番外編 | ナノ
桜吹雪のない空 (3/13)

   




「…シンオウ地方…か…」


太陽が傾き、赤い光が少しだけ輝きはじめた空の下。
その街にやってきた、ひとりの旅人は困ったように苦笑して呟いた。

旅人を囲む街並みは至って普通。
高いビルが肩を並べるように建っており、飲食店や雑貨屋、サロンや宿泊所など…、どこにでもありそうな街だ。
そして、その街を歩く者達も至って普通。
少なくとも、旅人────サクラには、当たり前の光景だった。
ただ、しかし、今回はそれが問題だった。

サクラは帽子を深々と被ると、街の人込みに紛れ歩き出す。
何千人、何万人と人々に踏まれるアスファルトの上を、同じように踏みしめる白と赤のランニングシューズ。
長く細い足にフィットして、動きやすそうな藍色のジーンズ。旅人にとって大切な物が収用されている、ウェストバック。
橙色のワイシャツの上に羽織られた水色の上着と、胸元で輝く十字架ネックレスが動く度にゆらゆら揺れる。
辺りを注意深そうに見渡す、帽子の下から覗いていた────ダークブラウンの意志の強そうな瞳。
そして、肩にちょこんと乗った、尻尾がハート形のピカチュウ。

総じて、その旅人に違和感はなく、この街に溶け込んでいた。
あえて言うのなら、耳に見慣れない、美しく不思議な素材で作られていると見られる、イヤリングを両耳にしている事くらいだが、あまり目立つ事はない。

それが、やはりサクラにとっては不可解なのだ。

「…なぁ、ピカチュウ?」
『なに? どうかしたのサクラ』

サクラが呼び掛けると、肩に乗ったピカチュウが応えた。
普通の人間には、ピカピカ言っているようにしか聞こえないが…耳のイヤホンから、その声は聞こえた。
明るい印象を受ける、少女らしき声だ。
それに慣れた様子でサクラは続けた。


「…あたし、さっき“鍵”使ったよな…」
『あーうん。使ったな』
「だとしたら、
“ここは異世界だよな”」
『うん。多分?』
「…“異世界”な筈なのに、何で“見慣れた風景”なんだ?」
『……うん』
「………………試しにピカチュウ出してみたのに、
何で誰も“気にしてない”んだ?」
『………………』
「何で、
ポケモンが存在してるんだ?
『…………うん』

その小声で行われた会話は、まず普通の人間には理解できないだろう。
そもそも─────ピカチュウの声を聞き取れる人間がいない筈である。
だから、

『……この“異世界”は、
“ポケモンの世界”なのかもな』

そうピカチュウが呟かれた言葉は、サクラのみ届き、霧散した。

否、する筈だった。

────呟きはざわりと揺れた風に流れる。と、同時にゆらりとサクラのペンダントを揺らした、その風は、
彼女らとすれ違ったばかりの通行人の、藍色の髪を揺らす…。



「────…“異世界”?」



ざわざわと騒音が支配する街中人混み中、歩みを止めてサクラの背を顧みた1人の少女。誰に向ける訳もなく笑みを浮かべた唇から、ぽつりと零れ落ちた呟きは今度こそ誰の耳にも届かず、霧散した。

その様子を楽しむように、少女は右足を軸にくるりと回ると、さっき歩いてきた方向─────サクラが歩いていった方向へと、歩みを始めた。
タッ、タッ、タッという、軽い足取りで。



  

 
      

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