水の中に沈めて意識は覚醒していないらしく、反応は曖昧な口調だった。

「…ん……そう、か…もなぁ………」
『………どんな、夢だったの?
辛そう、だったけど…』

「……んー………そーかなぁ……。
…しあわせ、な、夢だった……気がするけど」

おぼえてないや。へらりと笑った彼女の瞳は、驚くほど穏やかだった。先程まであんなに魘されていた人とは思えない顔付きなくせに、やっぱり手は震えている。

『……、』
「キミは、なんでここにいるんだ……?」
『あ……、』

更に質問を投げ掛けようと口を開いたユウには気付かず、レオが先に言葉を発した。
空色の右眼は、静かな感情を浮かべたまま天井を見詰める。静かに笑む唇。───レオはぼんやりとだが、徐々に状況を把握していた。普段は思い出すのにいくらか時間がかかるが……自分が眠りにつく前までの記憶───それを、少しずつ少しずつと手繰り寄せていく。……そうだ、自分はユウをポケモンセンターに預けたのだ。ボロボロになった、この子を。棄ててしまった、この子を。

「……すてたのに……なんで、ここにいるのさ……」
『……帰ろう、って……言ったのはレオだよ……』

ああ、そうだったかもしれない。お互い帰る場所が、こんな場所なわけないのに、そう言ったのは自分自身だ。
手の甲で目を擦りながら、彼女は頷く。

「でもさ…………本当に、なんで…。
すてたのは、俺だろ。キミを突き放したのは、俺だろ」

最低なのは、全部自分自身で、そのエゴでユウを傷付けた。
その彼女の考えに、ユウは思わず笑ってしまいそうになった。……考えている事は、同じだった。

『……すてたのは、僕。キミを突き放したのも、僕。逃げたのは、僕』

自身もそういう認識だった。
ごめんね。小さな声で言って、握ったまま離せなくなった彼女の手に顔を押し付ける。静かに空色の右眼が向く。ピカチュウになって大きくなったように見えたその身体を震わせる姿は、やはりまだ小さく見える。

『……ごめんね……。
僕の話……少し、聞いてもらっていいかな……?』

「……」

いいよと言うように、レオが彼の頭を優しく撫でると、ユウはほっとしたように俯き、ぼそぼそと自身の話を紡ぎだした。
いくらか前の、過去の話である。
季節なんて覚えていない。それくらいどうでもよかった、否、思い出したくなかった、どうでもいいと関係ないと思いたかった、自身の過去だ。
かち、こち、かち、こち……、時計の秒針が時を進める音をいくつか聞いてから、小さく息を吸うと、彼はそれを語りだした。

『……ぼく、はね、
何処かの町の、何処かの女の子の元で、卵として産まれたピチューだったんだ』


ありふれた町の風景。ありふれた少女。ありふれた誕生。そして、自身もありふれた才しか恵まれなかった。

『僕ね、弱かった。
その女の子の事は、嫌いじゃなかったんだけどさ……僕は、誰にも勝つことができなくて……ずっと、弱かった』


あの時はずっと自分のせいだと思っていたのは、ユウ本人もだったが、そのトレーナーである少女もだった。
だが、今思えばそれは違って、少女もありふれた才しか持ち合わせておらず、レオのようなバトルを作り上げる事ができなかったのも、敗北し続けた理由だろう。
まぁ、今となってはそんな事をどうこう言ったとしても、何も変わらないのだが。
ユウはある時、捨てられる事になった。

『いらないって、捨てられたんだ。
弱すぎるからって。……性格も悪かったしね……』


好かれなかった。
当時はその事実に酷くショックを受けていた。
そんなユウを、とある組織が捕獲する。それは俗に言う、ポケモンハンターだった。

『ピチューって、野生であまりいないんだってね。
だからか捕まってさ……売られそうになったけど、まぁ、弱くて、性格悪くて、可愛げもないこんなピチューの事なんて、誰も買うことはなくてさ』


ここでも、いらないと言われた。
いらない存在だと言われた。言って、そのポケモンハンターはピチューをまた違う組織に売り付けようとしていたらしい。そこはポケモンを使って実験を繰り返していた組織であり、彼の危機感を煽るのは十分だった。
彼は、脱走を試みた。

『死ぬ気で、逃げたよ。
檻を壊して、ボロボロになって、汚くなって、それでも失敗したら死ぬのが目に見えてたから、生きて、生きて、生きて、逃げたんだ』


───特に重要なポケモンだった訳でもない、弱くて情けないピチュー。
それを必要以上にそのポケモンハンターが追ってくることは、なかった。

─────その事実すらも、心に亀裂を生ます。



    
    

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